かわってしまった
エリシュカの案内でハイラル湖へ向かう。
途中、二手に別れた道の真ん中に立て看板を見つけて、その前に立ち尽くしながらエリシュカはむうと唸り声を漏らした。
「ううん、困ったわね」
『どうしたんだ?』
「湖に降りるには、このトリトリップってアトラクションが要り用なんだけど……この姿じゃあ驚かせちゃうかも」
『あぁ、そうだな……ていうか、そもそもどんなアトラクションなんだ?』
「コッコに掴まったままこの高台から湖にダイビングするの」
『おっかねぇ!』
「つか、オマエ狼だから掴まれないだろ」
「それもそうね」
普通のよりも一回り二回りはでかい狼(俺)と、足がない黒魔女みたいな血色悪い女に小生意気で髪の毛操る小人って、よくよく考えてみればものすごい組み合わせだ。
別の道はないかと回り込んだ先のハイラル大橋。エリシュカは橋の際から湖を見下ろして、渋い表情をした。
「……ずいぶん水が減ってる」
『そうなのか?俺からじゃあ見えないけど』
「ハイリア湖は橋の下、この窪地一帯に広がるだけの豊かな水量とその透明度の高さを誇っていたのだけど……」
「……おい、ちょっと待て。なんか、変なニオイがしないか?」
身を僅かに乗り出して湖を覗き込むエリシュカの足元で、俺に跨がったままのミドナが怪訝そうに顔をしかめた。
言われてみれば、と獣の鼻をきかせてみる。
鼻腔にねっとりとねばつくような、むせかえるにおい。
込み上げる不快感を堪えるように生唾を飲み込むと、エリシュカも気が付いたように声を上げた。
「走って!これは……油よ!!」
「ご明答。さすがは俺の認めた女」
突如朗々と響いた声に、俺は向かう先に立つ黒い影を睨み付ける。
エリシュカはひどく驚いたようすで呟いた。
「シャドウ……?私が分かるの?」
「当たり前だ、惚れた女を見紛うほど俺の目は節穴じゃない」
「あんた、あの日急にいなくなって、しばらく見なかったのに……なんでこんなことを!」
「おいおい、悠長におしゃべりしてる場合かよ」
エリシュカがシャドウと呼んだ男は、火矢を番え、それを高々中空へと引き抜いた。
どういうことだ、と歯噛みするミドナ。
俺は全身を奮い立たせて威嚇する。
「ヤツはたしかに……そんなバカな!」
『アイツが何者かは知らねぇけど、俺ははなから信用しちゃいなかったさ!』
俺達3人は弾かれたように駆け出す。
がつん、と石造りの橋に何かがぶつかる音。振り返らずとも分かった。瞬間、爆発的に燃え上がる炎の熱と焼け石のにおいが広がる。
しかしシャドウは再び火矢を番えて、次に自らの足元を射る。俺達の行く手を阻むように爆炎が上がった。
「揮発性の石油かよ、タチ悪りぃな!」
「私もろとも燃えてかまわないってのね!!!」
「フフ、おまえはその程度じゃ死なないだろう?来いよエリシュカ。それともなんだ、横のわんこよろしく怯えてんのか?」
『俺はわんこじゃねぇし怯えてもねぇよ!!!』
影は陽炎の向こうで幾何学の塵と化し、流れるようにして湖に降り注いでいく。
前後から迫る炎に狼狽えるエリシュカと俺に、ミドナが鋭く叫んだ。
「さっさと逃げるぞ!ワタシは丸焼きなんてごめんだからな!」
「に、逃げるって……」
『仕方ない、飛び降りるぞ!』
急いで近くの木箱を橋の縁に寄せ、へりに登ってエリシュカにも顎で示してやる。
