かくされたほんね



げほっ、と噎せ返って水を吐いてから、ツンと痛む鼻に目を覚ます。

耳に入った水を飛ばすようにぶるぶると頭を振って、更に全身を揺らしながら水気を払うと、ミドナの呆れた声が聞こえた。


「やっとお目覚めか?」

『うっ……頭いてぇ』


よくよく辺りを見回せば、先程まで頭上高くにあった精霊の泉が目の前にある。水位もかなり上昇しているし、元通りになったのだろう。
まだあくまでこれはトワイライトの中の話だから、黄昏の黒雲を晴らさない限り完璧に戻ったとは言えないのだけど、一安心だ。


『……ん?エリシュカは?』


ミドナと口を揃えて情けないだの何だのと言ってきそうなあいつの姿が見当たらない。
ミドナがやれやれと言わんばかりに肩を竦めてから、水際を指さした。
エリシュカはうつ伏せになったまま動かないでそこにいた。半身は水に浸かったままだ。


「まさか泳げないとはな」

『えっ?』

「ワタシはてっきり高所からの飛び込みが苦手なんだと思ってたよ」


エリシュカの頭を鼻先で小突いてやると、漸く気が付いたようで顔を上げた。


「う〜……っ寒い!!!」

『なっ、ちょっコラ!!』

「いいじゃないちょっとだけっ」


ひとを暖房がわりに抱きしめて温まるエリシュカ。ずっと水に浸かっていた分たしかにひどく身体が冷えている。
俺だって今の今まで川流しに遭って水浸しだったんだから、そう温かくもないだろうに……。ていうか、本格的に動物扱いされてる自分が歯痒くてつい眉間に皺が寄る。女なんだから、少しは躊躇しろよ……。


「ホラ、いい加減先に進むぞ?」


ミドナのその一言で、俺を離したエリシュカは頷きながら立ち上がった。
もう、脛まで足が形になっていた。






「どうもお疲れさま!」

『おまえずっと岸にいたろ……』

「あたりまえじゃない、あんな不安定な足場に立ちたくないわよ」


あのミドナも思わず気が引けて悲鳴をあげてしまいそうになるような、大型の影の蟲を倒して漸くラネールの地にも光が戻った。
泳げないことが判明したエリシュカはここぞとばかりに湖中央に現れた蟲は任せた、と言って水に一歩も踏み入れようとしなかったのだ。

黄昏の光を浴びて仄暗くくすんでいた空気が澄み渡っていく。
瞬く間に目線の高さが人のそれへと戻り、やがて肌に馴染んだ緑衣の感触と武装した頑なさが戻ってくる。


「っ、エリシュカ!」


しかし影の真珠と同調してしまった彼女はそうもいかなかった。
トワイライトに属するその姿は徐々に実体を失っていき、透けたように影そのものへと変わっていく。
足先まで形作られた彼女の身体は、もはや光の世界では存在出来なくなり始めていたのだ。

影の姿を取ろうとも、黄昏の空を写したような黄金色の瞳はすぅと細められ、微かに微笑む。


「安心なさい、まだ自我は残ってるわよ」

「でもこのままじゃ……」


その時、泉の水を跳ね上げて突如何かが飛び出してきた。
一瞬の眩さに瞬くと、彼の者は大蛇のようなその姿を現して光の珠玉をくわえこんだ。


「我が名はラネール。汝らによって我々光の精霊は、再びこのハイラルの地に蘇った……
神に選ばれし勇者よ。汝が求めし黒き力は、ハイリア湖の水底に眠る神殿の中に」

「湖の底……」

「しかし決して忘れてはならぬ。それは、我々が神の命により封じ込めた、禁断の力であることを」


復唱する俺のまなざしを射抜くような鋭さが過って、ひとたび瞬けばそこは天と地の区別もつかないような深い暗闇になっていた。
振り返ってエリシュカとミドナを探すも、やはり此処には俺しかいない。

ラネールは世界が造られた歴史を淡々と語り紡ぐ。


混沌が支配し無だけが存在したこの地に神々は降り立ち、生命と秩序を作り、そして平等に力を与えた。
その地は聖地ハイラルと呼ばれ、長きに渡った平穏もやがては崩壊する。人間の中に強力な魔力をもってして聖地を支配せんとする人々が現れたのだ。


