てのひらをかさねて
「マスターソードは悪しき者がけして触れることのできない聖剣。しかし貴方なら、剣によって、その身を覆う魔を切り裂くことが出来るはずです」
清廉な響きを含んだ、柔らかい声音が静寂に波紋を打つ。
「神が遣わしたる勇者、リンク。
私もまた、貴方と同じように神に選ばれし力を持つ者。この知恵のトライフォース≠宿す身として、貴方に伝えなければならないことがあります。
しかしそれは後にしましょう、まずはミドナ、貴女の身を癒すことが優先です」
ゼルダ姫は、左手の甲にある痣を俺に見せたのち、その手のひらをミドナの肢体の上へと翳す。
しかしミドナは、緩慢な動作でその手を退けさせた。
「よかったな、リンク……あとは、一人でも行けるよな……?
なあ姫さん、最後に頼みがあるんだ……
こいつに、陰りの鏡がある場所を教えてやってくれないか?」
光と影が相対するように、ミドナの肌の色もまた白黒反転しており、その姿はこの薄暗い部屋の中でも異様に映る。
『最後、なんて言うなよ……』
ぽつりと雫す言葉も、獣のそれでしかない。
陰りの鏡とは何なのかも知らない、聖剣のある場所にたどり着けるかも分からない俺を置いて、おまえはまたそうやって隠し事をしながら、抱えたままいなくなるっていうのかよ。
ザントを倒すんだろ。エリシュカの意に報いるって、おまえ言ってたじゃないか。
「ミドナ……貴女が何者であるのか、わかったような気がします。こんなに傷付きながらも、私達の代わりに、貴女は……」
ゼルダ姫は、瞼を附せ、温かいか冷たいかも分からない小さな手のひらを、包み込むように握る。
「ミドナ、受け取ってください。これを、貴女に……」
瞬間、姫の肉体が仄かに発光し始める。
何が始まるのかと薄くぼやける視界で見つめていると、ミドナが慌てた様子で声を上げた。
「バカ!そんなことをしたら……止めろ、リンク!」
「……大丈夫です。私の命は絶えない……すこし、眠るだけです」
スカーフで口元は隠れているが、眼差しは微笑んでいるようだった。
ゼルダ姫は俺に目を向けると、やや早口に言の葉を紡ぐ。
「勇者リンクよ、どうか迷わないで。貴方のトライフォースは勇気=c…貴方が前を向く、歩み出す、それだけで救われる者が大勢います。
前に進むことこそが、貴方の力なのです」
『前に進むって……』
「………あの子≠、頼みます」
姫は緩く目を細めると、音もなく光になって消えてしまった。
トン、と爪先を地につける。
ミドナは元の実体を取り戻して、其処に立っていた。
「……リンク、フィローネの森に戻ろう」
『……身体は良いのか?』
「あぁ、……おかげサマでな」
背に跨がる小人は、今一度手のひらを見つめ直した。
「ゼルダ……アンタの全て、確かに受け取ったよ」
***
黒き大いなる力。
寄せ集め、練り上げて、それでもまだまだ溢れ続ける。
だから小さく切り分けて、固めたのちに封印を施した。
ひとつは、命芽吹く古き森の奥の神殿に。
ひとつは、灼熱の業火噴き荒れる鉱山に。
ひとつは、大地見上げる湖の底の神殿に。
そして守らせた。
鉱山には、岩をも砕く屈強な力を持つ種族を。
湖底には、水中を自由に駆けるに適した種族を。
森林には、命を寄り合わせ紡ぐ、人間の一族を。
しかし溢れる力は、それでも収まらない。
精霊は、残りを引き合わせ、小さく小さく固めて、鍵にした。
石は、鍵なくして力を発動出来ぬように。
鍵に込められた魔力は、悪しき者の命を吸い取るように。
それでも強すぎる力は、精霊の魔法を呪いに変えた。触れた者は皆、願いと引き換えに命を喰われてしまった。
だから鍵は、国を統べる王の血を引く者に預けた。
誰の目にも触れぬよう、深く深くにしまいこんだ。
ある日、その蓋を開けた者がいた。幼い少女だった。
少女を影に引き合わせぬため、誰かはその身を盾にし呪いを引き受けた。誰かは少女を娘と呼び、王家から遠ざけ守ろうとした。
そして少女は、全てを忘れ、大人になり、剣を学び、世界を知り、なるべくして鍵の器となった───
針を通すごとに、糸一本一本にも命を込めるの
そうするとね、生地にも命が宿るのよ
大切に一生懸命織った布は、身に付ける人を守ってくれる。神様のご加護を与えてくれるの
だから、うちはただの仕立て屋じゃない
紡ぎ屋≠ニも呼ばれるのよ全部終わったら、何も聞こえなくなるんだと思った。
だけど、不思議ね。
こんなにたくさんの声が、私を呼んでいる。
忘れていて欲しかったのに。
でも、心の何処かでは、私を思い出して欲しかったのかもしれない。
「エリシュカ」
この声は誰?
