時刻は、とうにお昼下がりを回って、少し涼しい夕時になった。
「本当にこの先なの?」
「いいから!」
戸締まりを済ませた家を出て、私と彼は西陽の強い道路脇を歩いていた。
彼が──ダリルくんが、ずっと前に見つけたという、とっておきの場所。
この時間が一番綺麗に景色が映るんだと言うから、お腹いっぱい食べたグラタンの消化がてら散歩することにしたのだ。
「にしてもさぁ、あの皿はないよ、ホント。趣味疑うね」
「あの可愛さが分からないなんてどーかしてる」
「分かろうとも思わないよ、まったくね」
売り言葉に買い言葉。減らず口に余計な一言。
ローワンと過ごすような穏やかさはどこにもなかった。けど、それがいつもの私達で、前と同じようなやりとりに、今日ばっかりはちっとも怒る気になんてなれない。
「ちょっと。早くしないと日が沈んじゃうよ」
「……足の長さが違うの!」
「あぁもう、」
躊躇うことなく掴まれた、腕。
手つきの乱暴さも、合わせる気のない歩幅も、何もかもローワンとは似ても似つかない。
それなのに、私は機嫌が悪くなるどころか、ゆるゆるになりそうな頬を引き締めるので精一杯だ。
景色が美しいという場所に向かっているとは思えない道のり。
排気ガス臭い大通りを渡って、高架下をくぐって、背の高いビルの隙間を縫うように足を進めていく。
だんだんと速くなる足取り、追い付くのに必死な私は最早駆け足。それでも、これっぽっちも疲れなんて感じなかった。
「ほら、着いた」
其処は、もう随分前に人の気配がなくなった施設だった。
雑草が伸びきった敷地は、かなり広く見渡せた。
古錆びた鉄格子を乗り越えて手招く彼に導かれ、私も然程高くもない一線を越える。
彼は慣れた様子で、瓦礫や鉄屑の少ない順路を選びながら私の手を引く。
なんの変哲もない廃墟にしか見えない。私がキョロキョロ辺りに目を配る度、彼に転ぶぞと咎められた。
タイルの一部がひび割れ剥がれている階段を上って、4階の一番奥から2番目の部屋に入る。
敷地の広さに見合わない狭苦しい室内を見回した。トイレと小棚だけが目立つものとして佇んでいる。
部屋の一番奥に、埃の積もったベッドが鎮座している。その脇にぽっかりと空いた窓枠に嵌まったガラスは薄汚れ、大きく欠けていた。
耳に痛い音を立てながら、彼が窓を開ける。
「…………きれい、」
四角い穴から覗く景色は、まるで1枚の絵画のようだ。
さざめく海の向こうに、ビルがいくつも並んでいる。その隙間に沈んでいく太陽が陽炎を生んで、窓の向こうは別の世界なんじゃないかとすら錯覚させるのだ。
「此処は、僕が死ぬその日まで入院していた軍人病棟だ」
ぽつり。不意に落とされた言葉。
驚いて振り向くけど、彼は私を一瞥するだけで、その視線はひたすら消えていく陽の光を追いかけるようだった。
「……嘘界から聞いたと思うけど、僕らの前世は大昔パンデミックが起こったこの国に、軍人として派遣された。
僕は総監の息子で少尉、おまえは嘘界の拾い子の私兵。一緒にミッションに当たったこともあったけど、そんなに話す仲でもなかった」
「……ダリルくん、お坊ちゃんだったんだ」
「……まぁね。……でも、色々あって僕らは国を裏切った。世界にテロを仕掛けた。レジスタンス集団に食い止められた後は、軍裁判の後大抵処刑さ」
「……私、そんな死に方したんだ」
「いや、おまえは確か、嘘界が何か仕組んでたお陰で数年の懲役で無罪放免だったはず」
「えぇ?」
お互い顔も見ずに、不気味なほど美しい光景を眺めた。
それでも平気なのは、繋がれた手のひらがしっかりと彼の体温を伝えてくれるから。
「僕は、戦争の道具として体をいじくったんだ。胸の真ん中に大穴を開けて、脳みそにも機械をくっつけた。アンドレイのせいで無様に生き残って……、あとは手術痕から腐って死ぬのを待つだけだった」
「……ローワンは?」
「僕を逃がして、……そのあとは、知らない。きっと死んだ」
ローワンの胸元にそっと手を当てながら口にするダリルくんの表情は、それはローワンの顔であるはずなのに、ぞっとするほど真っ直ぐで綺麗で。
息を止めて見つめる私に目もくれない彼は、当時を思い出しているのだろうか。
