見られては、いけなかった。
「へぇー、現行犯ってヤツ?」
静かすぎる路地裏に響いた、若い男の何処か楽しそうな声。
肩がほんの少し跳ねたけど、気にすることなんてなかった。背後に感じる気配の正体も、目前のモノと同じようにしてしまえばいいだけの話。
音を立てずに振り向けば、やけに派手なブロンドが月明かりに反射して眩しく輝いた。
「どうりでいい匂いがすると思ったよ、だってぶちまけてるんだもん」
「……………」
「ねぇ、これあんたがやったの?」
漆黒のマントに身を包んだ、少年とも青年ともつかない半端な容貌をした男が、そこに立っていた。
腕を広げて楽しそうにその光景に目を細める男は、にやりと唇を歪めた。きらりと糸切り歯が覗く。
「………答えるつもりはない」
「ふぅん?秘密主義?
…嗚呼、そっか。僕のことも殺しちゃおうってわけ」
私の手元の煌めく凶器に気付いて、また表情を綻ばせる男。
さっきから変なひとだ。こんな凄惨な現場を笑顔で眺めて、ぺらぺらとよく口が回るものだ、目の前に犯人がいるというのに。
「僕、あんたのこと知ってるよ?」
「!」
「一回夜会で顔会わせたことあるだろ?
没落貴族になったって漂う気品は相変わらずだよね、流石は旧家のメノーム家の出だ」
夜会で───。どの、夜会だっただろうか。
このひとのような派手な見目の人間は見慣れてしまっているせいか、逆に印象に残っていない。
こんな綺麗な金髪、一度見たら忘れなさそうなものを。
「分からないの?…あ、そっか、別に喋ってないしね」
「………あなた、名前は」
「ダヤン子爵、って名乗ってたっけなぁそのときは」
ダヤン子爵…?あまり聞かない名だ。
その口振りから、どうやらいくつか名があるようだから、もしかしたら知っているかもしれないし知らないかもしれない。
「夜会でも愛想悪かったよね、あんた。
クールビューティーってヤツなわけ?全然笑いもしなければ必要最低限の挨拶ばっかりだし。有名な旧家のオジョウサマだって言うから見てみたらつまんなくてがっかりだよ」
「……そう」
にしても、随分お喋りな男だ。例に漏れず殺してしまおう。
血で滑るナイフを握り直して、殺気を押し殺し駆け出した。
未だに言葉を吐き続ける唇の下の顎の少し下、喉笛を掻き切ってやろうと、ナイフを振るった。
刹那、
「殺せるわけないから喋ってるんじゃん、ばーか」
耳元で声がして、ぞわりと背筋が粟立った。
「な、」
「びっくりした?びっくりしたよね?
おっかしいなぁ、その顔」
「どうやって、」
ぬるりと、首筋を何か生温かいものが撫でていく。
得体の知れない感覚にびくりと肩を震わせると、また耳元を擽るような距離で囁かれる。
「うぇ、やっぱり野郎の血は不味いな」
「……っ、何を、」
「何って…味見だよ、味見」
「味…?」
「ヴァンパイア、って聞いたことない?」
視線は寄越さず、背後を取られたままの格好で、気配に注意しながらまた楽しそうに話す声に耳を傾ける。
駄目だ。この男は、殺せない。背後どころか、ナイフ以上に恐ろしい狂気を向けられている今、私に抵抗する術はなかった。
「夜な夜な女を誘惑して、相手が気を許したそこを透かさず…かぶりつくんだ。
血液を貪り吸い付くして、からからになった喉を潤して、胃袋を鮮血で満たして…空っぽになった女はポイ捨て。魅惑と恐怖が融合したような、伝説のイキモノ」
「……それが、何…」
「僕、それなんだよね」
「…………は、」
「さっきからいい匂いしててさ、我慢出来そうにないんだ…
あんた、食べてもいい?」
瞬間、目に見えない何かに身体の自由を絡め取られたような感覚に陥った。
勝ち目のない相手。そう瞬時に悟った。
「こんな汚い返り血じゃなくてさぁ、採れ立ての新鮮なやつ…頂戴よ」
吐息が耳の裏にふわりとかかって、聴覚から全身の支配権を奪われていく。
この男が吸血鬼だというのが本当なら、私はここで喰らわれて終いなのだろうか。
男の手が、腹の前にと回り、身動き取れぬよう固定される。
もう片方の手でナイフを持った手をひどく握られた。その握力による骨の軋みがやけに痛く感じて、思わずナイフを取り落としてしまった。
「……、やるなんて、言ってない」
「言ってなくとも奪うのが筋ってもんでしょ。
あー、お腹ぺこぺこだったんだよねぇ、良かった」
またぬるりとした何かが首筋を撫でていく。ずるずるとそこを彷徨って暫くすると、適所を把握したのか舌を仕舞って唇を押し当てた。
「じゃあ、短い一生の終わりに乾杯。
いっただっきまーす…」
ぐ、と引き寄せられた身体。背に当たる男の肉体。途端、鋭い牙の先が皮肉に突き立てられる。
その痛みに声を漏らせば、また楽しそうに背後でくつくつと喉を震わせる。
拡がるあたたかい温度に目を瞑れば、吸い付く唇がそれを啜り拭っていく。
全身から体温が抜け落ちていく感覚に、もう終わりか、と意識すら遠退き始めた。
大好きな兄、尊敬している父。地に落ちた名誉を取り返すため、この身が汚れるだけで済むならと何でもこなしてきた。
それも、もう終わり。そう思うと、少し悔しく、そして解放感に戸惑う。
ぞくぞく、震えるような冷たい感覚が全身を包み込んでいく。
血を抜くならばいっそ、骨身も残らぬよう喰らい尽くしてくれたなら良かったのに。
そのときだった。
「……やーめた」
首筋を這い回る唇が離されたと思いきや、そんな軽い声が飛び込んできた。
貧血で力の入らない足腰では支え無しにうまく立てず、男の腕が離れた途端どしゃりと崩れ落ちてしまった。
「あんたを此処で殺すのは勿体ないかな。折角だから、少し我慢して継続的に喰えるようにとっとこう」
「………なん、で…」
「だってそうだろ?美味い飯をたらふく堪能したあと、また浅ましく食探しするくらいならさ」
舌舐めずりをするように口元についた血液を味わう、目の前の吸血鬼。
満足げに笑むその姿。月明かりに照らし出された微笑は、どの夜会で出会ったどんな美形とも似つかぬ美貌を誇っているようでもあった。
「契約しようよ、メノーム家のオジョウサマ。
あんたは僕に定期的に食事を提供してくれればいい。そうだな…ま、これも気紛れの一環ってことで…あんたの汚れ役、多少は片棒かついであげてもいいけど?」
「……そんな、」
「あんたに拒否権はないよ。だって、あんたは僕が生かしてあげてるんだから」
そんなに望んでも、殺してなんかあげないからね。にやりと唇を三日月に歪めて微笑う男。
「じゃーまたね」
マントを翻して踵を返した男。
瞬きをすると、そこにはもう誰も居なかった。