やりなおし


肉体と呼べるものを再び手に入れて、この忌まわしき大地に足を踏み入れたとき。真っ先に思い浮かんだのは、長年思い描いた名誉や一度でも手中に収めた世界の姿などではなく、からからと笑うあの女の姿だった。

まだ自身が若く、血気盛んであった頃。そんな自分よりもずっと若く、むしろ幼い姿でありながら、心の虚無を映したような瞳でただただ城と住処を往復する小娘がいた。
恭しく姫の前で頭を下げる姿は、幼くとも一端の家臣であることを窺わせ、見目に似合わぬそつ無き仕草は、自身の知る類の、同年代の女にすら見られない高貴さと清楚さを持ち合わせていた。
背丈は自身の腰丈ほどと小さく、注視しなければ見失うほうが早いその小娘が、城で初めて愛想ではない笑顔を見せている姿に遭遇したのは、ハイラルの草木が青々と茂る晴れの日のことだ。


「何かあったか」

「おや、これはガノンドロフ卿。なに、思い出し笑いさ。貴殿から声をかけてくるとは珍しい」

「いや、こちらとて用もなく声はかけまい。珍しく紡ぎ屋が仏頂面ではなかったものでな、よほど興味深い情報でも入ったのかと」

「ふうん?そりゃアテが外れて残念だったね、身内にも慈悲が無いと評判の貴殿が喜ぶような面白い話は何もないよ」


魔女。子供の顔をした仙人。そんなふうに城の兵士達が噂し、気味悪がっているのを知ってか、そやつはただ一人姫を除いて、誰に対しても横柄な態度を変えない。自身に怖気づくことなく飄々と会話するのも、こやつくらいなものだ。
最初こそ腹立たしさからその細い首をへし折ってしまいたい衝動に駆られたが、子供相手にむきになるのも面白くない。暫くすれば、この態度はこやつなりの処世術なのだと分かった。
なにしろ、他所の国と我が国が戦争になろうが、地方で飢えた民が命を落とそうが、魔物が砂漠から押し寄せてこようが、眉一つ動かさず驚くことのないやつなのだ。あながち、魔女だの仙人だのという法螺吹きの言うことも間違ってはないのだろう。


「ちょっとね、猫がいたずらしに入ったのを眺めていただけさ」

「猫?」

「そ、猫。物珍しそうにあちこちキョロキョロしているから、あきないんだよねぇ」


くすくす、と肩を揺らして笑う小娘が、身の丈に合わない祭服の裾を引き摺りながら歩いていく。


「エリシュカー?」

「はぁい姫様、ただいま参りますよう」


こちらをちらりとも振り返ることなく真っ直ぐ姫のもとへ向かう小さな後ろ姿が印象的だった。
小生意気で面妖な小娘だと、その頃はその程度にしか考えていなかった。だから、あやつも笑うことなどあるのだと、ひとつ新しい発見をしたような心持ちになっていた。


聖地の恵みをその身に受けて、溢れて止まない力をその手に持て余し、嬉々として国中を駆けていると、かの魔女が住むというこぢんまりとした家を見つけた。
いまや武力も魔力すらも、我が身に敵うものなどいない。だのに、その魔女は降伏することなく、いつまでもいつまでもその小屋から出てくることがなかった。

王族すら逃げ出した王都には、もはや魔物が蔓延るのみ。魔女が通いつめ管理していた時の神殿も、暗雲立ち込める空の下、不気味にその姿を残すばかり。神殿に立ち入れない魔物が苛立ってか、その周辺を荒らすものだから、とても一般人などは立ち入れない荒廃した建造物に変わり果てた。
あの小賢しい小僧が姿を消して7年。小生意気な魔女も、いまの自身を前にして以前と同じような態度を取れるものかと、からかい半分で小屋に立ち寄る。

真っ直ぐに我を見上げる瞳は凛として揺るぎがなく、神経を逆撫でされるようだった。
何処までも反抗する小娘の首を掴み上げて、以前にも増して表情の増えたそいつに、何処からともなく沸き起こる苛立ちそのままに、持て余した力をぶつけた。
愛想笑いと、ひとを小馬鹿にするときの笑い、常に虚ろな瞳しか見せなかったそれ。
いつの間にか、信じる者を待つ顔になって、葛藤して、瞳の奥に寂しさすら覗かせて。
涙ひとつ見せないくせに、怯えすらしないのに。それは、何者に向けた表情なのか。何を確信して、我に楯突くのか。
ひどい苛立ちと、解明したくなる興味、好奇心。

手に入れたい。いつしか、そんなふうに考えるようになった。
魔女の力も、時空を超えて得る知識も、……その心も。
手に入れたら、どう変わるのだろう。新しい玩具を見つけた気分だったのだ。

絶望と喪失を知ったら、貴様はどんなふうに表情を歪めるのだろう。
見てみたい。試してみたい。
どうしたら、自身にだけ向けられる表情を手に入れることができるのか。


「人間になんかなりたくない!!!」


絶叫。絶望。そう、それは自身が最も見たかったもの。
飄々と嘲笑うそいつが、悲しみのどん底に突き落とされたら、どんな顔をするのかと。
望んで、そして漸く手に入れたはずだったのだ。


「だって、もう……意味ないもの……っ!!!」


無様に立ちはだかった末、血の海に沈み動かなくなった勇者だったモノを抱きしめて、むせび泣く女。
白い手を朱に染めながら、もう息をしていないそれを抱いたまま、世界中にさえも響くのではと思われる大声を上げて、泣く。時折裂けた喉から血混じりの痰を吐き出しむせて、それでもなお、泣き続けた。


