中一の春に、女の子の友達ができた。
季節が巡って、次の年の春がやって来る頃、俺はその子のことが好きになっていた。
「あれ、椎柴だべ」
「……菅原くん」
名前を椎柴悠というその子は、とっても小さな世界の真ん中にひとりぼっちでいた。
自分の足元ばかり見つめて、誰とも足並みを揃えないまま寂しい心さえ忘れてしまったみたいに、独りでいることに慣れっこになって。
授業の途中で登校してきたり、気が付いたら早退していたり。
俺の前の席に居たり居なかったりするその存在はとても奇妙で、どこか好奇心を掻き立てるようでもあった。
いつも俯いている彼女の顔を、よく見たことがなかった。プリントを回してくるときもほとんどこちらを振り向かないから。
初めて保健室で話をしたとき、驚くほどくるくる変わる彼女の表情に、自分でも気付かない心のどこかが惹かれていたんだと思う。
彼女は誰かと関わることにひどく怯えていたから、人目につかない場所や時間だけを選んで話しかけるようになった。
「なー、シバはバレー好き?」
「?バレエ?」
「違う違う、バレーボール。今体育でやってる種目」
友達になって、運動のできない彼女にたくさんバレーの話をした。時々呆れられたけれど、それでも彼女は黙って俺の話に耳を傾けた。
自主練の相手を頼んでから、彼女はほんのすこしだけ自分の話をするようになった。
長いようで短い学校生活の何割かを彼女と過ごすようになると、彼女は俺を拠り所に選んだみたいに、度々視線を寄越したり移動教室のとき後ろをついてきたりした。
不器用な彼女なりの、近付きかた。俺はそれを知って、嬉しくなって、もっと彼女が俺に歩み寄ってくれたらいいと思った。
誰も知らない彼女のことを、俺は知ってる。
誰も呼ばない名前で、俺は彼女を呼ぶ。
それが、ちょうど背伸びしいな年頃の自分にやけに優越感を覚えさせた。
シバの小さな世界が、俺にだけ開かれたと思い込んでいた。
「なぁ、あの子いつもスガといるけど、幼馴染みか何か?」
「あぁ、あいつはシバっていって……──」
ある日、バレー部の仲間にシバのことを聞かれた。
俺は嬉々として彼女のことを話した。俺しか知らない彼女の話。彼女が、俺だけに打ち明けた話。
だけど、中学生特有の羨望からくる誰かを冷やかしたい心には、それが格好の獲物に写った。
話は歪んだ形でひとの口から口へ伝わる。
椎柴悠は病弱で陰気な性格、友達のいない女の子。
菅原に付きまとう変人。
菅原は付き合わされている。迷惑がっている。
椎柴は相手に自分を押し付ける嫌なやつ。
「違う、シバはそんなやつじゃない!」
「あんなやつの味方することないだろ、スガ」
シバは孤立した。
今まで誰も興味を示さなかった存在から、誰もから嫌悪される存在へ。
そうして暫くとしないうち、シバは学校に来なくなった。
俺は可哀想なやつ≠ニいう哀れみの視線を受けた。息苦しい日々が続いた。
俺はシバに謝りたくて、彼女に学校に来るよう説得するべく彼女の家まで足を運んだ。
でも彼女はちっとも姿を見せなかった。何度通っても、両親さえ顔を出さない。
そうして気付いたんだ。彼女は、家でもひとりぼっちだったんだって。
「シバ、」
午前授業だった日の帰りにシバの家を訪ねると、病院帰りらしい彼女と出会した。
実に1ヶ月ぶりのこと。季節は夏へと移り、薄手のワンピースから覗く彼女の手足は以前よりも青白く見えたのを覚えている。
「……あ、あの、俺」
いざ本人を目の前にすると、声の出し方を忘れたみたいに何もかもが喉の奥でつっかえた。
「……シバに、謝らなくちゃ、って……」
「何を?」
心臓が震え上がった。
その時一瞬、時間が止まったようにすら思えた。
「何を、謝るの」
一目散に逃げ出した。
耐えられなくて、苦しくて。
シバの真っ直ぐで透明な瞳が好きだったはずなのに、その時ばかりは何よりも恐ろしく感じられた。
分かってたのに。責められると思うと、シバに嫌われると思うと、もうその場に居られなかった。
「スガ!」
俺を追いかけてきた彼女を振り返った自分の目に映る光景は、今でも鮮明に思い出せる。
けたたましいクラクションとブレーキ音だって、未だに耳に残っている。
あの車の運転手が、飛び出してきたシバにいち早く気付いて速度を落としていなければ、彼女は最悪の結末を迎えていたに違いない。
見舞いに通ううち、シバは「スガのせいじゃない」を繰り返した。
「スガが謝ることなんて、ないよ。全部、根暗な私が招いたことなんだし」
「それは違う」
「でもね、スガが毎日のように来てくれて、たくさん安心したよ。私、スガに迷惑ばっかりかけてたから」
