ごしごしと音が出そうなくらいに勢いよく眦の涙を拭うと、傷に触れないように気を失った彼の頬に優しく唇を触れさせた。
イタリア式の挨拶。嗚呼、そういえば君、イタリアの血があるだけじゃなくてイタリアで住んでた時期もあるって言ってましたね。


泣き虫な君のことだから、ボロボロ泣いて懇願するんだろう。
そう思っていましたが、


「ちゃんと、…り、さん、…お別れ、す…から」



そう言った君が、あまりにも綺麗に微笑うから。
泣きそうなのを堪える表情は欠片も見られなくて。ただ、本当に綺麗に、微笑っていたから。


どうして微笑える?
君は、


どうして。


訳がわからない。ぐちゃぐちゃの思いを言の葉に乗せてみれば、強がりのような怒りが洩れただけだった。


挨拶を終えて僕を振り返る羽無。擦った目が少し腫れているくらいで、浮かべている表情はさっきと同じ晴れやかな笑顔。



「むく、ろ。……りがと」


お別れを、させてくれて。途切れ途切れに言う君が柔らかく目を細める。



「もういいですよ。…彼、漸く気絶したみたいですから、さっさと邪魔にならない部屋に移動させます」

「じゃま、なるから…上で、待って…るね」

「ええ、そうしてください」



ぐったりとした男の肢体を肩に担ぎ上げて部屋を出た。首だけ動かして視線を後方にやると、羽無がランキングフゥ太の手を引きながら上階へ続く非常用梯子のある部屋へ向かって行くのを見て、僕はそこから少し離れた位置にある倉庫のような部屋へ足を運ぶ。

ギィイと耳障りな音を立てて、重い錆びた鉄の扉を開いた。埃っぽいにおいが鼻をつく。


適当な位置にそれを降ろす。本当は金属棒の飛び出ている瓦礫の上にでも放り投げて殺してしまいたいくらい何故か苛ついていたが、一応人質という名の証拠になってもらうためには生かしておかなければならない。


「……なんなんでしょうね」



さっきまで射殺さんばかりの視線を向けてきたその瞳は閉じられ、端正な方である顔には乾いた血がこびりついている。

意識がないせいでだらしなく四肢を投げ出している様を暫く眺めてから、僕はその倉庫を出た。
再び嫌な音を立てて扉を閉め、近くのパイプとドアノブとをチェーンでぐるぐるに繋ぎ、先端同士の輪の中に南京錠を通して施錠する。
あの怪我だし、暫くは意識を取り戻しても動けないだろうとは思いながらも、万が一逃げられては困るので抜かりのないように。


鍵の取り付けが終わると、僕はふぅとひとつ息をついた。



「…………」


なんなんだろう、この気分は。

無性に苛々する。腹の底が重苦しいものでどんどん一杯になっていく。吐き気を催しそうだ。


世界に向けた憎悪とは、また違ったこの感情。知らない、自分はこんなものを知らない。



頭痛までしてきた。本当に、なんなんだこれは。感覚やら何やらが鈍っていくようだ。

僕は例の梯子を上がって、ゆったりと廊下を進んだ。
広いボウリング場に入ると、ふさふさと揺れる艶のない金色と柔らかそうな栗色が向かい合うようにして何かを話している。その光景を見て、ぐおっと音を立てるかのように腹の底が熱くなった。


僕に気づいた金色が手を振ってくる。それに気づいた栗色が僕を振り返る、ふんわり微笑って、唇だけでおかえりと告げた。
その微笑みを見たら、さっきまでの熱くて重苦しいものが段々と鎮まっていくのを感じた。


「僕の居ない間に随分仲良くなったんですねぇ。何を話していたんです?」

「なっ仲良くなんかしてねーびょん!!コイツが話したそうだったから、相手してやってたらけれすよ!!」

「クフフ、それはそれは」


羽無の隣に座る星の王子様。僕に気付くなり、怯えるようにして彼女に寄り添った。
無意識のうちに小さな彼を睨んでいると、つんつんと引っ張られる感覚。見やれば、羽無が控えめに僕の制服の裾をつまんで引っ張っていた。
プラスチック製の冷たいベンチに腰掛ける、すると羽無が僕の肩に頭を預けてきた。


「おやおや、今日は甘えたさんですね」


こんなことを言えば、精神世界での彼女はバッと離れてぶんぶん首を横に振るのだが、現実世界で初めて会った彼女は僕が知っているそれよりもずっともっと弱くて脆かった。
僕の右腕を抱いて、肩口に顔を擦り付けてくる。その様子が可愛らしかったので、つい頭を撫でた。


「……本当に、話せないんですね」
「……」

「精神世界であんなにお喋りだった君がこうも静かだと、調子狂いますよ」


暫く動かずにそのままでいると、やんわりと顔を上げてにへらと笑う。
そのまま立ち上がると、僕が先程入ってきた出入り口まで歩いていく。
華奢なその背中に声をかけた。


「何処へ行くんですか?」

「…たんけ、ん」

「探検って。戻りなさい、勝手に動き回られると困るのは僕なんです」

「すぐ……、もど、る。…から、ね」


ふわり、風に乗る木の葉のように部屋を出て行ってしまった。
ベンチに残されたランキングフゥ太は、僕と犬を一瞥するなり、弾かれるように羽無の後を追い掛けた。


「…骸さーん」

「なんです?」

「羽無れしたっけ。…あいつ、変なヤツれすね。へらへら笑ってて、しょーじき俺苦手なタイプれす」

「そうですか?へらへらしてるのは犬と変わらないですよ」

「うへぇえっ!?」


さも心外だと言いたそうな顔をして大きな声を出す犬。クフ、と小さく笑いを溢せば、不満そうな顔になって立ち上がる。ボウリングのボールを手にして、そのままコースの前まで行く。


「骸さんてたまーに酷いこと言いますよねー」

「おや、そうですか?自覚ないですね」

「はは…そーれすか。んで?どーだったんれすかー?並中のボスの…
スズメだっけ?アヒルだっけ?」

「ハズレでしたよ。歯をとるまで横になってもらってます」


豪快な音を立ててピンが倒れる。ピン代わりに立てられていた瓶や缶も、割れたり凹んだりして無惨な姿になっている。
ストライクを決めて満足げに笑う犬にそう告げれば、冗談とも本音ともとれる言葉を口にした。


「っひゃ〜、生きてんのかな〜?そいつ」

「おや…千種は?」

「あぁ、柿ピーは3位狩りにまいりました。そろそろ面倒くせーから加減できるかわかんねーって」

「その気持ちもわかります。…なかなか当たりが出ないものね」



そうだ。

さっきから感じていたあの苛立ちに似た黒い感情は、焦りと同じ作業の繰り返しに対する辟易から来ていたのかもしれない。
焦りなんて滅多にしないから、慣れなくて変な気分になった。そうに違いない。僕が焦っていたなんて…思いもしませんでした。


自分なりに答えを見出だしたその感情も今は鎮まっておとなしいものだ。
僕は、やれやれと嘆息してから、羽無が消えた出入口の方を見やった。



***




僕がボウリング場を出たときに羽無姉の姿はもう見当たらなくって、あたりをキョロキョロ見回していたら廊下の角を曲がる栗色が見えた。あれは羽無姉の綺麗な髪だ。僕は見失わないうちにとランキングブックを抱えたまま小走りに羽無姉を追い掛けた。


角を曲がった先に見えた羽無姉の後ろ姿は何処か寂しく感じられた。そばに行くべきか悩んだすえに、僕はそっと後をついていくことにした。今から骸さんのとこに戻るのも、怖くて嫌だし。



羽無姉が向かったのは、下の階と唯一繋がっている非常用の梯子がある部屋。
…外に出たいのかな。すぐ戻るって言ってたから、そのまま逃げちゃうとかは、ないと思うけど…
(逃げるなら僕も連れていってくれるはず、だよね)


羽無姉が梯子を降りていって、降りた先の部屋を出ていったのを足音で確認すると、落っこちないように気をつけながら僕も急いで梯子を降りた。早くしないと、羽無姉見失っちゃうよ。

なんだか不思議な気持ち。いつもマフィアに追われてる僕が、誰かを追いかけるなんて。バレないようにこっそりついていく感じが、この前ランボとイーピンと見たドラマの警察官みたいで、くすりと久しぶりに笑った。


「(…こっちかな、)」


時々物陰に隠れながら羽無姉に気づかれないように追いかける。羽無姉は何かを探すようにあっちこっちを覗きこみながら歩いていく。落とし物でもしたのかな、それなら今すぐ出て行って探すのを手伝ってあげたいな。


すると羽無姉は曲がり角の先に何かを見つけたらしく、小走りに向かって行った。
すぐについていって、曲がり角からさっき羽無姉がしていたみたいに覗きこんでみる。羽無姉は、ある大きな扉の前で立ち尽くしていた。扉にはチェーンがぐるぐる巻きにされて鍵もついてる。開けられなさそうだ。

暫く俯いて考え事をしている風だった羽無姉。何を思いついたのか、ぱっと顔を上げて、それからこっちに向かってまた小走りに駆けてくる。僕は慌てて身を隠した。
僕がいる方とは反対の角を曲がって行った羽無姉。また引き返してきたら鉢合わせしちゃうから、今度はゆっくり忍び足でついていく。


