「羽無、」

「ん、なーに」


お母さんと隣り合って飛行機の座席につくと、お母さんは抱えていた手提げバッグから数枚の楽譜を取り出した。


「……?なに、これ」

「1分1秒も無駄にしてられないわ。イタリアに着くまでに、これ、覚えちゃってね」

「えぇ?」

「はい、これ。ピアノでメロディーライン弾いたの入ってるから」


ボイスレコーダーとイヤホンも手渡されて、よく意味がわからずつける。
再生ボタンを押してみると、聞いたことのない曲の主旋律が流れ出した。


「………?あれ、お母さん」

「ん?」

「これ、歌詞ないよ?印刷ミス?」

「違うわよー」

「え?」

「いいからいいから。聞いて、覚えて」


どうやら、これも修行の一貫らしい。
ピアノで繰り返されるメロディーに耳を傾けていると、段々と眠気が襲ってくる。

不思議な旋律。あたたかいような、やわらかいような、どこか突き放すようで、それでいて包み込むような。
音階だけで伝わってくる、感情の起伏。優しさの中に滲む悲しみ、儚い音色。じんわりと身に染みてくるようで、胸の奥をぎゅうと掴まれる苦しさ。

誰が、作った曲なんだろう。
こんな、歌詞もない歌。お母さんは、どうしてあたしに覚えさせるんだろう。
確かに、ピアノは弾けるけど…これは、伴奏もなければ、メロディーラインしか本当に楽譜にない。

歌なんだろうけど、歌えない。
なんて、切ないんだろう。


引き込まれるような旋律に心を委ねて、あたしは瞼を閉じた。



***





───……、


ん…


──…が君の…──


誰…


──…に捧ごう…──


歌…?


──…明海の空が…──


穏やかな声色…


──…ゆく、頃に…──


なんて、悲しい歌───

あなたは、誰?
何を思って、

歌ってるの─────


──……、……ウディ、様……──


誰を、


呼んでるの─────


「……、……羽無っ」

「っ!」


びくり、と肩を跳ねさせて、ばちりと瞼を開けると、そこはまだ飛行機の中で。
窓の外が、段々と明るくなってきた頃だった。


「羽無、どうしたの」

「ぇ、あ……、」

「悪い夢でも、見た?」


お母さんが、あたしの片耳のイヤホンを外して、小さな声で囁いた。
眠ってしまった間もずっと流れていたピアノの旋律が、リピート再生されて未だにイヤホンから流れている。

気付くと、あたしは泣いていた。


「魘されてるみたいだったから」

「あ……、」


どうやら、時差の関係で時間が戻っているらしい。日落ち前の夕方時というより、朝焼けを迎え始めたような濃紺の空が窓の外一面を覆っていた。

……明海の、空。


「………お母さん、」

「うん?お水貰おうか?」

「ううん、大丈夫…」


なんで泣いているのかは、明白だった。

歌が、悲しかったからじゃない。
それもあるけど、涙まで零れてしまったのは、それだけの理由じゃなくて…、


悲しいと想う心が、あたしの中に響いてきたからだ。

誰か≠ェ誰か≠想って悲しむ心が、あたしの中に直接滲み出てきたんだ。
あたしが悲しんでいるのとは違う、他の人の心である違和感…

そう、ちょうど骸があたしに憑依したときに感覚が似ている。


まだ耳の奥で残響している幻の音色と、イヤホンから流れ込む現の音色が重なりあって、不思議な感触を生じさせる。


「お母さん、」

「うん?」

「これ、誰の歌…?」

「…!」

「うでぃ、って、誰…?」

「………、」


あたしが、真実を求める真っ直ぐな瞳でお母さんに問い掛けると、彼女はこれ以上ないほどに大きく目を見開いて、そして、小さく嘆息した。


「………そう、もうそんなに…」

「え?」

「メロディーを聞いただけで、それだけの記憶≠ェ…」

「記憶?」

「やっぱり羽無、あんたは運命のもとに生まれた子だった」


お母さんは、切なげに目を細めて、優しくあたしの髪を指で鋤いた。


「お祖父ちゃんの家に行ってから、全部話すわ。
ごめんね…羽無、」

「…ううん、大丈夫だよ…」

「この世界に足を踏み込めば、否が応にもこのことを知らなくちゃならなくなる。
だから、ずっと言いたくなかった…」

「うん、」

「ごめんね羽無、巻き込んでごめん…」

「いいの。あたしが、決めたことだから」

「ううん、ごめん…ごめんね…」


お母さんは、あたしの肩を抱き寄せると、まるで壊れ物を扱うように震えた手であたしの頭を撫でながら、髪に頬を寄せた。


「だから嫌だったのよ…、うちの呪われた血筋から、あんただけは解放してあげたかったのに…」

「血筋…?」

「ごめん…ごめんね…羽無…」


それからずっと、飛行機が空港に着陸するまで。
お母さんは、あたしに頬を寄せながら、何度も何度も…数え切れない謝罪を繰り返した。




***




空港に着くと、ロビーには懐かしい顔がいた。
記憶のものよりも幾ばくか大人びて、背もずっと伸びていて。
まるで別人のようだったけど、目印の黒いキャスケットがあたしの思い出の人であることを明確にした。


「よぉ、羽無。帰ってきたからには覚悟できてんだよな?」

「………相変わらず柄悪い」

「るっせぇな。……にしても、

お前、本当に馬鹿だ」

「………ごめん」


お母さんが繰り返したごめんを聞きながら、あたしは自分が言わなきゃいけないごめんのことを考えていた。
約束を破ったのはあたし。やむを得ない選択ではあったけれど、この人の思いを無下にしたのと同じだ。


「もう少し待ってりゃ、俺が治してやったのに。馬鹿」

「うん……ごめんなさい」

「………いいよ。瑠奈さんに全部聞いた」


アクセサリーの指輪をいくつもつけたごつごつした手のひらが、くしゃりとあたしの頭を撫でる。
小さかった頃も、こうして仲直りしたときには照れ隠しに頭を撫でられていたっけ。
記憶のものと同じように、その人はくしゃくしゃと撫でたあと、ぽんぽんとあたしの頭上で手のひらを弾ませた。


「おかえり。羽無」

「………ただいま、

サンちゃん」


お母さんは、そんなあたしたちを後ろから、柔らかく微笑みながら見守ってくれていた。





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