けど、どうしたことか、彼女はそこから動こうとしない。むしろ近付く火の手よりも、高台に立つ俺をおそれているように見える。
『何してんだよエリシュカ!早く!』
「いやよ……だって、だって下は……!」
「だぁぁああもう!!!」
痺れを切らしたミドナが、髪を大きく振りかぶってエリシュカの肢体を握りこんだ。
それをしかと見届けてから、俺は思い切って踏み込み、そして────……跳んだ。
「いやぁぁぁあああああああ!!!!!!」
嗚呼、こんな甲高い声出せるんだな、おまえ……。
ばしゃんと、みなもに鼻先から突っ込んだ。しかし腹打ちをすることもなく、泳ぎ方は獣のそれだが、俺はしっかりと水面に浮いていた。
「ここがハイリア湖か……にしても、たしかに水が少ないな」
『よし、早いとこ陸に上がろう』
「だな、この何処かに精霊の泉も……って、おい」
不慣れな犬かきでもだもだと進む俺の背で、ミドナが妙な声を出した。
「エリシュカは?」
『は?おまえが掴んでただろ』
「だよな」
『変なこと聞くなよ』
「そうなんだよ」
『ミドナ?なんかおまえおかしい……』
ひらり、と振りかざして彼女が俺の眼前に広げて見せたのは、空っぽのオレンジ色の手のひら。
「ワタシ、どっかに落としたっけ?」
『知るか!!!うぉおおい何処いったエリシュカ!?』
がうがうと吠えるけど、一向に返事がない。
あたふたとしながら水を跳ねさせていると、不意に突き上げるような流動。俺はそのまま吹き飛ばされ、陸地にうち転がされる。
何事かとそちらを見やれば、大きな水球が浮き出してきた。
「これで、影の真珠は我が物」
『!!?』
「クソッ、しまった……!」
顕現した黒影は、宙に浮いた水球を見上げて不敵に微笑む。
それまでただの水のかたまりであったそこに、うっすらと輪郭が現れ始めた。エリシュカが、中に閉じ込められていたのだ。
かたく瞼をおろしたままぴくりともしない彼女の姿に、俺は牙をむいて唸り、咆哮する。
『エリシュカを放せ!!!』
「ワン公の言葉は、俺には分からないな」
『畜生……!!!』
水上では、明らかに俺の不利が分かっている以上、不用意に手出しができない。それでも、このまま彼女を放ってなどおけない。
嘲笑う奴には、あの口ぶりからしてきっと俺の言葉が通じているはずなんだ。なのに、俺は、また何も出来ないのかよ……!
水がほどけるようにして形を崩していくと、ずるりと滑り落ちた彼女をその手で受け止め抱き上げるシャドウ。くたりと首をもたげる彼女は、果たして息をしているのだろうか。
「おい、オマエ。……どうしてザントの手に落ちた」
「ハハッ、何を言うかと思えば……おかしなことを」
「オマエは力を欲する必要もないはずだ!何故ならオマエは……」
「黙れよ」
にたりとくちびるを歪めると、シャドウはミドナの言葉にも答えずにふわりと浮上し、自身を取り囲む周囲に何本もの渦巻く水柱を出現させた。
水柱に吸い上げられるようにして湖の水がさらに減っていくのを見ながら、俺は手出し出来ぬまま。
「俺の狙いは、初めから影の真珠だった。聖獣のお前に興味はない」
『くそ……っ!返せ!エリシュカはそのままじゃ、』
「真珠と同化して人間ではなくなるのだろう?それもまた一興だ」
何をする気だ?
湖から突如立ち上った水流に、遠巻きに湖を眺めていた魂たちがどよめき始める。
『なんだ、あの大渦は!!?』
『やはり精霊様がお怒りなんだ!!!』
『いや、……待て、なんだ、あの黒い人影は!』
俺の姿は見えずとも、影に属する者たちはこのトワイライトで、実体を得るとともに魂の瞳にも視認出来るようになる。
つまりは、未だ半身の彼女もまた、彼らの目には見えているわけで。
『……っ、ば、化け物!!!』
その言葉を聞いて確信したように、シャドウは深紅の瞳を細めて嘲笑した。
「まったく救いようのない世界だ」
『やめろ───ッ!!!』
吠えたところで、後の祭り。
シャドウはエリシュカを片腕で抱え直すと、左腕を掲げ、そして──振り下ろした。
「だめだ、避けろ!」
ミドナの咄嗟の判断で、俺は湖から距離をとるべく駆け出した。獣の俊足でもってしても、波の速さに勝つのは困難だ。
水流は大きな津波へと姿を変え、水際にいたゾーラ族を襲った。水には耐性のあるはずの彼らが、みるみるうちに湖の底へ引きずられていき、息苦しそうにもがいている。
もうすぐそこまで、第二波が迫っている。俺は声が届かないとわかってはいても、硬直して動けないでいる人間に向けて叫んだ。
『逃げろ!!!』
つんざくような悲鳴もろとも、津波に飲み込まれる───
刹那、波が中央から左右に裂けて、まるでくくりつけられたような房を上下に作りながら、ぴたりと動きを止めた。
波が開かれていく様は、……そう、例えるなら……
「魔法のカーテンの出来上がり、ってね!」
張りのある声音に、勢いよくその向こう側を見やる。
両手で強く紐を引き寄せるように、肘を曲げた形で腕を固めているエリシュカが、金色の瞳を煌めかせながら笑っていた。
縛られた波から彼女の腕までを繋ぎ、絡み付いているのは、翡翠の光の糸。
手繰り寄せて、湖の上で波を弾けさせると、彼女は素早くシャドウの手から飛び退いて再び糸を湖の底へ。その様は釣糸を垂らすより速く、そして静かなものだった。
引っ掛かった何かを絡め取った糸を、その手で強く引き抜けば、水底に沈められていたゾーラ族が糸から解き放たれて宙を舞う。
「……ほう、そう来たか」
「ふん!白々しくお尻触らないでよ、この助平!」
『はぁ?!尻触られたのか!!?』
「オマエは黙っとけこの思春期」
エリシュカの爆弾発言に声を大にしてわんわん吠える俺の頭に、ミドナがバシバシと小さな手で暴挙をはたらく。
宙をふわりふわりと浮遊しながら、水際の地に降り立つエリシュカ。がくりと体勢を崩したのを見てから気付けば、彼女はもう膝まで足が出来上がっていた。
『エリシュカ!』
「ッ、……大丈夫よ。今ので力加減はなんとなく掴んだから」
体を起こし、腕を構えるエリシュカ。彼女の身体に走る緑線が明滅する。次の瞬間、ぞわりと彼女の右半身が黒肌に染め変わった。
「おい、待てエリシュカ!」
「心配ご無用よ、ミドナ。乗っ取られるくらいなら、力も限界まで使いこなしてやらなくちゃ」
「バカやろう!だからって、侵食を早めるようなこと……!」
僅かばかり上がった呼吸を整えると、エリシュカは腕を大きく振るった。真っ直ぐシャドウ目掛けて飛び出す翡翠の光糸。
おとなしく縛り上げられたシャドウが、静かな声で糸を見やりながら言った。
「……なるほどな。古き魔力を紡ぎ、より合わせて、雷の光糸に……。
しかし、自ら影の真珠の力を全身に巡らせるとは、早死にしたいとしか思えん。愚かなことを」
「何言ってんのよ、誰も着ないものを身に纏ってこそ、衣類の芸術の最先端に立てるってもんよ。
私を誰だと思ってるの?お貴族サマ御用達、城下町一番の仕立て屋よ!」
ニッと笑って、エリシュカは腕に力を込めた。導火線のようにして、糸を伝い雷撃が素早くシャドウに迫る。
「まったく、おまえは昔から頑固なやつだよ」
シャドウが何かを言いこぼした直後、雷撃が彼の身体を貫いた。
暫く痺れたように痙攣しているも、特に支障は無いような顔色で彼はニヤリと口角を上げた。
「……そんな、」
「生憎、俺とおまえじゃあ相性が悪い」
驚愕の色に顔を染めるエリシュカを更に嘲笑うように、奴はエリシュカの光糸を水で作った剣で断ち切る。解放された彼はまた端々から塵へと姿を変え、言葉を残して何処かへ消えていった。
「おまえとは、いずれ剣同士を交えた戦いがしたい。俺は待つとしよう。
そのときには、聖獣も相手にしてやるよ」
再び静かになった湖に、光糸で縛られていた水のカーテンが形を解いて降り注ぐ。
エリシュカを仰いだ俺は、自分の手のひらを見つめてゆっくりと瞬く彼女の姿を見た。
「……エリシュカ?」
「……なんでもないわ。先を急ぎましょう」
その時たしかに感じた違和感を払拭するように、エリシュカはまた笑顔を浮かべてみせた。
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