「(…あれ?窓?…って言うほど大きくない)」


羽無姉は、行き止まりのように見える角へ入っていく。
目隠しみたいにカーテンが引かれていたから、僕は壁とカーテンの隙間から目だけ覗かせて様子を窺った。
そこには、窓と言うにはあまりにもお粗末な、強いて言うなら覗き穴みたいな、細長い長方形にくりぬかれた壁の穴があって、羽無姉は背伸びをしてそこから中の様子を見ていた。
僕のいる場所から羽無姉のいる場所までは小さい下りの階段があって、高さ的に僕にも中の様子を見ることができた。


特に何もない、崩れた壁の瓦礫が転がっている倉庫みたいな部屋だった。
壁の向こうに、小さく金属製の扉が見える。…あれって、さっき羽無姉が立ち止まってた扉と同じ?


僕が目を細めながらそうっと眺めていると、背伸びで中を覗いていた羽無姉がぴくりと動いた。さっきよりも、壁の縁にしがみつくようにして一生懸命見ている。
すると、僕からもゆらりと揺れるそれが見えた。



「……南?」




ヒバリさんだ。

骸さん、この部屋にヒバリさんを閉じ込めたんだ。羽無姉は僕と一緒に移動してたのに、いつの間に場所を知ったんだろう?


小さな声が微かに聞こえた。多分この距離だから。
羽無姉は何も答えない。…ううん、答えられない。だって、もう声出すのつらそうな顔してた。前ツナ兄に聞いた話じゃ、羽無姉はリハビリでよく発声練習してたって。それが苦しそうな顔になってるってことは、もしかしたら羽無姉ののどは悪くなってしまったのかもしれない。


ヒバリさんは、動くたびにふらつきながら、それでもゆっくりこっちの壁際に寄ってきた。
覗き窓を境に羽無姉と正面から向き合う。


「……ねぇ」

「………」

「帰れ、って。どういう、こと」

「……………」

「僕があいつに、勝てないから?」


ふるふる、首を横に振る羽無姉。
ああ、さっきまで僕に優しく元気に笑いかけてくれてたのに、震えてる。きっとつらいのをがまんしてたんだ。
……僕が、羽無姉に心配かけたから。羽無姉、がまんしたんだ。


「…けが、」

「ん?」

「だいじょ…、です、か?」

「……かすり傷だよ」


バレバレすぎる嘘も、今はヒバリさんの素直じゃない優しさを表していて。
羽無姉は…、ヒバリさんのこういう不器用なかんじにひかれたのかな。


「…どし、て…たたかわ、なかっ…、の?」

「…桜。」

「…?」

「……、それと、

君がいたから」



桜なんて、あったかな?季節はずれすぎるけど…。
僕がふとそう考えていたら、付け足すようにヒバリさんが呟いた。
羽無姉は、それを聞いてかちん、と固まってしまった。
その様子にヒバリさんもビックリしている。一瞬だけ目を見開いていた。


「………、」

「…ちょっと、」

「…な、で…っ!」

「………だって、


約束。してただろ」



君の前で力は、使わない。

ヒバリさんが静かにそう言うと、羽無姉は背伸びをやめるかわりに手で顔を隠した。






「たたかっ、て…ください、よ…っ!!」


ど、して。そんな、軽い口、約束なんか。


羽無姉の掠れ声にしゃくりあげる音が混ざった。

……ああ、泣いてる。



僕がカーテンの隙間からやりきれない気持ちで見ていると、ヒバリさんは見たことないくらいに優しく微笑んでいた。
顔を隠している羽無姉には、見えていないみたいだ。



「あた、し…な、かの…ために?…なに…っ、かんがえ、てる、…ですか…っ!!」




くやしい。くやしい。
そんな気持ちが、羽無姉の綺麗で優しくて、掠れた涙声から伝わってきた。

自分のせいで、大切な人が傷ついたから。
今なら僕にもわかるよ羽無姉。だって、僕のせいで羽無姉はずうっとつらいのをがまんして、僕をはげまそうと無理に笑っていたんでしょ?


僕も、くやしい。くやしいよ。

ヒバリさんみたいに強いおとこだったら、僕も羽無姉のことはげましてあげられたのかな…





なんで、どうして、と小さく繰り返す羽無姉にヒバリさんが、あったかい声音で言った。

それを聞いて僕は、思わずほろりと目から涙をこぼした。
カーテンから身を引いて、目を腕で拭って、走り出す。




君だったから

僕はヒバリさんに、
きっと一生敵わないんだろうな






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