神隠しの話/鍾離


 まろい頬の輪郭の幼子がとろりと甘い顔で笑う。その表情は年相応とは言い難く、小さな口から覗いた鋭利な犬歯はまさに獲物の隙を狙う肉食獣の牙。

私は知っていた。そのやわらかな両手はちっぽけないきものの首をぽきりと小枝のように折れてしまう程の暴力性を秘めていて、紡ぐ言の葉の中にはどんな生き物も頭を垂れて従わせることが出来る超越した力があること。向けられる執着心は岩よりも重く、いつか支えきれなくなって押し潰されてしまう。

けれど愛おしい、と思う気持ちは二度と揺るがない。

「おはよう、かかさま。かかさまは相変わらずねぼすけだな。」

だから私は今日もあなたの名前を呼ぶのだ。

「おはよう、モラクスくん」

*

ゴツゴツとした岩肌の上、規則正しく水の滴る音。薄ぼんやりと目を開けば、じめっとしたかび臭さと自然光の差し込まない薄暗い周囲に違和感を覚える。

水辺で倒れていたせいで幾分か水を吸って靴底がずぶずぶになってしまった靴や重い服の感触に顔を顰めながらゆっくりと身体を起こす。変な体勢で寝ていたせいで体の節々が痛かったけれど不自由は一切感じられなかったのが幸いと言うかなんというか。

ここがどこかも検討もつかないが周囲の状況からして洞窟や鍾乳洞の中のように見える。同じ境遇の人間がいる可能性も考えて辺りを見渡してみたが火を起こした形跡も人の生活感も全くないのだから、望みは薄い。

それでも未練がましく誰かを探し求めてフラフラと歩きはじめる。同じくして小さな人影がゆっくりとこちらに歩いてきている。背丈からして幼稚園か小学校の子供くらいかもしれない。

「ねぇ!」

私の呼び掛けた声は反響して何重にも広がっていく。

「君もここで目が覚めたの?」

これでは一緒に協力してどうこうなんて期待も出来ないな、内心落胆しながらも明らかにこの寒々とした空間にそぐわない小さな子供を見て見ぬふりなんて出来るはずもなく。

しかし声をかけてからその子供の異様な風貌に気がついた。見た目は恐らく少年。背丈は私のお腹か胸あたりだろうか。顔は白いフードに隠された幼い見た目とはちぐはぐな威圧感、風格。現代社会で生きていたら経験することの無い不気味な感覚にぞわりと鳥肌が立つ。この正体が私には分からない。

「ここは岩の魔神モラクス、吾の領域だ。外の者よ答えろ。貴様はここで何をしていた。」

随分気難しい話し方でこちらに話しかけてきた少年に面食らう。言葉遣いにたどたどしさや舌足らずな印象はない。その言葉遣いに見合った貫禄が少年からは感じられた。

その小さな体から発される威圧感は間違いなく逆らったら良くない。上手く言語化は出来ないけれど、私は目の前の少年が怖いと思う。これが殺意、と呼ばれるものなんてその時の私は知る由もなかった。

「ここに来た理由は分からない。目が覚めたら向こうの洞窟で倒れていて、」

しどろもどろ。辿々しくもどうにか自分の現状を伝えようとする私をすぅと細められた人外めいた琥珀色が見つめている。同時に威圧感がこちらを押し潰すようなものに変化した。

「汝の無駄な言い訳なんぞ聞くつもりはない。吾が問うたことだけに答えろ。」
「っ、ち、誓って君に害をなそうなんて考えてない。けどほんとうに分からないの、自分が何者で、何のためにここにいたのか、」
「……」

小さな手がゆっくりと近づいてきて思わずぎゅうと目を瞑っていた。これが夢なら、どうか覚めてそんな願いと一緒に。

「っ、」

きがつけばひゅーひゅー、と掠れた呼気の音が鳴っていた。心臓の音がうるさい。どくどくと血液が流れる忙しない鼓動で自身の生を実感し安堵した。本当によかった。

なにが?

カタカタと小刻みに震える両手を握りしめて正体不明の恐怖に困惑している。

とても、とてもこわい夢を見た、きがする。
思い出すことは出来なかったけれどその日はなんだか身が入らなくて、同じようなミスを何度も繰り返してしまった。

らしくないね、と大学の先輩にあたる男がそんな私の様子を見てケラケラと面白そうに笑った。ギリシャ神話に出てくる英雄と同じ名前を持つ彼は即興演劇部という部活の部長を務めている。流れで幽霊部員のような形で所属することになったが未だにここで部活動らしいことをした覚えがない。表舞台に引っ張り出されるより舞台裏であれこれと駆け回る方が性には合ってそうなので構わないのだけれども。

「そういえば君はラテン語と西洋思想史を取りたいって話してたよね。あと神話学だっけ?」
「西洋哲学ですけど。昔からあぁいうのが好きで。でもまあ実用性も無いのでなんとも。」
「いいんじゃないかな。学ぶ上で大切なのは好奇心とパッションだよ。興味の無いことはどれだけ役に立つと言われてもままならないからね。」
「それは先輩の実体験の伴う感想ですか?」
「アハハ!まぁね!」

からりと爽やかな笑顔で笑い飛ばした彼を尻目にラップトップ式のパソコンで大学のシラバスを少しだけ確認しておく。人気の高い科目はレポート提出ではなく抽選の可能性もあるため後期の履修は少し不安だ。多分狙っているのはそこまで人気のある先生でもないしそこまで危惧する必要もないのだろうけど。

「君の好きな科目って、俺からすると…つまらないしあくびが出そうだけどね。」

なんとなく自分の趣味を貶されたような気がして気に食わなくて先輩の脇腹を定規でつついてやった。まるで夕日に染まったような髪の毛が寝癖でいつもより自由な跳ね方をしていたことは黙っておく。ファンの女の子から笑われたらいいのに、なんて意地の悪い目論見は多分上手く隠せた。

*

『諸説あるがスイスの精神科医であったカール・グスタフ・ユングは夢を人の深層心理、始祖の記憶、民族、神話、全ての根源に繋がる集団的無意識(また普遍的無意識とも呼ばれる)だと考えていた。夢は人類が忘れ去ってしまった魂の記憶を繋ぐネットワークなのだ。

この考えはフロイトの精神分析学とは全く異なっている。精神分析学では夢を抑圧された欲望の幻覚だと考えていた。』

なるほど。

この分野、面白くない訳では無い。でも時々とんでもない学者が出てくるので着いて行けなくなる。神様というものが存在していることが前提で話を進められるせいでどうにも、自分の価値観とは合わないからか、どこか別の世界の空想話にさえ思えてしまうのだ。発想やら考えの論拠がぶっ飛び過ぎている人間は本当に居たんだなぁ、いわゆる天才とは生きづらそうなんて失礼な感想が浮かんだ。

ある日、夢を見ていた。

夢の中で夢を自覚することはあまり多くないが「あぁ、ここは自分の夢の中だ」と気付くことがたまにある。こういう現象にも名前があって、結構最近勉強したからか鮮明に思い出せた。たしか夢分析や民話で偉い学者が熱心に研究していた分野。明晰夢と言うんだったか。

とにもかくにも、ここが自身の夢の世界だと確信した途端、薄い膜を通しているように感じていた感覚は徐々に霧晴れて行き、思わずかび臭さに顔を顰めていた。洞窟の中の小川が流れているらしく、時折岩同士がひそひそと会話するように共鳴し合っている。

「またおまえか。」

幼い声。聞き覚えはない。けれど向こうは初対面ではないような言い方。振り返ると白いフードを被った小さな子供が私を見下ろしていた。こんなに足場の悪そうな場所であるにもかかわらず裸足で歩いて来たらしい。足場も悪そうだし怪我をしないのか、自分には関係の無いことながら少しだけ心配になった。

「君、もしかして迷子?お家の人とか」
「……は、」
「ええと、初めまして、じゃないのかな……もしかしたらどこかで会ったことあったっけ。でもこれって夢だから……自分が忘れてるくらい朧気な記憶の追憶も……起こりうるのか……?」
「なにも」