「神は我ら光の精霊を遣わし、その者達の巨大なる魔力を封じ込ませた」


ラネールが言葉を紡ぐたび、暗闇では歴史の再現が行われる。

大地に草が萌え、光を散らす。俺は第三者的意識でそれを見ていて、しかし俺自身もまた幻のイリアと笑い合い、平和に心を融かしきっていた。
しかしイリアは何の前触れもなく、いつの間にか手にしていたナイフで俺を斬りつけた。痛みはない。俺の意識は聖地へと向き、自身を見下す漆黒の影が口端を歪めて嘲笑う。

刹那、俺は塵と化し霧散する。目まぐるしく景色は変わり、俺は気付けば聖地を治めんと謀る者の中心にいた。愉悦に満ちた下劣な笑みを浮かべる俺の背後から目映い光が満ちてきて、根こそぎ意識を持っていかれそうになる恐怖に絶叫した。


何処か見覚えのある石造りの仮面が、個々のパーツに分かれ旋回する。
めまいにも似た感覚だった。しかしそれはひどく不快でありながら、眠りへと誘う微睡みのような心地好さでもあった。


「その魔力こそが、黒き力。影の結晶石」


仮面はまたひとつになって、彫り込まれた瞳からどろりと一滴の涙を流す。


「──……そして、我らは二度と力を悪用されぬようにと……鍵≠作った」


不意に現れた手のひらはそのしずくを受け止め、何の色も写さない瞳が俺を見つめ返す。エリシュカの幻影が手にしたものは、ねじ曲がり鋭利さを伴って、巻き貝のような結晶に変わる。


「それすなわち、影の真珠である」


真珠を握る手指から暗闇に溶け消えていくエリシュカを追いかけ、手を伸ばす。
しかし手のひらは空を切るだけ。クスクスと細やかな笑い声が上方からして振り仰げば、数多ものイリアが狂気を帯びた笑みで降り注いでくるではないか。

いつしか絶望に引き込まれ、朦朧とした俺の阿鼻叫喚が笑い声と一緒に木霊した。



「神に選ばれし勇者よ。心するがよい。力の危うさを知らぬ者は、力に支配される。それを忘れては、ならない」



脳髄に反芻するその言葉の意味を理解した頃には暗闇は開け、俺はがくりと膝から崩れ落ちる。
倒れそうになった背を支え肩を掴んだ手のひらにぼんやりとエリシュカかな、と考えていると、ラネールは身をくねらせ翻しながら泉の深く底へ消えていった。


「汝が求めし黒き力は、ハイリア湖の水底に眠る神殿に……──」






「ちょっと、だいじょうぶ?」


ちかちかと明滅する意識が漸く外部の情報を受け付けられるようになったのは、ほんの少し時間を置いた後だった。
腕が伸びる先を目で辿っていくと、其処には人の姿を保ったエリシュカがいた。


「あ、あぁ……って、あれ……」

「しっかりしなさいよ、ほら」

「おかしいな、エリシュカが元の姿に戻って見える」


幻に頭もやられたか、とこめかみを押さえる俺をどつくエリシュカが、すっくと立ち上がった。


「半分戻ったの。ラネールが真珠の力を抑え込む何かを施してくれたみたい。でも、真珠そのものを私から分離することは精霊様にも無理みたいね」


彼女が装束の袖を肘まで捲り上げると、そこには彼女が影の者の姿だった時にあった緑線と同じような痣が残っていた。おそらく胸元には真珠が埋め込まれたままなのだろう。
するりと抜け出てきたのは影の姿で半透明のミドナだった。


「最後の影の結晶石は、湖の底だとさ!」

「私絶対行かないからね」

「誰もオマエに言ってねーよ」


水底、と聞いただけでぐにゃりと表情を歪めるエリシュカに、ミドナもほとほと呆れたと言わんばかりに息をついた。

俺はというと、影の結晶石の正体を知ったことによるショックから立ち直れないまま……じっと俯いていた。
村の仲間を助ける手助けの交換条件。そういう名目の元この小人の使いっぱしりにされてやったわけだが、俺は果たして正しいことをしているのか?

ミドナにこの力を渡していいのか?


