院内は先程訪れた時よりも少しだけ落ち着いたようだった。 それでもいつもよりいくらかバタバタしていて、忙しなく看護師さんたちが廊下や階段を行き来している。 受付に声をかけた。ついさっきお兄ちゃんのお見舞いで訪れたばかりだから、受付の看護師さんは見覚えがあるといった表情で「あら、」と声を洩らす。 「すみません、あの」 「さっきの子よね?笹川さんの…何か忘れ物ですか?」 「いえ、お兄ちゃんではなくて、…水湖先生に、お話が…」 「水湖先生にですか?あら…今日は来客が多いのね…」 「え?」 「ちょっと待ってくださいね。…ああ、いま丁度オペも診察も入ってませんから大丈夫そうです。水湖先生の診察室は分かりますか?」 「え、あ、は、はい。あの、」 「はい?」 「私たちの他にも、水湖先生を訪れた人がいるんですか?」 受付の看護師さんは一瞬目を見開いて、青ざめた表情をした。 それからやや伏し目がちに、こう言った。 「雲雀…恭弥さん、が」 「雲雀さんですか!?」 「しっ、静かに…!」 まるで不吉な言葉でも言ったかのように慌てて私の声を抑えさせる看護師さん。 私の隣で、有香ちゃんもさぁっと青ざめる。反対隣で、花は思案顔を浮かべた。 「雲雀が…?」 「花…?」 「あの。雲雀はそのあと何を聞いたんですか?」 「わ…分かりません。そのあとすぐ水湖先生が来て、診察室で話をすると…」 「……分かりました。ありがとうございます。 行くよ、京子」 「あ、うん!」 花が歩き出して、それに続くように私と有香ちゃんが追い掛ける。 さっき来たばかりの院内通路をせかせかと歩く私たちの横を、また患者さんが運ばれていく。 ………羽無、 もう痛い思いも、怖い思いも、してほしくないよ。 どうか、無事でいてね。 コンコン、くぐもったノック音が鳴り響く。 「はい」そう返事がして少しすると、診察室の扉がガラリと開かれた。 「あら…、京子ちゃんに花ちゃん。………青島さんまで。何のご用かしら」 水湖先生は、もう一度私たちが来るとは思っていなかったのか、驚いた表情をしたあと、私の隣に立つ有香ちゃんに目を細めた。 有香ちゃんの反応からして、水湖先生と有香ちゃんは面識がないはずなのに。はっきりとした口調で名前を言って、確かに睨んでいる。 「…悪いけど、さっきも言ったでしょう?私からあなたたちに教えてあげられることは何もないわ」 苦虫を噛んだような複雑な表情をした水湖先生は、そのまま扉を閉めようとした。 戸惑っていた私とは裏腹に、花が咄嗟に扉の持ち手を握る。 「待ってください」 「…何?」 「あなた、何か隠してますよね?例えば…… 羽無の、居場所」 「…教えられることはないわ」 「隠さなきゃいけないからでしょう?」 「…………」 「あの雲雀は追い返されることなくあなたの診察室で話を聞いた。雲雀に話せて私たちに話せないこと、そんなの羽無に関わることしかない」 「…………」 「教えてください。羽無はいま、何に巻き込まれているんですか」 水湖先生と、花の視線が交錯する。 私も、言う。 「羽無は大切な友達なんです。また、私の知らないところで羽無がつらい思いをしているの、嫌なんです! 水湖先生、教えてください…っ」 「………」 「教えて、…ください。」 ぽつり。 俯いたまま、静かに、けれどはっきりと言ったのは有香ちゃん。 「羽無に、謝りたいんです。仲直り出来るような簡単に埋まる溝じゃないってわかってます。 それでも、謝りたいんです。許してもらえなくても、いいんです… 羽無に、ごめんなさいが、言いたい…っ」 有香ちゃんは、震えていた。 でも、その意志は確かに伝わってくる。 水湖先生は、有香ちゃんを見てふぅと一息、扉の持ち手から手を離した。 「……入りなさい」 こうしてみて初めて気付くんだ。 私たち、ちっとも羽無のことを知らない。 一番力になりたいのに。 一番そばにいたいのに。 羽無が大好きだから。 *** 「全部は話せないわ」 落ち着くところもなく、三人で棒立ちになっていると、水湖先生は「ベッドでよければ座って」と診察室内の小さなベッドを指した。 座る、と。