「エリシュカ、俺だ」
……パパ?
「そうさ。ぐっすり良く寝ていたな、ほら、早く起きるんだ」
待ってパパ、私、もう……
「みんな、おまえを待ってる」
眩しくて、懐かしい温度が私を包み込む。
大丈夫だと囁く声は、誰かのものにとてもよく似ている気がした。
「やっと目が覚めたか」
あたたかい、優しい心臓の音。
駄目よ、あなたの胸の中は泣きたくなってしまうじゃない。
「…………シャ、ドウ……」
瞼を開いて、そっと世界を映し出す。
赤い赤い瞳の奥に、私の知る焔の色が見えたから。
「あまり手間をかけさせるな……伝えたいことは、己の口で伝えろ」
そっと髪を撫でる手のひら。
心地好くてまた目を閉じようとしたら、寄りかかっていた彼の体が少しずつほどけていくのを感じた。
「シャドウ……?何処に行くの、」
「俺はもう十分伝えた……あとはあるべき場所に還るだけ」
「帰る?待ってよ、ねぇシャドウ何を言ってるの」
「おまえに出会えて、おまえを愛せて良かったよ。
ありがとう、エリシュカ」
淡い黄昏色を纏った影の紙片は、みるみるうちに私の内へと注ぎ込まれていく。
どんなに叫ぼうとも、それを止めることなど出来ないまま、私は彼が失われていく様を眺めているしか出来なかった。
カラン、と乾いた音を立てて落ちたのは、刃のこぼれ落ちた柄のみの剣だった。
***
最後の光≠ェ力を失ったことで、闇の支配下に置かれたハイラル城は、禍々しい結界によって完全に封じられてしまった。
代わりに、その身に光を宿したことでこの世界でも実体化出来るようになったミドナ。いち早く森の聖域に向かうため、彼女の力を借りてポータルを介し、俺達はフィローネの森に辿り着いていた。
「真珠は、おそらくザントを襲うべく向かっているはずだ」
ミドナが言うには、影の真珠は器の命を吸い取ったことで完全体となり、結晶石を求めて行動するそうだ。……エリシュカの姿をとって。
「器に自我があるうちは、王>氛沍居サ石を揃えた者に真珠を託し、その力を行使することが出来る。でも器が息絶えると、真珠は元の大いなる力になるべく、結晶石を求めて王に襲い掛かるのさ。
ザントなら、あるいは真珠をねじ伏せ我が物にしてしまうかもしれない……!」
『……退魔の剣を手に入れれば、真珠の暴走も食い止められるかもしれない。先を急ごう』
前に進むことこそが、力。
ゼルダ姫の言葉が確かなら、俺に出来ることはそれしかない。
そうだな、と相槌を小さく打ち、ミドナは俺を導くべく浮遊して、崖の僅かな足場を前に手招いた。
────………
『ッだァー!あんにゃろ次は何処だ!』
「地図がないんだから無闇に走って迷うなよ〜?」
森の入り口に現れた、傀儡のような妖精。
意味ありげに枯れ葉のラッパを吹き鳴らし駆けていくそれを追い掛けて、リンクとミドナは奔走していた。
まるで案内人のような、しかしただ弄ばれているような。
長く人の手が加えられていない森は美しく、荘厳で、そして幻想的だ。
さっきまで道があった場所に巨木の壁が出現していたり、逆に通れなかったはずの場所に木漏れ日射す道が出来ていたりする。
同じ場所を行ったり来たりしているような、少しずつ深きに踏み込んでいるような、不思議な心地にさせられる。