少しだけ驚いたように目を見開いた男の子は私をじっと見つめていた。美しい黄金の瞳に目を奪われる。宝石みたい、なんて言葉を使う日が来るとは思わなかった。

「なにもおぼえていないのか。」

深い悲しみを湛えた琥珀色の瞳。小さな子供にそぐわない、悲痛な面持ちに心がツキツキと突かれるような痛みを訴えた。

「おれはモラクス。ここはおれの領域、おまえの言葉で喩えるならばいえ、のようなものだ。」

たどたどしい言葉で言い直した少年がどこか期待したような目でこちらを見たがやはり見覚えがなかった。

「ごめんね、分からないや。もしかしたら私の知り合いなのかもしれないけれど、思い出せないみたい。でもまたよろしくねモラクスくん。」

誤魔化すように笑って、続ける。あまりこの場所は居心地が良くない。ぞわぞわと皮膚を撫でるような生温い風が不気味なのだ。

「あー……ところで、ここの出口はどこかわかる?」

直後目を見開いたモラクス君はじっとこちらを睨みつけるように見つめた後、何事か呟いた。

何を言ったんだろう。よく聞き取れなくて聞き返そうとしたら小さな手が私の首に伸ばされる。

ほそい指がぴとりと充てられて、幼い子供の体温とはかけ離れた氷のような冷たさに慄く。

「なに、」

じわじわと力を込められて本能的に恐怖を覚える。子供の力とは思えないほど強く、容赦のないそれ。死の危機、を感じたままにもがいた。ぎりぎりと力を込められて喉がひゅるりと二酸化炭素を逃し損ねた。

「ヒュ…ぐ、ぁ、」
「許さない」

憎しみを込めて放たれた言葉とは裏腹にどうしてあなたはかなしそうな顔をしているの。

尋ねることもゆるされず。

ぱき、ごきり。

*

『諸説あるがスイスの精神科医であったカール・グスタフ・ユングは夢を人の深層心理、人の祖の記憶、民族、神話、全ての根源に繋がる集団的無意識(また普遍的無意識とも呼ばれる)だと考えていた。

〜中略

亡国璃月を治めていた岩神は仙術で夢枕に立つこともしばしあった。民は彼を岩王帝君と親しみを込めて呼んでおり、璃月はかつて契約の国、商人の町として栄えていた。伝承では岩神は璃月七星と呼ばれる権力者達や璃月の守護者であった仙人達の夢の中で神託を授けていたとされている。』

なるほど。アッサリと飲み込んでから、喉に魚の小骨が刺さったような違和感を覚えた。ざりざりと鑢で表面を粗く削ったような、無理やり継ぎ接ぎされたようなきもちわるさ、けれど抽象的すぎて言葉で表現することができない。

「どうかした?」

同じように教本を眺めていた友人が首を傾げていた。透けるような金色の髪が揺れる。彼女がいつも付けている白い花飾りはトレードマークになりつつある。

「んーん、なんでもない。眠気が一気に来ちゃったのかも。最近夢見が悪いみたいで。」
「寝不足気味?それなら次の出席と提出は私が代わろうか。お兄ちゃんも一緒だし、板書とノートもLINEで送るよ」

心配そうな様子に杞憂だと伝えたくて彼女の名前を紡ごうとする。はくり。けれど言葉が出なかった。金色の髪、白い髪飾りの彼女。けれど本人曰くそれは地毛らしい。だからといって外国人留学生でもなく、彼女は至って普通の、訛りや独特のアクセントもない流暢な日本語を話す。そういえば双子の兄がいたのか。

「__。」

友人、が私の名前を呼んだ。彼女の手元から「古代璃月哲学史」と「大陸文明史」と書かれた教科書が見えている。

「惑わされないで。」

何かが、おかしい。

「境界を超えて向こう側に引き込まれてしまったら、私やお兄ちゃんでも歪みを正すのは難しくなる。」

ぎゅうと手を握られる。女の子らしい柔らかな曲線を描く手は見た目に反し、彼女の手のひらはごつごつとしていてマメの出来た無骨な感触だった。

「うん……ごめんね、心配しないで」

それで、彼女の名前はなんだっけ。



冷たい岩肌の上で目を覚ました。じめっとした空気に顔を顰めながら、張り付く髪を払い除ける。のろのろと身体を起こすと誰かの足音が聞こえる。またこの夢をみている。何度経験したかもう思い出すことも出来ないくらい幾度となくこの場所で目が覚めてはこの夢の中で死ぬ。どう足掻いても、あの子に殺される結末は変えることができない。

「__」

私の名前を幼い声が呼ぶ。長い髪とフードを揺らしながら近づいてきた少年の姿に体が固まった。その得体の知れなさ、でもこの少年が見た目通りの存在ではないと、生存本能が悲鳴をあげている。

