「………嘘だ」
身体を引き摺って帰宅後、泥のように眠りについた。
目が覚めたのは翌日の午後。事情を知っている兄は、私が返り討ちに遭って大怪我をしたものと思ったらしいけど、私自身の傷と言えば、首筋に開いた小さな牙の痕だろうか。
血塗れだった服は暖炉の火で焼却したそうだ。ベッドで目覚めた私に兄が告げた、衝撃の事実。それは、昨晩の出来事を無に返すような、それでいて鮮明に克明に、私に刻み込もうとするようなものだった。
「サーシェ、君、失敗したのかい?」
「え…?」
「新聞に何も書かれてなかったから、」
そんなはずはない。昨日だって、確実に殺ったはずだ。死体もそのままにして、後処理も何もしないまま帰ってきてしまった。
それなのに、事件が発覚すらしていないなんて。どうして、
そこでふと気が付いた私は、まだくらくらする頭痛を堪えながら身支度を済ませ、家を飛び出した。
やって来たのは、昨夜、あの男と出会ったあの場所。
私が、とある男爵を亡き者にした場所。
「なんで…、」
小道を曲がって、裏通りを暫く進んだところにある、薄汚れた裏路地。行き止まりのそこに男爵を追い詰めて、叫び声を上げる暇も与えないままに息の根を止めた。
切り裂く皮膚から溢れ出す血が止まらない様子は、何度もこの瞳に焼き付けた。命が乾いていく様を、私は幾度となくこの手で生み出してきた。
それなのに、何故。
バラバラになった肉片も、壁面を真っ赤に染めた血も、何もなかった。そこには、不自然なほどに昨日までそこにあった裏路地のままだった。
「こんなこと…」
「有り得ない、って感じ?」
「!」
まだ耳に新しいその声には確かな聞き覚えがあって、振り向けばやはり、真昼間だというのに漆黒のマントを身に纏ったあの男がそこに立っていた。
仮り名は、確かダヤン子爵。美しいブロンドは、月明かりの下だと妖しい光を放っていたものを、薄暗いこの裏通りだとまるで光の粉をまぶしたように眩しく輝いた。
「ハロー、よく眠れたかい?」
「………」
「その顔だと、気絶するくらい一瞬で眠れたみたいだね」
月明かりの仄かな光では分からなかった瞳の色が、くるりと煌めく。綺麗な、アメジストカラー。
宝石のような美しさと、人間のものではない異色さを兼ね備えた瞳がすぅと私を射抜く。
「言ったろ?汚れ役、多少は片棒かついでやるって」
「どうやって…」
「簡単だよ、子飼いの悪魔を2〜3匹喚んで死体を喰わせただけ」
「血は…?」
「1滴残らず悪魔が喰べたよ。意地汚い奴らだからね、血が乾く前に全部だ」
僕は食通だからそんなことしないけど、と呆れたように呟く男。
それにしたって、血が滴った跡すら残らないなんて。己のみにあらず、人外の存在を使役することも出来るなんて。益々、勝ち目のない相手だと思い知らされる。
「昨日は通報しない代わりに食事させてもらったから、この貸しはまた別ってことで」
「……また、私の血を吸うの?」
「当たり前じゃん。そういう契約だったと思うんだけど」
「……あと2〜3日は待って」
「えぇ〜……まぁいいけど。精々上級家系の旨味が効いた美味い血を蓄えておいてよね」
いま吸われようものなら、今度こそ失血で死んでしまう。
生かされたからには、やるべきことをこなさなければならない。私には、それをこなす義務と権利があるのだから。
「じゃあまぁ、また気が向いたときに来るから。
折角イイトコの生まれなんだから、その身体大事にしなよ」
「………ねぇ、」
「んー?」
「あなた、名前は?」
「言ったじゃん」
「仮り名じゃなくて、本当の名前」
「………おーしえない」
吸血鬼とは、こうも気紛れな生き物なのだろうか。
にやりと微笑う唇から、あの牙がきらりと覗く。
男は、翻したマント諸とも姿を消してしまった。
ふと、こうもあっさりと伝説の化け物の存在を認めてしまっている自分に驚いた。そりゃあああも簡単に圧倒的生物差を見せ付けられたら納得せざるを得ないとも感じるが、それとはまた違う…何処か懐かしいような何かを、私は彼に感じていた。
何処かで、会ったことがあるのだろうか。夜会以外で。親しく過ごしたことが、あったのだろうか。
首を傾げながら、私は裏路地をそっと後にした。
***
「サーシェ、夕食だよ」
「うん、わかった」
部屋で広げていた書物を閉じて、扉を振り返る。兄が私を呼びにそこに立っていた。
漆黒のドレスの裾を持ち上げながら立ち上がり、ブーツの音が響かないように静かに歩く。
