分かったつもりになって、まだまだ分かっていないことなんてたくさんあった。

これから知っていかなきゃいけないことは、山程あるというのに。
全部を理解したそのとき、あたしはまた笑顔でいられるだろうか。



17:いてきぼりの気持ち





「恭弥ー」


あれから、1ヶ月と少し。
あたしは、未来の10年後からその先を犠牲に、手術を受けて話せるようになった。
最初は声がかすれたり、息が持たなかったりして、長くお喋りすることが難しかったけれど、少しずつ練習をして、今は大分慣れてきたところだ。
昨日からは口ずさむ程度に歌の練習も始めた。これからもっともっとうまくなって、いろんな人に聞いてもらいたいと思うんだ。


あたしが書類片手に革張りのソファーから立ち上がると、彼はふと手元の資料から目を離してこちらを見やった。


「ここの支出って、領収書見当たらないんだけどこないだので合ってる?」

「うん」

「分かった。……はい、出来たよ」

「ん」


その場で記憶に残る金額と個数を記入し、合計支出も書き込むと認め印を押してもらうために完成したその書類を手渡した。
流すように文字を追っていく黒曜石の瞳を見ていたら、不意に上げられた視線とばちりと絡んで、なんだか目をそらせなくなってしまった。


「なに?」

「え、」

「言いたいことあったんじゃないの、そんなに見て。僕の顔に何かついてる?」

「え、あ、いやっそういうわけじゃない!違う違う!」

「ふぅん?」

「………睫毛長いなーって…」

「君のが長いでしょ」


そうじゃないってば。
綺麗な顔につい見とれちゃってただけなんだけどなぁ。なんか、何処と無く鈍いというか、ちょっとずれてる気がしないでもない。
しかし、ナチュラルに見とれるなんてあたしも随分と乙女になったもんだ。

一応言うと、あたしと恭弥は両思いみたいです。一応。
だけど、お付き合いらしいことはまだなーんにもしてなくて、デートも行ってなければ手も繋がないし、それ以上だって勿論何もないわけで。
二人で応接室で書類雑務することはあっても、仕事で手一杯で、以前と特に何か変わったわけでもなく、ただただお仕事をこなすだけ。

あたしはこの時間が前から好きだったから、それとなく嬉しいなぁとは思うのだけど、恭弥は違うのかなぁ。


「ねぇ」

「うぉっ!?」

「何その声」

「や、なんでもない…ちょっとボーッとしてた。なに?」

「君さ、慣れるの早いよね」

「ん?」

「いきなり、呼び捨てで敬語抜きで話せって言われたら、大抵の奴は慣れなくてどもったり間違えたりするでしょ」

「……そう?
あたし、イタリアでは年上年下関係なくこんな感じで喋ってたから、まだその感覚が抜けきらないのかも…子供だったからってのもあるけど…」

「……ふぅん」


面白くなさそうにまた書類を見て、認め印をぽんと押すと、無言であたしにそれを渡す。


「つまんないの。それで暫くからかえると思ったのに」

「えぇ?」

「これ、職員室に提出してきて」

「はーい…」


ね、変わらない。
やっぱり、あたしと彼の距離ってこんなものなのかも。
彼にとってあたしは、よく働く、からかい概のある部下でしかないのかな。

書類を受け取って、応接室を出た。廊下を歩きながら、悶々と書類の文字に視線を落とす。

でも、よくよく考えてみたら、あたしの中での彼の立ち位置だって、そう大きく変化した訳じゃない。
相変わらず意地悪委員長様のままだし、時々淹れてくれるココアは美味しいけど、他のお茶汲みや茶菓子の用意はあたしに任せっきりだし。
書類だってそうだ。あたしの方が終わるのが早いから、って今じゃ半分以上任せっきりにして、自分は判子ついてサインするだけ。気が向けば校舎見回りに出掛けて、授業をフケてる生徒を咬み殺す。
両思いになったからって、何かが突然変わるわけじゃないんだな。寧ろ両思いなのかどうかも疑わしい。ちゃんと気持ちが通じてるって証拠は、お互いの呼び名の変化くらいしかない。

俗に言うカレシカノジョ〜みたいな甘い関係とは程遠い。まぁ、自分そういうの向いてないだろうし、今のままでも十分楽しいから、いいけど。



「失礼しましたー」


職員室に書類を提出すると、真っ直ぐ応接室に向かって歩き出す。
まったく、世の中日曜日だというのに。制服を着ない日なんてほぼ無いに等しい毎日だ。自分で望んだんだけど、ね。


「ん?」


制服のポケットに入った桜色の携帯が震えている。このバイブレーションは着信時のものだ。珍しいな、誰からだろう?


「っえ!?」


携帯を取り出して、画面を覗き込むと、長いこと見ていなかった人の名前。
慌てて携帯を開こうとして、ここは校舎内だと気付く。辺りを見回して、誰もいないことを確認すると、念のため近くの空き教室に入ってから通話ボタンを押した。


「おっ、お母さん?」

『あっ、出た出た〜!久しぶりね、羽無!』

「どうしたの、急に。お仕事は?大丈夫なの?」

『んー、まぁ色々あってねー。またあとで話すわ』

「あとで?」

『それよりもっ!

ちゃんと、喋れるようになったのね』


あったかいお母さんの声に、不意に鼻がつんとして、胸の奥がつきりと痛んだ。
ごめんねお母さん、勝手に手術受けちゃって。でもね、どうしても、やりたいことが…伝えたい気持ちが、あったんだよ。

伝えたから何、って話だけど。

特に何かが変わったわけでもない、曖昧な距離感に、急に不安を覚えた。ひとつ深呼吸をしてから、電話口に囁く。


「ごめんね、」

『なーに謝ってんのよ。良かったじゃない、話せるようになって』

「でも、あたし…」

『これからのことはまた考えればいい。ね?せっかく喋れるようになったんだから、今を楽しみなさいな』

「………ありがとう、」

『じゃ、またあとでね〜!』

「えっ、また電話出来るの?仕事は大丈夫?」


明るい声に続くように言う。受話口の向こうからはがやがやと忙しない人の声がする。
いつもは3分も出来たらいい方で、あたしが話せないのもあったから極力連絡なんてしていなかった。


『あー、お母さん帰るから!』

「へ?家に?今日早いんだね、じゃあゆっくり休んだ方が…」

『ちょっと羽無迎えに来て頂戴よ、並盛から急行バスで一本のとこの空港だから』

「え?空港?いいけど…


空港ぅおおおっ!?


大きな声を出してから学校内だったと気付いてはっと息を潜める。

いやしかし。ちょっと待て。


『あら、もうそんな大きな声出せるの?早く生で聞きたいわ〜』

「いやいやいや!!え!?何帰国なの!?家ってうちに帰ってくるの!?」

『直に喋るとツッコミがスピーディーねぇ』

「そういう問題でなく!」

『お母さん仕事やめたのよ〜』

「はーあっ!?」


息を休める間もないとはこういう状況のことを言うのだろうか。


『詳しくは帰ってからね〜。じゃ、お迎えヨロシク☆』

「へ、え、ちょ…切れた…」


ブツンと通信が絶たれた携帯を耳から離し、画面をぼんやりと見つめ返す。
がやがやうるさかったのは空港だからか…いやいやいや。


「相変わらず…落ち着きないひとだなぁ」


ふぅと肩の力を抜いて息を漏らした。
でも、久しぶりに会えるのは嬉しいな。
ふと、緩やかに口角を上げて笑った。

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