「ひっ、」

気が付けば、ぱしりと伸びてきた幼い手を払い除けていた。

「や、やめ、ごめんなさい、近付かないで」

ぼろぼろと零れる涙をそのままにじりじり後退する。その様子を理解出来ていないように振り払われた手を一瞥した後、首を傾げながらも少年は遠ざかった分だけ距離を詰めてくる。近づくなって言ったのに、と気がつけば私はヒステリックに叫び散らしていた。

「また、おまえはおれを拒絶するのか」
「ッ」

小さな手に顎をすくわれる前に反射的に顔を背ける。 見た目も小さくて大した力もなさそうな幼い少年がどうしてこんなに怖いと思うのかも分からずに。

「人は脆いな。ほんのすこし力を込めただけでお前は息絶えた。骸は忽然と消え、まるで最初から存在しなかったようにこの洞天からいなくなった。だが、喜ばしいことにまた戻ってきた。何度も何度も、けれどその度に記憶を失い、お前はいつもおれから逃れようとする。」
「あっ、が、」

幼い子供らしい手からは想像がつかないほど強靭な力で躊躇いもなく髪を引かれる。痛みに顔を顰めて少年の顔を初めて正面から見た。

うつくしい琥珀のような無機質な瞳だった。菱の人間らしさとはおおよそかけ離れた瞳孔が真っすぐにこちらをみつめている。

直後、衝撃と共にじわりと熱くなる胸。視線を落とせば長い棒がそこから生えている。長柄だ。滴る赤い私の血がそのまま流れ落ちていくのを呆然と見ることしか出来ない。カヒュと不器用な呼吸のなりそこないが口から漏れ出た。

痛い。全身から脂汗がにじみ出ている。まるで全身を炙られているみたいに熱いのに、寒気が止まらない。苦しい。胸がつっかえてまともに息を吸うことさえできない。けれど気絶することは許されない。

「お前が言っていた、約束を破ったら針を千本飲ませると。」
「そ、んなの……し、らな、」
「たとえ覚えていなくとも契約を反故にするのなら契約を司る存在として吾は罰を与えなければならない。」

血に染まった少年の小さな手がずるり、と長いそれを引き抜いた。からんと随分軽い音を立てて転がったそれを見ることは叶わずに、傷口に少年の細い腕が埋め込まれる。まるでマジックショーでも見せられているようにずぷずぷと面白いくらいに埋まっていく子供の手に茫然と、貧血と激痛で朦朧とし始めた意識の中、自分が何をされているのか理解できぬまま。少年の声がいやに遠く聞こえる。

「案ずるな。魂を少し弄るだけだ。凡人だろうとこの程度で狂うことはないだろう。だが次はない。今日の苦しみ、痛み、ゆめゆめ忘れるな。」

そしてつぎはわれをうけいれてくれ、かかさま

痛みで絶叫した私を見つめてうっとりとほほえむ少年の笑顔は迷い子が親を見つけた時のように、血に塗れた顔を花のように綻ばせていて。無垢で可愛らしい、どこまでも残酷な色を浮かべていた。

*

頬が生暖かい。ポタリと冷たい雫が教科書を濡らしているのを見て慌てて袖で拭った。いつのにか居眠りをしてしまっていたらしい。

今日は大学を休んだ。前日の体調不良が今日まで長引いてしまったから、下手に出席して周りに迷惑をかけるわけにいかないので、ちゃんとした正当な理由のある欠席である。朝の一限が始まる時間、ほぼ同時刻頃に同じ科の双子たちから何通か連絡が入っていて、思わず笑ってしまった。ぼんやりする頭で返信を返してからタオルケットにくるまり、目を閉じた。

ぽたり、ぽたりと水の落ちる音、湿った匂いがする。

「来てくれたんだな、かかさま。」

小さな子供が私を見下ろしていた。また、この夢を見ているらしい。またなんて、おかしな表現だ。私はこの少年をかつて見たことがあっただろうか。

「き、きみは」

まあるい三日月のような、猫を連想させる黄色い瞳がじっと私を見つめた。その表情は「無」だ。一切の感情を削ぎ落とした白紙のような少年が私を見定めている。なぜか、その表情に恐怖を感じた。