「違う、俺が馬鹿だったから」
「だから、もうその話は終わりにしよう。私決めたんだ、高校は山の裏手にある烏野にするよ。そこならきっと、私のこと知らないひとでいっぱいのはずだから」
シバは中3の夏から、また登校するようになった。
ほとぼりが冷めて、誰もがまた彼女に目を向けることがなくなって。受験勉強のためだけに学校へやってくるシバ。俺は部活を引退すると、時折彼女の家を訪ねて勉強を教えた。
学校では、話し掛けもしない他人のように振る舞った。周囲の反応が怖かった。
そうして二人とも高校に合格して、俺は心に固く誓う。
必要以上にシバに干渉しないことを。シバの友達であり続けることを。
矛盾した心を抱えて、それでも俺は二度と自分の勝手で彼女を傷つけることがないように、誰かがシバを傷つけるなら俺が身代わりになるくらいの覚悟で。
そうやって、償うしかないと、思ったんだ。
「ぼんやりした、生ぬるい覚悟だよ」
乾いた笑いすら漏れない。
「なんだよ、身代わりって。俺、いつまでも馬鹿なままだ。中途半端に仲良くするくらいなら、金輪際何もなくて済むようにって、縁を切ればよかったのに。
シバの優しさに甘えたんだ。責任とらなきゃって、俺がやらなきゃって、それさえも自己陶酔にすり替えてたんじゃないかな」
じゃなきゃ、シバが俺を好きだなんて馬鹿げたことを言うはずもなかったんだ。
「ばかじゃないの」
痛く刺さる、声。
清水の鋭い視線が俺を絡めとり、ぴくりとも動けなくさせる。
静寂を裂くように吐き出された言葉に、旭や大地も彼女に目をやった。
「菅原は、もっと賢いやつだと思った」
「な、なんだよ」
「どうしてそこまでして気付かないの。ううん、分からないふりをしているの」
静かな語調からひしひしと伝わる、怒り。憤り。
妙なことを言えば、いつかの西谷が受けたものよりも痛い平手打ちが待っているような気がして、俺は息をするのも慎重になる。
「ほいなことになったって、シバはあんたを許したんでしょ」
「……許したっつーか、」
「いつまでむんつけてるつもりなの!」
「いって!」
結局食らった手のひら。頬には綺麗な紅葉ができていることだろう。
男二人がひぃと声もなく身を引く様に、普段冷静沈着な我が部自慢のマネージャーの尋常ではない感情の昂りを改めて感じる。
見れば、ちらつく外灯に照らされた彼女の目元が僅かに濡れているのに気が付く。
清水は思わずひっぱたいてしまったといった様子で、自分の手のひらと俺をぱちぱちと瞬きながら見比べたあと、小さな声で呟いた。
「シバも、何も言わなすぎよ」
「え、」
「シバも菅原も、何も言わないから!」
「気いつけて帰れよー」
大地が調子外れな声をかける。きっと踵を返し、独り帰路についた彼女の背をぼんやり見送っていると、「まぁ、」と旭が口を開いた。
「清水が言いたいこと、なんとなく分かるよ」
「まさか先に手が出るとはな……よっぽど怒ってるぞ清水」
「うん……」
「だってさ、スガ。その……中学の頃のお前らを、俺たちは知らないから。あんまり込み入ったことは言えないけど……少なくとも、椎柴さんは自分の力で立ち直ったんだと思うな」
その時、俺は瞬くことを忘れた。
無意識のうちに俯いた自分の視界には、情けない己の足元ばかりが映る。
「お前が全部背負い込まなくたって良かったんだ。彼女は自分の中で整理をつけて、けじめをつけることを見出だした。でもそこに、お前の支えがあったことも確かだ」
「………」
「ひとつ山越えて、それでもお前との繋がりが途切れなかったから。だから、彼女は今も、ああして笑って過ごせたんじゃないかな」
旭の穏やかな声音が、染み入るようだった。
「ヒゲチョコもたまにはいいこと言うなぁ」なんて大地の冗談めかした声が遠くに聞こえて、それからそっと肩に乗せられた手のひらに、つっかえていたものがみんな溢れ出すようだった。
「ばっこ遠回りしたけどよ、もういいんじゃないか。スガ」
「…………」
「不必要に堪えんなよ。おまえがすべきは、椎柴を遠ざけて悲しませるより、また一緒に笑いあえる仲になることだろ」
「………かな」
「ん?」
「……俺、」
「うん」
「あいつのこと、好きでいていいかな」
少し痛いくらいの強さで、背中を叩く、二つの手のひら。
頼もしい仲間の、手のひらだ。
背に響く痛みのせいにして、むせかえるように泣く俺を見逃してくれた二人には、いつかどんな形であれ恩返しをしようと思う。
勿論、清水にも。
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bkm