先生は、事務机の引き出しからあるものを取り出した。 折れ曲がった安全ピンのついた、風紀委員会の腕章。 「それ…っ!」 「…羽無が、いつもつけてたやつ…」 「…………」 有香ちゃんは、唇を噛みながらじっと先生の手の中のそれを見つめる。 先生は、そんな彼女を横目にちらりと見やると、小さく息を洩らした。 「通報を受けて救急車で運ばれて、ここに着くまで。羽無ちゃんは、握って放さなかったそうよ」 「…………」 「ピンが刺さって血が出てるのに。ずっと、ずっと握り締めてた」 埃と血痕で汚れた風紀の腕章。 羽無は、毎日欠かさず着けていた。 最初こそ他の生徒や先生に避けられるし雑用させられるしで疫病神みたいだって言ってたけど、いつからか羽無はこの腕章を誇らしそうに見つめていた。 本当に、楽しそうに笑ってた。 「あの子は、自分の過去を…いじめを受けたというトラウマを、雲雀さんに知られたくなかった」 水湖先生が、ぽつりと言った。 「弱者を嫌う彼に、遠ざけられることを恐れてた。だから、やがては彼の耳に情報が流れてしまうようなツテに、自分の現状を知らせることをしなかった。 …たとえあなたたちのような、大切な友達だとしても」 「…でも、知らせたところで、あたしたちに他のやつには言わないで≠ニ言えばそれで良かったんじゃ…」 「そう簡単なことでもないの。羽無ちゃんは、一度いじめが原因で人間不信にまで陥った経験がある。不安定な精神状態で、普段通り他人に振る舞うことの方が、彼女にとって難しかったに違いないわ」 先生の言う通りだった。 お見舞いに行ったにも関わらず、面会拒絶されてしょげながらお兄ちゃんと帰った日を思い出した。 「あの子は、また自分の居場所がなくなってしまうことに、酷く怯えている」 あの子が思うほど、それも脆く出来てないんだけどね。 柔らかい苦笑に、羽無への愛情が見てとれた。 幼い頃の、一番危険で不安定なぼろぼろの心を持っていた羽無の、一番傍にいた人。 あの頃と同じ、この人は、純粋にただ、羽無を心配して、思いやっている。 「無断欠席をしていた期間、彼女はこの病院に仮名で入院、療養をしていたよ。時折、遠い目をして、何かを考えながら」 「……じゃあ、羽無はずっと…並盛に、ここに居たんですね…」 「えぇ」 「なら、羽無は、いま何処に?」 「…………それは、」 瞬間、曇る先生の表情。 え、と一同に不穏な空気が流れる。 「………あの、」 口を開いたのは、有香ちゃん。 「今並盛で起きている騒ぎと、何か関係があるんですか」 「…分からない。でも、今の羽無ちゃんの居場所は、私にもわからない」 瞠目した。 せっかく近くにいたことがわかったのに、また、何処かに。 何処に行っちゃったの、羽無。 「ただ、確かなのは、羽無ちゃんはきっと帰ってくるってこと」 「…?」 「あの…、」 「それはどういう、」 「雲雀さんが、彼女を探しに行ったから」 私のところに来た理由は、あなたたちと同じ。無断欠席の期間の羽無ちゃんの所在を確かめに来たの。 眉尻を下げながら口角をゆるく上げる水湖先生。 でも、と私が口をつぐむと、ため息混じりの苦笑を浮かべたまま続けた。 「えぇ…、羽無ちゃんはここにいた理由を隠したかったから、所在地を隠していたのに…隠し通したかった本人が尋ねに来てしまった。追い返そうにも羽無ちゃんは居ないし、私も戸惑ったの」 「…話しちゃったんですか?」 「…………まーね」 然して反省していなさそうに微笑う先生は、はぁ!?と思わず声を上げる花にくすり、と声を漏らして言った。 「だってこのままじゃ事態もあの子達も進展しそうにないんだもの」 「……羽無たち?」 「雲雀さんだから、話したのよ。彼ならきっと羽無ちゃんを、」 そこで言葉を切って、視線を俯かせる先生。 優しい声音だった。 「信じて、待ちましょう。私たちにいま出来るのはそれくらいよ」 「……っ」 「あの子が帰ってきたら、あなたたちにしか出来ないことを。精一杯叱って、優しく包んであげてね」 有香ちゃんは、決心したように重く頷いた。 [prev] [next] back |