***





一週間以上が経った。

ここのところ、病院内が騒がしくなった。
うみ先生も、医師の人数が足りないらしく度々怪我人の手当てへとかり出された。
漸く歩けるようになったあたしは、院内を散歩したりしたけれど、
運ばれていくのはほとんど並中の生徒ばかり。
なんでも、つい先日から何者かに襲われる並中生が多いらしい。



あれから精神世界の夢は見なかった。

骸は必ず迎えにいくと言ってくれた。
でも、それもまだこない。



もしかして、このおかしいくらいの怪我人も、彼の計画のうちなのかな。
だとしたら、叱るの確定だ。全力で骸を説得して止めるだけ。……できるかは、わからないけど。



ギプスから包帯になった左腕を見つめる。
痣も、大体は目立たないくらい薄くなった。

…………まだ、発声練習は、していない。




この喉が治って、いつか普通に話せる日が来たら、
雲雀サンに伝えたいことを伝えたいと思っていた。

なのに、






ベッドの横の小さな机の上。

うみ先生に手渡された、一枚の紙。



他よりも少し大きな文字が、紙の一番上に並んで書かれている。


“手術承諾書”





3日前。

どうしても、喉の痛みが引かなかったから、試しに検査をした。
その結果、うみ先生はこめかみを抑えながら顔色を悪くした。



「どういう、こと………?!」


ベッドの上で身体を起こしながら、血染めのスケブをぼぅっと眺めていたあたしに、
うみ先生はゆっくり、分かりやすく話す。


「羽無ちゃん………、医師だから、嘘はつかないわ。
検査の結果…、………あなたにとって良くない方向へ病状がすすんでる」


詳しく話すから、心して聞いて。

うみ先生の真っ直ぐな瞳。コクリと頷く。
でも、やっぱり胸の中はぐるぐると落ち着かなくて。


「今までは、本当に治りかけていたの。あなたも、実感があったと思う」


頷く。


「だけど、…………最近じゃ稀にしか起こっていなかった炎症が見られた。
それだけじゃない、今までの中でも一番、酷いものよ」


瞬きが出来なかった。


「このままじゃ、」


うみ先生が、一呼吸おいて、静かに告げる。





「あなたの声帯は、機能しなくなる」



スケブの表紙の文字をなぞっていた指が、ぴくりと動いた。



「………私から、ひとつ、提案があるの」



スケブを、握り締める。僅かに手が、震えていた。



「手術を、受けるの。今の医学じゃ、完璧に治すことは出来ないけれど、
一時的に話すことができるようになるわ」


あたしが固く口を引き結んだ時、


「ただし、10年としないうちに、今度は本当に声帯が使い物にならなくなる」





うみ先生が語ったリスクは、大きなものだった。









たくさん時間をかけていいよ。ご両親にも相談してみて

それから、決めて欲しい。羽無ちゃんが望む未来を




この一枚の薄っぺらい紙が、あたしの未来を左右する。


少しでも足掻いて、夢を叶える確かな時間を確保するか。

それとも、できるかわからない確かな治療法を、未来まで待つか。





承諾書を、手にとって四つ折りにし、引き出しにしまう。
まだ、何も書き込んでいない。


お母さんに、いつ電話しようか。

その前に、骸が来てしまうだろうか。





雲雀サンには、





…………言いたく、ないな。









彼に嫌われることから逃げるために、骸と一緒に行こうだなんて。

結局、他人を利用してる。あたしだって、骸のこと言えないんだ。



もしかしたら、分かってもらえるかもしれない。

でも、知られるのがこわい。




あたしのこと、分かってくれるかもしれない。


でも、


彼の中のあたしは、普通の、女子生徒のままで、いい。



トラウマ抱えた面倒な女だなんて、彼は知らなくて、いいんだ。





分かって欲しいのに、知って欲しくない。





あまりの自分の勝手さに、ほとほと呆れてしまう。


自分の我がままで勝手に離れると決めたのに、



どうして涙が出てしまうんだろう。




いつも一人で、誰も寄せ付けないような彼の隣にいれたこと。

誇りに思ってる自分が、憎らしくてたまらない。


まだ隣にいたかったと、

まだ一緒に仕事をしていたかったと、

彼の中に存在していたいと、

溢れ出してくるわがままな願いを、心の奥底に封じ込めて、



瞼を閉じながら、骸が迎えに来るのをいつかいつかと待ちながら、
今日も眠りにつく。




***




ぴゅう、鋭く冷たい夜風が開いていた窓から吹き込んできた。
続いて、カーテンが揺れるばさばさと騒ぎ立てるような音。


あまりの突然な突風に目を覚ましたあたしは、肌寒かったから窓を閉めようと
ベッドからのそりと起き出して、冷たいタイルの床の上に裸足で立った。

うー…、ん、と伸びをする。全身の力を抜いた途端寒さが体の表面を覆った。

ぺたぺたと音がするような足取りで窓に近付くと、様子がおかしいことに気が付く。



あたし、寝る前に窓開けたっけ…?


ふと、静まったカーテンに月明かりで照らし出される人影。
窓を閉めようと伸ばした手に、皮膚の感触。


「迎えに来た男を閉め出すとは」


窓枠にかけられる足。そのままひょいと病室内に侵入された。
あたしの手をあたかも当たり前のように握る男。



まさか

この、タイミングで?


「相変わらず、変というか、印象強いというか」

「……………、え…」

「最初に出会った頃から、君は忘れたくても忘れられない存在でしたよ」


羽無。

優しい声音が、あたしの名を呼ぶ。耳に響く。


声が洩れてしまったことに怒ってくれるあの人は、今ここにいない。



藍色の、髪。窓から入る月明かりで床に映し出されるシルエットには、
頭のてっぺんに柔らかそうなフサが。

闇夜に怪しく輝く紅と蒼の瞳には、呆然と彼を見上げるあたしが映っているのだろう。



「………、ふふっ」

「?…普通ここでは笑わないでしょう」

「やー、この時間帯に不法侵入で迎えに来たって言われても」

「仕方ないでしょう、他人に見つかってはいけないんですから」

「あはは、馬車で迎えに来る王子様とは程遠いよね」

「なんならこっそりと密会する王子という設定にしましょうか」

「なんでもいいけど、あなたこそ一生忘れられない印象をありがとうパイナップル王国の王子様」

「そうですか精神世界だけでは物足りませんでしたかあなたそれが言いたかっただけでしょう」

「いひゃいいひゃいはにゃひへ」

「拳骨じゃないだけマシだと思いなさい」


容赦なく引っ張られた頬は、離された後でも未だに引っ張られているような錯覚を覚える。
ふぅ、とため息をついたあと、彼はあたしの右手を握り直してそうっと言った。


「準備はよろしいですか、お姫様?」



ゆるく弧を描いた唇が艶やかに照らされる。
ばーか、そう一言置いてから、


「いつでもどうぞ、王子様。」










ひとの居なくなった病室に吹き込む風は、先ほどのものよりもずっと静かで、
誰も居ない空しさを寂しがっているようなひゅう、ひゅうという音が響いた。








さよならを告げよう

この気持ちにも、きっと終わりがくるはずだから






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