「……次はないといったのだがな、また忘れてしまったのか。ふふ、俺のかかさまは忘れん坊だ。」

仕方ない、と一転して慈愛に満ちた微笑みを浮かべた少年は私の首元に口を寄せた。ちゅうと可愛らしい音を立てながら、顎、頬、目尻、少年は私の顔に口をつけていく。温度のない吐息を近くに感じて、得体の知れない恐怖に体が固まった。名前も知らない子供から好き勝手される不快感のまま拒絶すればいいのに、なぜか指一本自分の意思で動かすことさえ叶わない。

この気持ち悪い感覚は初めてではなかった。けれど思い出せない。何回も、何回も、この少年からこうやって口付けされて、その度に私は。

さいごに、とちゅうと可愛らしい音、やわらかい子供の唇がはくり、と呼吸を逃しそこねた口に合わせられた。途端、柔らかい感触と共に流れ込む膨大な情報と、一瞬だけ意識が眩む感覚。

「ぁ……モラクスくん」
「思い出したか?」
「う……ん、」
「今日は共に外を散策すると約束していたのだが。」
「そ、うだったけ……?」
「ああ、確かに約束したぞ。嘘を吐いたら針を飲ませるとも。」

琥珀色の瞳がゆるりと細められる。もやのかかった思考はでまともに物事は考えられない。全身が大きな岩で圧迫されているように重く、身体は自身の意志で動かない。得体の知れない少年を振り払う気力も湧かないのに、なぜか自身の二本の腕は小さな体をぎゅうと抱きしめていた。

どれくらいそうしていただろうか。幼い手がくいと私の指を引いた。

「漸くここまで辿り着いたんだ。少し外に出ないか。」

痛いくらいの力に思わず眉間に皺が寄ったが何も言わず先導されるがまま、後をついていく。

洞窟の中から出て広がっていたのは青々とした原っぱだった。薄暗い場所に慣れていたせいで眩い日の光に思わず目を細める。少し冷たいくらいの空気が吹いていて、おもわずほう、とため息が漏れた。

「この地に名前はまだない。一帯を治める者が発生していなかったからな。」
「あ、あ、そ、そうなん、だ?」
「だが今しがた良い名を思いついたんだ。かかさまが前に話してくれた寝物語があっただろう。月を離れこの世界にやってきた少女の、結末はおそらくあの者のようにはならないだろうが。」
「……」
「離月、だがこれでは些か縁起が悪いな。ふむ、後でまた改めて用字を考えることにしよう。一国の成長は人の子を見守る親のような気持ちになるのだろうか。」
「お、親、モラクスくんにもいたの?」
「いや、あなた以外にそのようなものはいないな。魔神は彼らとは生まれ方も異なっている。母体から生まれる人間の子供とは違って元素生命体そのものである我らにとって必要のない存在だからな。俺は生まれた時から岩の魔神モラクスとして知識を与えられ、この場所を守る役目を担っていた。」
「わ、私のことを母親と呼ぶのは?」
「……人里に降りた時、そのような呼称で人間の女を呼び慕う童子を見た。親とは子を愛し、慈しむ存在であると。」

大人びているなんて言葉で片付けるには知恵も語彙も発達しすぎている。
血のつながりもないけれど、どうしてかこの子を守ってやりたいと思う。
そんなわけがない、自分が腹を痛めて産んだわけでもないのに擦り寄ってくる少年に対して嫌悪感さえある。
私のようなちっぽけな人間だけにしか縋る者がいない存在に対する愛おしさ。それが庇護欲と呼ばずして一体何になるのだろうか。
庇護欲が湧いてくる自分の心が気持ち悪い。

遠くで誰かが私の声を呼んでいる。きっとあの髪飾りの似合う女の子だ。私の世界には存在していなかったのに、いつの間にか当たり前に、友人として過ごすようになっていた双子たち、存在しない部活の部長、聞いたこともない教科を教える教授、近くの老舗の薬屋で漢方薬を売る小さな女の子。考えてみれば、少しずつ私の日常はこの夢を見るようになってから少しずつ変になっていた。