「……ほっといたって死ぬのに、治す気もないくせに、僕は他の兵士と一緒にこの施設に収容された。戦犯を野放しにしないためさ」
「………そっか」
「毎日死ぬまで、ここからこの景色を眺めた。……ほら、あそこ。見て」
「……あれ、」
彼が指差す方向には、見覚えのある古ぼけた建物。
初めて彼──ゴーストの姿のダリルくんを見つけた、あの空き家があった。
「僕、アンドレイが死んだって信じたくなくてさ。此処を抜け出したら、あの空き家であいつと暮らすんだって……あの空き家に、きっとアンドレイが待ってるんだって、妄想してたんだ」
「……どうして、あの空き家?」
「知らないよ。……脳みそがおかしかったんだ、きっとね」
死んでから行ったところで、あいつの姿は影も形もなかったけど。
自嘲気味に微笑って、目を細める彼に、ひどく胸が痛くなった。
そんなふうに信じなくちゃ、まともでいられなかったんだ。悲しすぎて、寂しすぎて、苦しかったんだ。
そんなふうに、ローワンは、彼に想われていたんだ。
「……なんでおまえが、そんな顔するの」
ようやっとこちらを向いた彼の瞳は、情けない面で唇を震わせている私を捉えた。
「……なんか、いや」
「なんだよ?」
「……また、死んじゃうみたいで」
漠然とした恐怖。
こんなに近くで、触れられる距離で、むしろ手のひらさえくっついているのに。
どこまでも遠くに彼が在るようで、息をするのがつらかった。
「……馬鹿言わないでよ、僕もう死んでるのに」
「ねぇ、消えないで」
「…………くそ、3ヶ月前なら鼻で笑い飛ばしてたのにな」
その微笑みが崩れたことで、確信した。
彼は、いってしまうつもりだ。
もう二度と、私の目に映らない場所へ。
一切干渉出来ない、遠い遠い場所へ。
より強く握った手のひら。しかし彼の手のひらは、力を緩めて私のをやんわりと振りほどいてしまう。
「やだよ、……ねぇ。ダリルくん」
「………」
「いかないでよ、ねぇ」
「………………、」
「返事してよ!……違うって、言ってよ……お願いだから」
太陽は、もうとっくにビルの向こう側だ。
みるみる暗くなっていく空の色は、私の心模様を写し出したようだ。
こちらに向き直った彼は、繋いでいたのと反対の手のひらを伸ばして、私の眦からこぼれ落ちる涙を拭った。
「おまえ、泣き虫になったね」
「……っ、」
「それって僕のせい?」
しがみつくように、あたたかい手のひらを掴んだ。
私に彼を引き留めるすべはない。仮初めの体を繋いでも、彼はきっといってしまう。
「やだ、やだよダリルくん」
「……」
「私、ダリルくんが居なきゃたくさん寝坊するの。ゴミの日だって忘れるし、ご飯もまたパンばっか。ダリルくんが好きそうな映画も見つけたんだよ、帰りに借りてって一緒に見よう?」
涙声で必死に訴えたって、彼は哀しそうに微笑うばっかりだ。
「全部、アンドレイで代わりがきく」
「きかない!!ダリルくんじゃなきゃ、」
彼に出会うまで、私はどちらかといえば無感動な人間だった。
来世はたゆたう雲か草の葉になりたいと考えたこともある。
こんなにたくさんの涙も、いっぱいの幸せも、君がいなかったら知ることはなかっただろう。
「…………、やっぱり癪だ」
突然暗くなった目前。
くちびるすれすれで掠る吐息に、刹那心臓までもが止まったように感じた。
影は少し上方に滑っていき、私の額に軽くくちびるを落とした。
「アンドレイがキスするのも、おまえがキスされるのも嫌だ」
「………な、」
「口にするならどっちも僕がいい」
悪戯が成功した子供みたいに、心底楽しそうに笑った彼。
理解が遅れてぱちくりと瞬けば、ローワンに透けてダリルくんが半身抜け出していた。
ローワンの手のひらが、私の両頬をつかまえてにっこりと微笑う。
指先はひどく冷たくて、彼が寛いだあとのベッドの感触を思い起こさせる。
「いい?よく見て」
「何を、」
「いいから。僕の顔、ちゃんと覚えてよね」
私の目には、いつの間にか忘れてしまったと思っていた、懐かしいブロンドと紫色の綺麗な瞳が映った。
ほんのすこしの光を受けて、うっすらと橙の輪郭に煌めく姿は何処か立体的で、手を伸ばしたら触れられるんじゃないかと思える。同時に、触れてはいけないと無意識に思う。
