こんなせかいよりも、きみに

俺と奴を囲っていた障壁が、音を立てて消えていく。


「これで全てが終わったと思うなよ……これが、光と闇の血塗られた歴史の始まりだと思え!」


胸に深々と突き刺さった聖剣の煌めきに反比例するように、男の左の手の甲からは聖三角の輝きが失せていく。
絞り出した咆哮も虚しく、浅い息を繰り返していた男は突如喉を締め付けられるような声を僅かに洩らして、がくんと力なく頭を垂れた。
よろけた体、しかし膝をつくことはなく、眼を開き大地を踏みしめたまま動かなくなった。もう息をつく微かな音もしない。その一瞬だけは、風すら止み世界中が呼吸をやめたようだった。


「……意地でも敗北は認めないみたいね」


一番に口を開いたのはエリシュカだ。さくさくと砂を踏み分け歩み寄り、男の死に顔をじっと見つめる。その亡き骸が塵芥となって消えていくのを、睨むとも泣くとも言えない強いまなざしで見つめた。黄昏の光が、彼女の金色の瞳に柔らかな光を映し込む。
魔王を名乗る男と、彼女の間に遠からぬ縁があることは、二人の言動から察していた。奴は遠い昔に処刑されたはずの男。だから、エリシュカ本人ではなく……おそらく、もっと昔のエリシュカと関係があったのかもしれない。けれど、その意味深なまなざしの理由は聞かないことにした。

ぱたた、と地に滴るしずくの音で、やけに肩が熱かったことを思い出した。気がついた途端に燃え盛る痛み。何やら腕の古傷まで開いていたらしく、左も右も血塗れだった。

世に悪を蔓延らせたガノンドロフ卿は、もういない。すべて、これで本当にすべて終わったのだ。

息をついて、ふと自分の赤に染まる手のひらを見つめた。
なんてことない、男の手のひら。人一倍でかいわけでもない、たかが人間一人ぶんの手のひらだ。
この手で、救えたんだろうか。見渡すにはあまりに広く、地平線にその片隅しか写らないこの世界を。

あまりに漠然としか思い描けない“世界”。脳裏を過るのは、今まで助けられてきた人たちの笑顔。
トアル村のみんな。ココリコ村の子供たち、レナード牧師にバーンズさん。長老たち率いるゴロン族の皆。故ルテラ女王、ラルス王子、ゾーラ族達。
テルマさん、酒場に集ったレジスタンスの仲間。ドサンコフ夫妻。スタルキッド。天空人のおばちゃん親子。影の世界の住人達━━名を連ねたら数え切れないほどの人々。森や川、町に住まう生き物たち。
エポナは幾多もの戦場を共に駆けてくれた。イリアは温かい飯でいつももてなしてくれた。ゼルダ姫の力と智恵がなければ、俺は人間の姿に戻れなかったかもしれない。癪だが、天空城で手負いの俺を助けてくれたのは間違いなくシャドウだった。
最初は喧嘩ばかりだったのに、今ではかけがえのない存在に変わった俺の大事な人、エリシュカ。そして…………、


「ミドナ…………」


おまえのカラカラ笑う声がしないと、物哀しいよ。
一番最初から、一番傍で俺を見守って、助けて、支えてくれた一番の相棒。
俺は勇者のくせに欲深くて器が小さいからさ、世界中の人々とおまえを秤にかけてしまうよ。

おまえを救えないまま終わりになど出来ないよ。

砂埃と血に汚れた手に、白い指先が重ねられた。


「ほら、傷口見せなさい」

「エリシュカ……」

「無茶な戦い方して、まったくもう」


触れた指の先が、僅かに震えていた。
ふと顔を見やると、眉間に皺を寄せたまま不器用な笑顔を作った彼女がいた。ひどく心配させてしまったのだと気付く。
エリシュカは紡ぎ針を握り込むと、手のひらサイズに小さくなったそれを俺の傷口に当てて、まずぱっくりと開いている肩を縫い始めた。麻酔もなしに緑衣の上から直接肉に針を刺しているのに、痛みはない。光の糸が通る箇所からじわりと滲み出すように傷口が塞がっていく。相変わらずの縫い目の美しさだ。

「ありがとう」

「出血を止めるための応急手当だから、ちゃんと医者に診せなきゃだめよ」

「ああ。でも助かるよ」

右腕の傷も縫い合わせてもらうと、俯いたままエリシュカはすんと鼻を鳴らしてから顔を上げた。埃っぽい風にさらわれた髪が靡いて、深い真紅の赤毛にくすんだ光が散った。

「ミドナのぶんまで、私が世話焼かなくちゃね」

涙を湛えた瞳はきらきらと輝いて、不器用に笑った唇は歪んだ弧を描く。
固く握りしめている手をとって、そっと抱き寄せた。血に濡れた手では、青く澄んだ夜空のような彼女の祭服を汚してしまう。盾を握っていたほうの手で、嗚咽を洩らす苦しそうな背中を撫でてやった。

「エリシュカ。そう泣かずともよいみたいです」

ゼルダ姫が、唐突に口を開いて言った。
薄く微笑むハイラルの姫が仰ぎ見た先、ハイラル平野の小高い丘陵の上に、四精霊達が集い降りてきていた。
夕焼けの橙ではない、目映い白にも似た金色の光が一際輝いた後、薄らいで消えていく四精霊の御足元に、明るい光を煌々と受けた大地にひどく目立つ、小さな黒い背中が見えた。俺は、言葉もなく、息の仕方も忘れて、エリシュカの手を引いたまま丘目掛けて走り出す。

「リンク、待って、急に何処へ…………、」

手を引かれるまま俯いていたエリシュカが顔を上げる頃には、俺達は大きな黒塗りの衣を羽織った背中がむくりと起き上がって、こちらを見るその人の目前にいた。

視線の位置は、いつもより少し高い。
けれど、宙に浮いているのではない。しっかりと、スラリと伸びた長い脚は大地に根ざしている。
細面立ちの中心をすっと通った鼻筋が、灰白の肌に影を作る。夕陽色の瞳を象る縁はきりりとして、瞼を飾る紫の化粧は小人の面影もなく、大人の女性らしさを印象づける。きらびやかな額の冠は、影の世界の幾何学模様を思わせた。
別人かとすら思えたが、胸元に石造りの髪飾りで結われた鮮やかな黄昏色の髪の房が、何よりの証拠だった。

「なんだよ?何とか言えよ」

知っているものより落ち着いた声が、鼓膜を通じて胸のうちを揺さぶる。
エリシュカは、ぱたたと地に雫を落とす音を奏でながらも、自分が泣いていることを忘れているようだった。


「あんまり綺麗すぎて……言葉が出ないか?」


影の王。黄昏の姫。
真の姿を取り戻した彼女の荘厳な姿は、まさにその名に相応しい。
いたずらに微笑んだ彼女の笑い声が知ったものとあまりに同じで、つられて笑う俺の隣、ぐしゃぐしゃと涙を拭ってはとまらない眦の滴に、エリシュカが困ったように笑った。


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