父も兄も不在だった。
「ア゙ア゙ァァ゙アア゙アアア゙アア!!!!!!」
「っく、ぅ…っ!」
息ができない。苦しい、くるしいよ。
幼い頃から半ば軟禁されていた私の部屋は、屋敷でも外れの方にある。
父の愛故だ。何者をも近付けないため。部屋の出入口までは、兄か使用人が同伴。私ももう来年には成人になるって言うのに、過保護なのだ。
それが災いしてか、私の部屋の前の廊下は滅多に人が通らない。だから、ダリルが大声を上げても誰も気付かない。
私が絞め殺されかけていたって、誰も気付かない。
ぎりぎりと締め上げる指の力はやはり人間業ではない威力で、すぐに酸欠状態に陥った。
下が床でなくベッドだったのはまだ幸いだったが、このままだと握力で首の骨をへし折られてしまう。
なんとか彼の手をほどこうと、首にかかる手に自分の手をかけるけれど力が入らない。
頭がつんと痛んできた。酸素が行き渡っていない証拠。ぼんやり曇る視界に映った彼は、瞳を真っ赤にしていた。
燃え上がる火の色。爛れ滴る血液の色。そこに私は、映っていなかった。
干渉しては、いけなかったか。
レディなのに、デリカシーがなかったかもしれない。そう自嘲的に胸中で呟いた。
首にかかる力は増す一方だ。
「……っ、ぅ、」
「ア゙ア゙アァ゙ァアア゙ァアア゙ァ゙アア…ッ」
離して、と声を出すことも出来ない。
頭がぼうっとしてきて、何も考えられなくなってきた。
苦しい。苦しい、苦しい、くるしい、くるしイ、クルシイ…!
あ、と。
声を漏らした瞬間だった。
空を穿つような、高く鋭く響く発砲音。
「ギャァァア゙アァ゙アァア゙ア゙ァアアァ゙ァア!!!!!!」
かひゅ、と音を立てて瞬時に空気が肺に取り込まれた。
突然すぎる吸気にむせかえった血の味。喉を潰される寸前だったらしい。
目眩と共にひどい頭痛が脳髄に響いた。呼吸を繰り返すごとに、酸素が血液へ取り込まれていく。
大きく叫び声を上げたダリルは、ベッドの上から落っこちて暫くのたうち回っていた。右腕からひどく血が溢れている。
誰が発砲したのだろう、とぼんやり扉の方を見て私は青褪めた。
「次は足にしましょうか…」
父だった。唇ばかりが三日月に歪められていて、彼のガーネットカラーの瞳は虚ろに煌めいた。
ダリルを、殺す気なんだ。そう悟った私は、呼吸もままならないままに転がるダリルの傍へ這い寄った。
「ダリ、…ル、」
「サーシェ、そこを退きなさい」
「だめ!」
「約束でしたよね?何かあったら殺すと。吸血鬼は心臓に杭を打たない限り死なないのでしょう?」
「やめて…!」
「ほぅら、もう血が止まってきましたよ。これは面白い」
ダリルを背に庇いながら父を睨み付ける。空虚だった表情から、至極愉しそうな笑みに変わった父。
その言葉にはっとなって振り向くと、さっきまで床で身体を丸め呻いていた彼は、もう立ち上がれるほどに回復していた。血は止まってきているようだけれど、やはり撃たれた箇所を左手で押さえている。痛みが消えたわけではないのだ。
「ダリルッ、」
答えはない。だけど、彼の瞳の色はもう深紅ではなかった。翳ったアメジストカラーが、私を捉えることなく虚ろに揺らめく。
真っ赤に染まった袖を隠すようにマントを翻すと、ばしゅんと音を立てて霧散する。霧になったダリルは、しゅるしゅると渦を描くようにして窓から逃げていった。
ほぅ、と息をつきながら窓の方を見ていると、父がため息をついた。
「なーんで逃がしちゃうんですかねぇ、せっかくイイトコロだったのに」
「父様…っ」
「人智を越えた回復力に変身能力。捕まえて解剖したら面白そうだ」
「やめてよっ!」
生まれて初めてこんな大声を出した。
父の言葉が、何処までも胸にいたくて、頭の奥に響く鈍痛が私を苦しめる。これは、もう酸欠なんかの痛みじゃない。
「ダリルを、オモチャみたいに言わないで…っ」
「………ほぅ?
ならアレはなんですか?」
「ぇ……、」
「オモチャじゃないなら何なんです?
自分こそ、餌付けして手懐けて、いいように使ってたじゃないですか」
「違う…、手懐けてなんか、」
「ならご主人様気取りですか?
嗚呼、軟禁されて閉鎖空間に人間が立ち入らないのをいいことに、遊んでやってたんでしょう?あんなことやソンナコトして」
「してないっ!」
「どーだか」
怒りと羞恥と、それでも命を救われたという事実が絡み合って頭がごちゃごちゃし出した。比例するように私の顔は赤くなっていく。
彼とは、血を与えて与えられて、それからお喋りをするだけの関係だ。
夜な夜な標的を殺害した私の元にふわりと現れて、事件が発覚することすらないようにと子飼いの悪魔を召喚し死体を始末する。悪魔に餌を与えるような気概で彼は手伝う。そこに貸し借りなんて言葉は存在しない。
無論彼と如何わしい事柄など一切していない。彼は食欲だけで私のもとを訪れる。そういった欲求を向けてこなかったからこそ、今まで親密な関係になる男性が家族しかいなかった私でも積極的に話すことができた。
それなのに。それなのに、父は。
「どうして…どうして父様、そんなこと言うの」
「はい?」
「大体、なんで帰ってきたの。今日は、ロンドンまで出てくるんじゃなかったの」
「胸騒ぎがしたんですよ。
何か楽しいことが起きる予感です」
「それで、なにも知らないのにダリルを撃ったの?」
「撃たなかったら、貴女が死んでいましたよ?」
「でも、だからって」
「やっぱり殺しておくべきだった!!」
突然天井に向かって高らかに声を上げた父。にぃと開かれた唇からギザギザの歯が覗く。
私はいま、ダリルの牙なんかよりも父のあの歯の方が余程恐ろしく見えた。物理的にも、精神的にも、ごっそり根刮ぎ食いちぎられてしまいそうで。
「僕の大事な大事な愛娘が、人外の獣に犯されてしまう──そう思ったときに、殺しておくべきだった!」
「父様…?」
「久しくわがままを言うから我が子可愛さに甘やかせばすぐこれですよ…サーシェ、貴女はこの父よりもあの吸血鬼の方が大切だと言うのですか?」
哀しげに細められた瞳。だけど、すぐそれが本物でないとわかった。狂気が滲んでいる、作られた表情。
父を呼ぶ声も震えてしまう。実の父なのに、どうしてこんなに恐怖を覚えているのだろう。
「答えられないんですね。
ああ困った、以前は逡巡することなく即答してくれたというのに…」
「…………」
「最近は僕の頼み事≠熄aるようになりましたしね。殺しは嫌になっちゃいましたか?」
「…………」
なんて答えればいいかわからなかった。
俯いたまま口を開こうとしない私に気が付くと、父は私に歩み寄り、
ぱしん、と頬を叩いた。
「残念ですよ」
その一言だけ告げて、父は部屋を出ていった。
室内に充満する、血液と硝煙の臭い。
むせかえるように立ち込めるそれに呼吸がつまって、私は叩かれた頬に手を当てた。
「………ぅ、」
漏れ出たのは、呻き声だけじゃなかった。
眦から透明の雫が滲んできて、ぽたりと膝に落ちた。
止まらないそれに、私はただ呻き声を漏らすだけ。
きっと私は、もうここから一生出ることは出来ないのだろう。
「父上」
「あぁ、アンドレイ君。お帰りなさい」
廊下で出会した、屋敷にいるはずのない男に青年は声をかけた。
ひどく悦楽に満ちた微笑みを湛えながら返答した男に違和感を覚えて、彼は悟る。嗚呼、違う。こっちが彼の本性なのだ、と。
「先程の発砲音は?」
「僕ですよ。吸血鬼が気狂いしてサーシェを襲っていましたから、つい」
「……それで?」
「逃げました。仕留め損ねたのは残念でしたねぇ、ですが捕まえていたぶるのが楽しみになってきましたよ。杭を打たねば彼は死なない、どんな痛みをその身に受けたとしても」
狂気に満ち満ちた男の笑顔を彩るガーネットカラーの瞳には、猟奇的な煌めきが宿っていて。
それを苦いものを噛み潰したような表情で見ながら、青年は呟いた。
「………やはり、過保護すぎでは?」
「何がです?」
「サーシェくらいの年の頃は多感な期で、心の成長を見込める時期です。誰かと親しくなったり、会話を楽しむことを望み、出会いを求める頃のはず。
部屋に閉じ込めておくのも、如何なものかと…」
「いいんですよ、あの子はあれで」
青年の横を通りすぎた男は、表情を見せることなく、且つ一際低い声音で言い放つ。
「彼女の生き写しで、血を、魂を引き継ぐ。謂わば、彼女の生まれ変わりにも等しい子だ。
誰にも渡さないし、誰にも関わらせない。彼女が望んだように、家族円満に過ごしていければいいんですよ。そこに他人は必要ない。
あの子は僕の女です」
狂っている、と、青年は男がいなくなった廊下で、独りごちた。
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bkm