妖精がラッパを一吹きすれば、骸骨にも似た木製の人形が複数現れ襲い掛かってくる。
リンクはその度に人形を蹴散らし、ガシャガシャとカンテラを揺らしながら駆けていく妖精を追い掛けていた。
少し開けた場所に出ると、妖精はリンクを待っていたように其処にいた。
「ケケケッ、マタナ!」
つむじ風に巻き込まれるようにして姿を消した妖精。
その向こうには、苔むした遺跡へと続く小路があった。
『ったく、遠回りさせやがって』
「しっかり遊ばれてやってたな、ゴクローサン」
ケラケラと笑うミドナ。ついさっきまで生死の境をさ迷っていたとは思えない様子に、呆れるような、安堵するような。
リンクはわふ、と息をつくなり、ゆっくりと歩みを進めた。
─────………
ハイラル王家の紋章、トライフォースがいくつもあしらわれているその遺跡は、永く管理されていない人々に忘れられた場所として、神秘的な趣をしていた。
聖域を守護する2体の巨像が提示した謎を解き、漸く導かれた空間には、だだっ広い草原と、中央の石壇に突き立てられた剣がひとつ。
一歩ずつ慎重に歩み寄る。
距離を詰めるにつれ、神の息吹とも取れる強風が何処からともなく吹き付け、ミドナを吹き飛ばす。
青みがかった黒毛の獣は、何とか踏ん張りながら更に前へと進む。すると、身体に貼り付いた何かが引き剥がされるような心地に、思わず目を瞑った。
次に瞼を開いたとき、リンクは人の姿に戻っていた。
「───……よし」
深呼吸をして、柄の形を確かめるように握りしめる。
力を込め、一息で引き抜いた。
一閃の光が射し込み、剣を照らし出す。
その光に翳すように剣を掲げると、まるで大地が息を吹き返すように、草原がさざ波を立てた。
「……剣が、主と認めた……」
一振り、二振り。刃は空間をも裂かんと思わせるような鋭さを輝きにする。
ミドナは、神が遣わした勇者≠その目に焼き付けるようにまじまじと眺め、そしてふっと口元を緩めた。
「良いじゃないか、似合ってるよ?勇者サン」
「からかうなよ……、でも鞘が無いな。刃を剥き出しのまま持ち運ぶのも……」
今まで旅を始めてからずっと使っていた、トアルの剣の鞘では丈も合わない。
さてどうしようか、と思案に耽るリンクとミドナのすぐ後ろで、声がした。
「ここにあるわ」
もう二度と聞くことのないと思っていた声が、柔らかく響く。
幻聴かと二人が身を固くした刹那、声はまた言の葉を紡ぎ出す。
「鞘なら、ここに」
逡巡しながらも、恐る恐る振り返れば、目に映る鮮やかな赤毛。
聖剣は音もなく地に落ちる。木漏れ日に紛れて消えてしまうのではと怖くなって、彼は駆け寄った。
駆け寄って、抱きしめた。
「…………えっと、」
言葉もなく、ただひたすらに腕の力を強める彼の肩口で、彼女は目を細めながらいつかのように微笑った。
「痛いわよ、この馬鹿力」
「…………エリシュカ」
「……なに?」
背に回った自分のものよりも細く頼りない腕。
嗚呼、ちゃんと此処にいるんだ。
こぼれたのは、掠れた声と一粒の涙。
「おかえり、エリシュカ」
ただいま、と彼女は花が咲くように笑った。
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