「おい、忘れたのか」


逡巡する俺を戒めるようなミドナの尖った声が、鼓膜を震わせた。


「結晶石が揃わなきゃ真珠の力は奪えない。このままじゃコイツも死んで胸くそ悪くおじゃんだぞ」


夕焼け色の真っ直ぐな瞳が、俺を見返す。
俺はその言葉に、素直に頷き返せないまま。


「私のことはさておき、あなたたち何か忘れてない?」


エリシュカが場を取り成すように明るい声をあげた。
俺とミドナの疑問のまなざしを受けてから、彼女はほんのすこし眉尻を下げて微笑う。


「ルテラ様が言っていたでしょう、王子殿下をお助けしなくちゃ」

「……そうか。助けたらゾーラの加護を与えるって言ってたっけ」


湖底の神殿にゃあおあつらえ向きじゃないか、と口角を上げるミドナを一瞥して、俺は俯いた。
そっと俺の手のひらをとったエリシュカが顔を覗き込んでくる。


「ほら、イリアを迎えにいくわよ」


瞳だけを動かして、彼女と目を合わせるけど、俺は力なく頷くしか出来なかった。
ふれあう手のひらが何処か切なくて、嫌な予感しかしなかった。




***




リンクと一緒に訪れた酒場に、彼女と少年はいた。
生存の確認、無事な様子に深く息をついたのも僅かな間。私はまたすぐに息を呑むことになる。


「イリアの記憶が、ない……?」

「あぁ、幸い目立つ傷はなかったんだけどねぇ。今じゃ自分の名前も思い出せないのさ」


匙を投げたヤブ医者と入れ違いになって入った酒場で、彼女は幼馴染みの顔を見ても一切反応を示さなかった。
リンクは俯いたきり一言も言葉を発さなくなってしまって、奥のテーブル席でひとまず休ませている。

私も別空間でラネールの話を聞かされたから分かる。たぶん、いろんなことが重なりすぎていい加減キャパオーバーを起こしたのだろう。今の彼は、こんがらがって消化出来ないまま胸焼けになってしまっている。


「困ったもんだよ……カカリコ村のレナード牧師に治療を頼むにしたって、平原を越えるには危険が伴うしねぇ」


ゾーラ一族の頼みの綱であるラルスは今や瀕死の状態。心配そうに様子を見ながら看病を続けるトアルの少女の背中を見つめ、私は心を決めた。


「リンク!いつまでもへこたれてんじゃないわよ、今すぐエポナを呼んでっ」

「……?」

「ぼーっとしてる場合か!剣士が二人も護衛につけば平原越えなんて楽勝よっ」


そうよ、落ち込むのは後回し。
やるべきことを成さなければ、またひとつ命をないがしろにしてしまう。そんなの御免だわ。

私の考えに納得がいった様子のテルマさんがイリアに声をかけるのを横目に捉えながら、私は馬を借りに一足先に酒場を出た。





「あんた、あの子の知り合いだね」


恰幅のいい酒場の女将にそう言われてから、漸くエリシュカが居ないことに気が付いた。

小さく頷く俺を慰めるような、落ち着いた声音で彼女は続ける。


「いい子じゃないか、我が身も省みずに小さな命を助けようとしてるんだ……腐った兵士どもよりずっといいさ。守っておやりよ」


守る。その言葉が、今はただの重荷にしか感じられないのは、どうしてだろう。

エリシュカのことも、俺は何もしてやれないままだ。イリアだって、きっとそう簡単には記憶も戻らない。不安な思いをさせるのだろう。
よかれと思って手助けをしたミドナは、何をするつもりなんだ。


無知なまま、大義ばかり並べ立てて、実質俺は勇者って名前に引きずられただけの空っぽな奴なんだろう───……。


「それにしても、エリシュカは元気になったねぇ」

「……?」

「この街にいた頃は、おとなしくて寡黙でいつだって何かを抱え込んで怖い顔して……街を出るって言ったときも、ひどい面してたもんさ」


おとなしくて寡黙?あいつは最初からおしゃべりで明朗快活で、


「何か吹っ切れたんだろうね。ありがとう、坊や」


そうか、俺はまだまだ無知なんだ。
だけどそれは後悔じゃない。


知らなくちゃいけないんだ。
守るために。

誰もが笑っていられるように。

[ 18/71 ]

[*prev] [next#]
back




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -