「ごめんね」
返事は、決まっていた。
「……うん、そんな気はしてた」
残念そうに眉尻を下げて苦笑する彼に、今更後悔。
でも、だからってその気持ちに応えるなんて出来なかった。
「私ね、好きな人がいるの」
「……うん」
「その人にも好きな人がいて、私じゃ絶対叶わないって分かってるの」
「…………」
「それでもね、その人と過ごす時間を今は、大事にしていたい」
帰ってきてくれれば、の話だけど。
ローワンは、なんだか苦しそうに、それでも笑顔を作ろうとしてくれる。見ていられなくて、俯いた。
「わかった。……俺はさ、まだもう少し、君のこと好きだと思うから。……だから、何かあったら頼ってほしい。もしつらくなったら、俺がその人の代わりになるよ」
「無理だよ」
「そんなふうに言わないでくれよ」
「だって、違う。ローワンは、彼が持ってないもの、たくさん持ってるから。代わりになんて、絶対出来ないよ」
触れたら、あたたかい手のひらも。
真っ直ぐな優しさも、私だけを見ようとしてくれる眼差しも。
全部違うから。触れてしまったら、その視線に、ぬくもりに慣れてしまったら。
彼と過ごした何もかもが、なかったことになってしまうような気がしたんだ。
「私ね、ローワンはローワンとして、とても好きだから。代わりに出来ないし、したくないよ」
「……うん」
「これ、借りてたハンカチ。ありがとう」
小さな紙袋に、洗濯してアイロンもかけたハンカチと、私の大好きなメーカーのキャンディーを一袋。
差し出して、少し迷った指先が、しかしきちんと取っ手を掴んでくれたのを見て、私は手を離した。
「時間、かかっちゃって、ごめんね」
「いや、気にしないでくれ」
「明日も、シフト一緒だよね」
「あぁ」
「仕事、頑張ろうね」
「……あぁ」
「また明日」
「また、明日」
手を振って、お別れをする。
暫く歩いて、そっと振り向いてみれば、彼はじっとこちらを見て、微笑んでくれていた。
もう一度手を振った。ありがとう。ローワン、本当にありがとう。
「ただいまー」
返事は、ない。
もう一週間も経つと、この静寂にも慣れてしまった。
脱いだブーツが玄関に散らかる。踵を揃えろと呆れる声はない。
今日は一日休みだから、久しぶりにじっくり料理でもしようかな。
「あー……なんもないや」
冷蔵庫を開けてみた。この間、消費期限の切れた生鮮食品を纏めて燃えるゴミに出したばかりで、中が空っぽなのを忘れていた。
机の上のレンタルディスクも、延滞金がかかる前に返さなくてはならない。
「……しょーがない、駅まで行こ」
ショルダーバッグに映画のディスクを入れてしまうと、鍵と携帯、財布も忘れず用意してから再び家を出た。
これで、帰ったら何も痕跡のない部屋に元通りだ。彼がいた、彼と暮らした日々は、まるでなかったみたいに、また日常が巡り出す。
涙はもう出なかった。心の何処かは、すでに諦めているようだった。
ローワンにあんなこと言ったくせに、ね。
「おや、奇遇ですねぇ」
レンタルショップに映画を返却してから、気分転換に新譜のCDでも借りようかと店内を彷徨いていた時だった。
「あれ、嘘界さん」
「こんにちは。店の外で会うのは珍しいですねぇ」
「嘘界さんこそ、CDは新品派って言ってたじゃないですか」
「旧譜の品揃えはこういうところの方が豊富なんですよ」
「ふぅん」
寒い季節でもないのに、きっちりと皮手袋をはめた細長い指先が、棚のディスクのタイトルを順になぞっていく。
特にめぼしいものもなかった私は、彼の後をついて歩いた。
「なんだか浮かない面持ちですねぇ」
「え、そうですか」
しゃがみこんで、2030年代のタイトルを眺めていた私を見下ろす嘘界さん。ふむ、と息をつくと、目当てのディスクを見付けたのか、数枚引き抜いて片手に収めてから、言い放つ。
「いつもの金髪の彼は、どうしたんです」
カシャーン。見るからに動揺して、ディスクを取り落とした私を、面白いものを見る目で眺めやる嘘界さん。私はそんな彼の顔を見れないまま、慌てて落としたディスクを拾い上げ、ケースにヒビなんかが入っていないか確認してから棚に戻した。
「い、今なんて」
「ですから。いつも一緒にいたゴーストですよ、まさか気付いていないわけでもないでしょう?」
「…………、」
「喧嘩ですか?」
寧ろ、何故あなたが気付いていたのか。