「今日はビーフの赤ワイン煮込みだそうだ。前菜はポテトスムージー、デザートに君の好きなフルーツタルトもあるってさ」
「美味しそう」
「今日は仕事もないんだろ?お腹一杯食べてゆっくり休むといい」
「うん、ありがとうアリィ」
兄は私より10歳年上だ。そのせいか、よく私を気にかけてくれる。面倒見もいい自慢の兄だ。
屋敷にいま住んでいるのは、私と兄と父だけ。それと、使用人くらい。母は私が産まれてすぐに亡くなってしまった。
父は再婚を勧めても首を縦に振りはしなかった。母を心底愛してくれていたから。他の女なんて視界に入らないくらい、母に首ったけなのだ。
だから父は、私をひどく可愛がってくれた。時折兄に甘やかしすぎだと叱られながらも、今日まで家族3人仲良くやってきた。
一人娘が、たった一人の妹が、吸血鬼にその身を囚われていると知ったら、彼らはどうするのだろうか。
廊下の明かりは壁に設置された蝋燭の仄かな光だけ。
シックなワインカラーの絨毯が、足音を消していく。
厳かで歴史ある屋敷も、いまはただ住む人少なになった寂しい豪邸だ。
「父上、サーシェを呼んで参りました」
「そうですか。さぁさ、美味しい食事が冷めてしまう前に食べてしまいましょう」
既に席についていた父が、手のひらで席を示し私たちに座るよう促した。横についていたバトラーに食事を運ぶよう目配せをすると、バトラーは畏まって礼をして、足音立てずに厨房の方へと歩いていった。
「サーシェはまた読書ですか?」
「はい。ドイツ文学を」
「良いですねぇ、ドイツ。彼処の癖のある文章もなかなかに面白い」
「はい」
「物語の題材は?」
「吸血鬼です」
「ほぅ、」
父は途端に神妙な面持ちになり、顎に手をあて持っていたスプーンをことりと机上に置いた。
兄はやや首を傾げながら、私と父を見比べている。
「アンドレイ君、君は確かドイツの血も混ざっていましたよね?」
「え?あ、えぇ、はい」
「伝承については?」
「かじる程度ですが…」
兄はそのまま簡潔に、けれど詳しく吸血鬼伝説について語り始めた。私が読んだ本の吸血鬼とは多少異なっていたけれど、吸血鬼は伝わる地域によってその特性も様々だと聞いたことがあった。
「棺桶で眠り、深夜になると這い出してきて夜道を歩く女性を襲い生き血を啜る。血を吸われた者は同じ吸血鬼になるとか、吸血鬼自体は香草や銀、十字架を嫌い、心臓に杭を打つことで絶命出来るなどが主に伝えられています」
「よろしい。ま、有名な話ではありますよね」
上質な葡萄酒を一口たしなんでから、父はまた愉しそうに目をすがめて唇を開いた。
嗚呼、今夜もまた始まった。
「吸血鬼の生まれはご存知ですか?」
「いいえ、」
「では教えて差し上げましょう。
吸血鬼とは、生前悔いあるままに息絶えた者がなる、と伝えられています」
「悔い…」
「はい。例えば、死因が何者かによる惨殺、不幸な事故死、病死、もしくは無念からの自殺…などですかね。あとは、生前大罪を犯した者や、神や信仰に反する行いをした者などが死後に蘇生することで吸血鬼化する、なんて言いますね。
まぁ所詮言い伝えですし、関連する書物ばかり多くて実在するか明瞭になっていませんから、確かな情報とは言えませんけど」
「はぁ……よくご存じで、」
父はよく、こうして豆知識(兄は陰で無駄知識と呼んでいる)を披露してくれる。兄はオカルトや科学的実証の出来ない類いの話は苦手とし、あまり触れないようにしているのとは裏腹に、父はあらゆる伝から満遍なく得た情報を把握しているから、誰よりも博識だ。
嘗て父はこの世界で知らないことはないとさえ断言してみせた。その父が、難しい顔をしながらも興味深そうに前傾姿勢で話を広げていく。
「それでサーシェ、貴女がどうしてそのような幻想的かつ非現実的な書物にふれようとしたのかを、この父に教えてはくれませんか?」
父が、にやりと唇を三日月に歪めた。上機嫌な証拠だ。
ふと、その猟奇的にも取れる妖しい視線が、私の首筋に注がれていることに気が付いた。兄も、始めは不思議そうな表情でいたけれど、首筋のそれに気が付くなり表情を一変させて固唾を飲んだ。
「出来ることならば、詳細まで事細かに教えて頂きたいんですけどねぇ」
嗚呼、怒っている。
こんなに笑顔で怒る父なんて、久方ぶりだ。
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bkm