羽無が出ていった扉を呆けるように見つめながら、僕はそっと息をついた。

なんだ、余裕がないのは僕だけか。


僕の病室で、想いを伝えあったきり、特に進展と呼べるものは何もない。
お互いの関係に変化があったことを示すのは、呼び名と、彼女のタメ口だけで。


「(僕なんて、)」


まだ、名前を呼ぶのも呼ばれるのも慣れていないのに。

彼女の、鈴の音のような柔らかい声が、僕の鼓膜を揺らしてく。僕の好きな声で。
話せなかった頃も、表情の変化は激しいし行動的だし、活発な子ではあったけど…話せるようになったら余計アクティブになった。
まだ癖で、反射的に声を上げるようなシーンでは、息を飲み込むように止めてしまったり、笑うときもくすくすと喉の奥で笑ったりするけれど。前よりずっと、元気で明るくなった、と思う。

僕は、そんな彼女の変化に…まだ慣れずにいる。


からかうだけだった、いつもと変わらないただの一生徒が、今じゃあんなに取り乱すほど僕の核を作ってる。馬鹿みたいな話だ。
からかうはずだったのに…僕がからかわれてる気分だ。翻弄されてる。分かるからこそ、面白くない。

彼女を前にすると、自分が思った以上に奥手で格好悪い男なんだと思い知らされるようで…


「…………はぁ、」


なんて女々しいんだ。好きな人のことを思ってため息をつく僕。未だ嘗て僕がそんなになよなよしい男だと思った人間が居ただろうか。いやいないだろう、だって僕は、巷じゃ噂の町をも仕切る鬼風紀委員長なんだから。

日曜日の学校でため息なんて。それこそ幸せが逃げていきそうだ。せっかく、愛すべき学校に愛すべき人と一緒で過ごしてるのに。

………言ってて恥ずかしくなってきた。



「ヒバリ、ヒバリ」

「ん…なに、うるさいよ。まだ仕事中なんだ、静かにしてて」

「ヒバリ」

「餌ならさっきやったでしょ」



羽無が。

あの廃屋から帰ってきて以来、手段として使っただけのはずの黄色い小鳥が、今じゃすっかりなついてしまって僕のそばを離れない。
教えた校歌もやっぱり音を外して覚えている、インコモドキ。物覚えはいいくせに、歌はへたくそ。

羽無はそんな小鳥に嫉妬するでもなく、可愛い可愛いと愛でては仕事の合間に構って遊んでいるので、世話を全部押し付けてやった。
(って言っても、飼ってるわけじゃないし勝手についてくるだけだから、気紛れに餌やりをやらせてるだけだけどね)

羽無は時々小鳥と一緒に歌の練習をする。決まって校歌だ。
羽無の優しい音色に水を射すように、小鳥の尖った間抜けな歌声とも取れない鳴き声が混ざる。
ところが羽無は、それに馴染むように音調や声色を変えて歌うものだから、不思議と耳障りに感じない。引き立てているようにさえ聞こえる。最近練習を始めたばかりなのに、センスは一流だ。


「ハナ、デンワ。ハナ、デンワ」

「電話?羽無から電話なんて、」


「っ恭弥ー!」


掛かってきてないよ、と言おうとしたその瞬間。
バタバタと廊下を走る音がして、慌ただしく開け放たれた応接室の扉。何事かとそちらに目をやれば、片手に携帯電話を握りしめた羽無が落ち着きなくぱたぱたと入ってきて、ソファーの定位置にある自分の荷物を漁り始めた。


「廊下は走らない、校内は携帯電話の使用禁止、部屋に入るときはノックが常識。君風紀委員の自覚ある?」

「ごめん!ちょっと緊急の用事出来ちゃって!」

「…ちょっと、財布握り締めて何処行く気。仕事は」

「もう8割片付けたでしょ!あと判子つくくらい恭弥自分でやっといてっ」


まぁ、タメ口で話せるようになった分少し小生意気にもなったけど。一人胸中でうんうんと納得し、そして納得出来ない彼女の突然の行動の理由を解明しようと観察する。
ていうか、小鳥、君羽無が携帯使ってるところ見てたの?止めろよ(無理な話だとは分かっている)。