驚きすぎて声も出ない私に薄く微笑んで、「このあとお茶でもいかがですか」と言うなり、彼はレジへ向かった。
***
「僕も見える体質なんですよ。あなたほどハッキリクッキリとはいきませんが」
「先に言ってくださいよ!」
「フフ、言ったところでどうもなりはしないでしょう」
レンタルショップを出て、駅に程近い喫茶店に入ると、私達は各々珈琲と紅茶を注文した。甘党の彼は、同じく甘党の私でもびっくりするほどミルクとシュガーを入れ混ぜる。
「私だけかと、思ってました」
「本当に鈍感なんですねぇ。彼、僕を警戒するでしょう」
「………えぇと、まぁ」
「会う度威嚇されますからね」
「全然気付かなかった……」
熱々の紅茶に舌を見せていると、彼はふと真顔に戻って私を見た。
「サーシェさんは、前世を信じますか」
「!」
「……その表情を見たところ、信じているようですね」
「何か、知ってるんですか!」
カップを置いて、前のめりになりながら問い質そうとする私に、彼はくっと口角を上げると、自分の額を指差した。
「覚えているんです」
「……前世の、記憶……ですか」
「えぇ。こちらは、あなたよりもハッキリクッキリ、鮮明に」
なんだか度肝を抜かれてしまって、呆気にとられた私は、どかっと落っこちるように椅子に腰を落ち着けた。
「サーシェさんは、どうして僕があなたを気にかけるか分かりますか?」
「…………仲良し?だから?」
「まぁ、それもそうですが。惜しいですねぇ。懐かしい心地になったことは?」
「……あ、それなら、今とか。結構、」
「それは、僕らが前世で家族だったからです」
ぱちくり。瞬いて、理解できない私のためにと、彼は今一度噛み砕いてものを説明してくれた。
「血は繋がってませんでしたけど。捨て子のあなたを拾って、部下として、我が子として育てたのが僕だったんです。僕らは、かのロストクリスマスで此処日本を占拠した、GHQ組織アンチボディズに所属する軍人だった」
「ちょ、ちょっと待ってください。私、頭が悪くて」
「そういうところは変わってませんね」
「拾った?私が、嘘界さんの娘?」
「といっても、年の差は一回りくらいしかありませんでした」
今の私にとって、彼はこれっぽっちもお父さんなんて気はしなくて。
年の差も5つとない。先輩やお兄さんと言った方が、まだしっくりくる。
けれども、そうだったんだ。嘘界さんが年齢以上に大人びて見えたのは、きっと人一倍の人生経験を記憶していたから。
「あのローワン君も、同じ職場でしたよ」
「ローワンも?」
「僕の部下で、あなたの上司でした」
「嘘界さんどんだけエリートだったんですか」
クスクスと笑って、ミルクティーと大差ない色になった珈琲を一口飲み込む嘘界さん。
「そして、あの少年も」
「!……ダリルくんも、ですか」
「ダリルというんですね」
「知らなかったんですか」
「前世の記憶といっても、映像として脳裏に焼き付いているだけですよ。顔は知っていても名は分からない人も、大勢います」
「そうなんだ……」
紅茶を一口。程好く冷めたそれに視線を落とした。特に取り乱した様子もない、落ち着いた自分の顔が写りこむ。
「彼は、まだ霊体のままなんですね」
「……はは、案外もう成仏しちゃってるかもしんないです」
「というと?」
「生前の恋人のことが、彼は心残りだったんです。全部思い出したってことは、もう……」
「成仏していてほしいんですか?」
「っそんな、」
勢いよく面を上げる。何かを企むような顔をした彼は、頬杖をつきながら私の向こう側を見透かして、ククッと喉を鳴らした。
「だそうですよ」
「っ!」
慌てて振り向いた。
左、右、左、正面、入り口。辺りを見回しても、彼の姿は見当たらない。
「………冗談ですか」
「だったら面白いんですけどねぇ」
その言葉を聞いて、私はすこしの間理解が追い付かなかった。
あまりに血相を変えて周囲を見回す私に、隣席の客や店員は訝しげな様子だ。
「………いるん、ですか」
一瞬にして、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「ずうっと、レンタルショップにいたときから」
手袋を外した彼の人差し指は、私の真後ろを指していた。
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bkm