―おねがい、目を覚まして!
「ほ、たる、?」
「かかさま、どうかしたか」

私は、その声に答えられなかった、できなかった。

「う、ううん、……なんでもない。」

射抜くようなうつくしい琥珀の瞳がまっすぐにこちらを捉えている。じっと、一瞬たりとも逸らされることのない視線。刷り込まれた恐怖に逆らうことができなかった。

いやだと、声を出すことさえ出来なかった。

「なんでもないの、ごめんね。」
「……なるほどな、外の者がこちらに干渉してきているのか。だが今のかかさまに〈これ〉は必要ないだろう。」

小さな幼い手が伸ばされて、頬に触れる。その冷たさに慄いて身体が動かせない。

ーそいつから離れて はやく

また声が聞こえているのに、咄嗟にその持ち主が誰だったのか、分からなかった。さっきまで確かに彼女の名前を呼べたはずなのに、口をついて出るのは短く吐き出される私の呼吸の音だけ。ぱらぱらとピースが欠けるようだ。なにかが抜け落ちていく。考えようとすればするほど、霧に覆われていく感覚。

「あれ、なんで……思い出せないの?忘れたくないのに、」

抗えない喪失にぽろぽろと零れ落ちる涙を拭ったモラクスはうつくしい顔を歪めて、笑っていた。

「ど、どうして、」
「次はないと、言ったはずだ。」

茫然と、上手く動かせない両手で必死に自身の胸を掻く。わすれたくないのに、あの子の笑顔が、声が、なにもかもなかったことにされて、それがかなしくて、つらくて。

かえして、と何度も訴えた。もう何を忘れてしまったのかさえ思い出すことができないのに、大切だったはずの何かを失ってしまったかなしみはいつまで経っても消えなくて。それでも私のかみさまはゆるく首を振るだけで許しはしなかった。

「じきに何もかも過去のことになる。長命の生き物は喪失を幾度となく経験するだろう。案ずることはない。かかさまには俺がいるのだから。」

子供に返ってしまったみたいに泣き続ける私を冷たい手があやしていた。自分よりもずっと小さな体の少年に抱かれて、それが当たり前のように。

「初めてだったんだ。吾をただの子供として、庇護すべき存在として慈しんでくれた存在はかかさまが、はじめてだった。」

まるで懺悔のように子供は話し続ける。

「魔神は永い時を過ごす。寿命の代わりに与えられた磨耗によって俺も例に違わず、磐石な肉体を以てしても崩壊するだろう。最初はそれでいいと思った。多くの別れを受け入れ、記憶することが俺の存在意義だと、理解していたから。」

けれど、そんな時にちっぽけな人間と出会った。どこにでもいるような普通の価値観と倫理観、ただの人だったその女が、そんな生き方はさみしいと、孤独なら夢の中だけでも自分が話し相手になるから、なんて。

「貴女の言葉は本心だった、けれどもう耐えられなかったんだ。一挙一動、どんな言葉も忘れたことは無い。けれど貴女は違う。会う度に記憶を失い、まるで何も知らなかったように振る舞い、俺だけが覚えている。そんなの理不尽だろう?」

それから先も孤独なこの子の隣で、大切な人たちを思い出すこともなく。

この子はもう私を逃がしては 殺してくれないから。

夢の終わりは二度と来ない。

「おはよう、おれのいとおしいかかさま。ようやく手に入れた。」

愛を知らない可哀そうなかみさまは呪いをかけてしまった。ハハオヤ《番》が二度と夢の中 《現世》に迷ってしまわないように。

*
終幕

赤い、赤いもので満たされた杯がとぷりと揺れていました。

目の前で自分自身の指を切り、その流れ出る鮮血を上等そうな杯に注いだ少年が口を開きます。

__これは契約だ。……未来永劫、この地の行く末を見届ける者として、……の番となり伴侶として添い遂げると誓うか。……そちらの世界に手出しはしない。だが、もし……再び俺から離れようとするのなら容赦はしない。そうだな、その時は……大切な者の記憶を全て奪ってしまおう。心配するな、たとえ……としても、記憶さえないのだから何もわからない。……血の契りを以て婚姻の儀とする。

かぷりと歯を突き立てられる痛みに顔を顰めました。うっすらとにじみ出てきた鮮血を一滴、二滴、と少年の持った杯に垂らして、飲み干したその姿に倣い、私もまとわりつくようなその液体に口をつけます。

そして私は。

こくり、と。

*

かみさま 好きな女を現世から神域にしまっちゃおうね〜しちゃった。
おんなのこ かみさまに見初められてしまった。二度と現世のことを思い出すことはない。婚姻の儀でむりやり神様の眷属に作り変えられてしまっているのでしぬことも許されず歪んだ愛を受け続ける。
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