「空港行くの!」

「……空港?」

「なにその怪訝そうな顔。サボりじゃなくて用事で行くの!」

「何しに」

「お母さんのお迎え!今帰国して空港にいるんだって言うから…」

「母親?君の?」

「そ!とにかく、待たせちゃうから行ってくるね!」

「荷物、」

「また戻ってくる!」


あぁ、そう。

再び慌ただしく閉められた扉を見つめて、再び僕はため息をついた。
君が居ないんじゃ、物足りないじゃないか。からかう相手もいない。

頬杖をついて、ひとつため息。幸せじゃなくて、羽無が逃げていくようだ。

残りの書類整理をする気力も失い、手元の鉛筆を指先に滑らせるようにして回して遊ぶ。


「………………」

「ヒバリ、ツマンナイ!ツマンナイ!」

「うるさいよ、」


小鳥を指先で小突いて、またひとつため息をつくと、徐に立ち上がる。
書類は帰ってきた羽無に全部押し付けよう。この日曜ののどかな昼間に馬鹿みたいに群れてる奴らは後で狩りに行くとして…


あの子が帰ってくるまでの間のスケジュールを決めた僕は、颯爽と応接室を出ると廊下の角を曲がり、屋上へと続く階段を踏みしめるようにして上った。



***



「(もう、何にしたってノリが軽いんだから)」


久々の帰国くらい事前に知らせてほしいものだ。忙しい職業なのだろうことはなんとなく把握してはいるものの…買い置きの食材だって独り暮らし程度と考えたら全然足りない。
帰り道に買い出しも済ませなきゃ、お金足りるかな、そんなことをぐるぐる考えながら空港へと向かう直通バスの中、うつらうつらと船を漕ぐ。

前はそうでもなかったのに、最近は恭弥といると変に気を遣ってしまって、こうやってふと力を抜くととても気疲れしていることが多い。
想いが通じたからこそ、前まで気を配らないでいたところにまで気が回って苦労してしまう。
一挙手一投足、彼に幻滅されることのないように。今更だけど、「こんなやつだったのか」ってがっかりされないように。

こんなだって知ったら、逆にまたからかわれそうだけど…


うとうとしている間に、空港のターミナル前にバスが到着した。バスを降りて、そういえばお母さんは何処だろうかと改めて周囲を見回し探す。
迎えに来て、とは言われたものの、何処にいるのかまでは聞いていない。適当な人である。

いまどこ?とメールを打とうかと携帯をポケットから取りだし、かぱりと開いた其処で、真横から衝撃。ぶつかったとかいう勢いじゃないだけに、それが誰なのかすぐわかった。


「うぐっ」

「羽無ーっ!久しぶりねぇ!大きくなったねー」

「帰ってきて顔合わせるたびにタックルして同じこと言わないの。
おかえり、お母さん」

「ただいまーっ」


身体を離してもう一度見たお母さんの顔は、最後に見送った日からちっとも変わっていなくて。
相変わらず元気そうだ。タックルするスタミナがまだ残ってるくらいだし。


「って何その荷物」

「んー?世界各国のお土産〜!羽無が喜ぶかなーと思って甘いものたーくさん買ったのよ!」

「こんなに…?」

「ふふ、焼き菓子生菓子ドライフルーツ、なんでもあるわよ〜」

「よく飛行機に乗ったねこれ」

「さ!帰ってお腹いっぱい食べましょ!」

「夕飯はお菓子じゃないからね!ていうかあたし一回学校戻らないとだし…」


がさがさとたくさんの紙袋を腕に提げたお母さんが、あたしの手を取ってスキップでもするかのようにリズミカルに歩き始める。
もうほとんど追い越しそうなお母さんの背中を見て、昔は見上げるばかりだったのにな、とあたしこそ毎度思うことを改めて感じる。

懐かしい、感覚。傍に家族がいる感覚。


心の端っこが満たされていく充足感に、あたしは口元を緩めた。


お母さん、紅茶はいつもの羽無ちゃんブレンドでいい?
ゆっくりお茶しながら、ゆっくりお話しよう。
お母さんがいなかった間にね、いろんなことがあったんだよ。

いろんな、たくさんのことが。





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