じっと焼き付ける。嗚呼、もう二度と忘れるもんか。こんなにかっこよくて、腹立たしくて、愛しいひとの顔を。
「……あーもう、また泣く」
「だっで……」
「今度は目尻に皺ついて消えなくなるくらい、絶対笑わせてやるから」
氷みたいな指先が、つむじから私の髪を撫で付けてまた涙の痕を消していく。
「サーシェ、すきって言って」
「………、」
「言ってよ、ほら」
「……ずるい」
すきよ。すき。何度だって言える。
ああもう、言わないって、一生って、決めていたのに。
最初から最後までずるいひと。
「すき」
満足そうに微笑うと、体を抜け出した冷たいくちびるが、私の涙とくちびるを浚って、ふわりと消えた。
「……、あれ、俺……」
「……サーシェ?泣いてるのか……?それに此処は、」
「…………嗚呼、」
「……馬鹿だな、忘れてたなんて」
ぐずぐずの顔で嗚咽を漏らす私を抱き寄せながら、ローワンもまた泣いていた。
私たちは今日、大事なものを思い出して、そしてなくしたんだ。
***
─────……
あれから、もう何年もの月日が経ちました。
あの部屋の窓のヒビだけが、唯一君が確かに存在した証。
でも、最近になってもう少し広い部屋に引っ越したんだよ。住む人が、増えるからね。
「随分辺境にあるんだな……」
二人の左手薬指には、お揃いの指輪が嵌められている。
私たちの住む都心から少し離れた山林の奥に、目的の施設はあった。
「楽しみ」
「分かるけど、ちゃんと寝ろって言ったのに」
「眠れなかった!」
「これから母親になる人とは思えないな……」
化粧で隠してもどことなく不自然な目の下の隈を、手鏡で写しながら指でなぞった。うーん、ちょっと顔色悪いかな。怖がらせちゃうかも。
私とアンディ──ローワンと呼んでいた、あの優しい彼だ──は今日、とある孤児院を訪れていた。
籍を入れてすっかり夫婦生活が板についた私達だけれど、子供だけが出来なかった。残念だけど、前世で多くの命を摘んだ私達への神様による罰なのかもしれない。
家庭環境に恵まれなかった彼を前世でアンディが愛したように、私達も孤独な心を抱えた誰かを家族として迎えたいと考えて、養子をとることにしたのだ。
今日はこれから家族になる子を選ぶ。全員に援助をしてやれないのが心苦しいけど、元々私達は貧乏暮らしだから子供も一人で手一杯だ。
「どんな子がいるかなぁ?」
「なついてくれるといいけど」
「アンディはいいよ、私いつも愛想が悪いからって」
「まぁまぁ」
施設の入り口にミニバンを停めると、待っていましたと言わんばかりにエンジン音を聞きつけて施設の役員さんが現れた。
連れてお役所の役員さんも登場だ。金髪に眼鏡、ナイスバディなお姉さんと、後ろに流すように立てられた白髪に立派な口髭が特徴的なおじさん。絵面だけじゃとても孤児院を連想出来そうにない。
「どうぞこちらへ。子供達を集めてあります」
「以前お話したように、ある程度目星はつけてもらっていたかと思うので、手早くお願いします」
「(あんまりいい感じの人じゃないね)」
「(今日初対面なのに無理を言うよなぁ)」
アンディとひそひそ話しながら彼らについていくと、こぢんまりとした施設の中で一番広いホールに子供達が集められていた。
ホールに一歩踏み込むと、たくさんの目が一斉にこちらを見る。動物園の動物になった気分だ。
「一人ずつ自己紹介よ」
孤児院のお姉さんに言われて、並んだ端の子が立ち上がり、名前と年、簡単な自己紹介をする。順番にそれが続いて、私とアンディはにこにこしながらそれを眺めた。
そんな中、2列目4番の男の子が、すっくと立ち上がる。
「……うそ、」
私の呟きに、役員二人がこちらを見た。アンディも、言葉をなくしては瞬いている。
光の粉を散らしたような、美しいブロンド。
朝露を吸ったすみれのような、潤しいまでの紫煌めく瞳。
「ダリル・ヤン。7さい」
忘れるはずがない。
あの日焼き付けた、あの頃からさらに幼くなった顔が、こちらをじっと見つめて、笑った。
「ね、言ったでしょ。こんどは笑わせてやるからって」
fin.
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bkm