勇者は、死してなお、女の心を独占したのだ。
もうその瞳には、勇者しか写らない。どんなに力を誇示しても、絶望を与えた我に対する憎しみの瞳すら向けては来ない。
ただ、ただ。泣いて、泣いて、泣いて。

それまでの興が削がれ、自身の胸のうちが空を宿していくのを感じながら、女をも手に掛けた。
瞬間、巻き戻る世界。ぐるぐると目まぐるしく情景が眼前を過っていき、やがて自分はまた、手中に収める以前の王城を歩いていた。


「くくくっ、」


まただ。
あの女が、笑っている。


「おや、これはガノンドロフ卿」


即座に察する。
あの日とは、異なる笑みを浮かべた女。
小娘ではない。自身はもう、知っていた。
年端もいかぬ小娘の姿をした魔女は、同年代ほどの年齢であることも。時空を超えて全てを知るそやつが、ひとつの未来の形を察していることも。
すでに瞳に、芯ある光を宿していることを。


「残念。やり直しだ」


その微笑みが、うっすらと哀愁を纏わせている理由も、知っていた。



***



「っぐ!!!」


鋼と鋼がぶつかり合う音が、続いていた。

奴が間合いを取るべく大きく飛び退いた。先程盾を押さえつけ斬り付けた右肩の傷からとめど無く血が溢れる。古傷が開いたのか、剣を握る左腕からも赤いしずくが滴り落ちている。
肩で息をしながら再び斬り付けてくる片手剣を弾き、大剣を横に薙ぐ。宙返りで華麗に避けた男は、こちらを睨めつけたまま下段に構えた剣の切っ先をちらつかせている。肩で息をし血を流しながらも、未だ闘志は潰えていないらしい。


記憶にちらつく朱が、女の赤毛なのか、男の血なのかはわからない。
ひどく目障りで、瞬いて消えるものならよかったのにと心底思う。

あの日、男の腹を裂いた爪が、いまも疼く。
剣を握る手のひらで、今すぐその細く整った顔を潰してしまいたい。
女の横顔が消えない。脳裏に焼き付いて、泣き声が耳に張りついて消えない。


貴様がやり直しだと言ったのだ。
だから我は、やり直すまで。
すべて手に入れ、この手のひらが虚無など掴むはずがないことを証明するのだ。
空間を裂くような慟哭は、勝利の証。
その手を再び、朱に染めてやろうではないか。


「貴様さえいなければ」


鍔迫り合いの最中、無意識に口から漏れ出でた言葉。
貴様さえいなければ?いなければ、女は自分のものだったとでも言う気か。
世界は、聖地は、神の力は全て、自分のものだったと?

関係ない。この男だろうと、誰が我を阻もうとも、自身が絶対なる存在であることに変わりはない。


「はっ、そりゃどうも!」


嗚呼、嫌いだ。
その蒼い瞳。

魔女のように先が見えるわけでもなし、そのくせ確信に満ちあふれている。
光だけを見据えるその瞳。希望に満ちた瞳。恐れるものなどないと言うように、しっかりとこちらを睨みつける、蒼。

あの魔女の瞳は、何色だったか。
嗚呼そうだ。金だ。陽の光がよく透けた金色だった。我と同じ、金色だ。

忌々しい蒼から目を背けるようにずらした視線。障壁の向こうに立つ女の瞳の輝きに、目が眩んだようだった。

その瞳が、眩しくて嫌いだった━━。


剣が弾かれる音。
手をすり抜けた柄が宙で翻り、切っ先は忌まわしき大地を貫く。

輝く白刃の剣が、胸元の古傷に深々と突き刺さったのを痛みで悟り、口からは生にしがみつかんばかりの雄叫びを上げる。
なんてことだ。こんなこと、許されるはずがない。許しはしない。認めない。認めてなるものか。

この我に敗北など、二度もあってはならないのに。


この大地を、聖地を、そして遥か時空の先、影の世界をも手中に収めて。
再び、今度こそ、王として君臨するはずなのだ。
選ばれた神の力を宿した我にのみ与えられた資格。王たる証。魔物も人間も、すべてを超越した神にも等しい存在に、なるはずなのだ。

まだ終わらない。ここで負けるわけにはいかない。


霞む視界に、亡霊の姿をしたザントが写る。
黄昏の姫に殺されたのだったか。貴様に与えていた力を、影の世界を支配するために貴様がほしいと戀い願った力を。今、今こそ我に返せ。まだそこにあるのだろう。
何せ我と貴様は、悪意で繋がった半身にして同体。灯火と呼ぶにはあまりに大きすぎる悪意の業火に魅入られた貴様を取り込んで、影の魔力で依代となるこの身を造ったのだから。


『貴方はもう、私の憧れたあの方ではない』


何を言う?貴様に力を与え、影の領域を拡大させてやった。光の世界をも支配する影の王になるという貴様の願いも、いまここで我が終われば無に帰すのだぞ。


『貴方も、所詮は光の世界の人間。用済みになれば、私を殺すのでしょう?』


当たり前だろう。利用できるものを利用するのは当然のこと。王たる者に与えられた選択肢だ。


『生きる権利を与えたもうた女神とやらのほうが、まだ我々一族に慈悲があった。情けがあった。光の人間どもと、等しく生きる道を残してくれたのだ。
私はもう、力無き者と見下されるのは御免だよ。

我が神よ、どうか私と共に逝きましょう』

くひひ、と不気味な笑顔を浮かべた影の腹心は、そのまま首をばきりと折ると、薄靄となって消えていく。
肉体を形造る力が滅んでいくのを感じた。


あゝ、嗚呼。


また“やり直し”だ。面倒なことだ━━━━



[ 66/71 ]

[*prev] [next#]
back




×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -