少年病、或いは心中未遂*/放浪者
以下作中で出てくる作品のタイトルと作者

太/宰/治 『姥/捨/山』『メ/リ/イ/ク/リ/ス/マ/ス』
バ/ル/ト/ロ/メ・エ/ス/テ/バ/ン・ム/リ/ー/リ/ョ 天使像
田/山/花/袋 『少/女/病』



 一

 死んだように眠る少年だった。麗らかな春の日和、書生机の上には湯気の立つ茶器がふたつ、食べかけとまあるい形を保った薄皮の饅頭がふたつ並んでいる。物差しが背中に入ったように真っ直ぐな姿勢で、時折物思いに耽りながら原稿用紙に何かを書き込む中肉中背の男がその様子をちらりと伺っていた。丸くて華奢なフレームの眼鏡を掛けた偏屈そうな男である。

 その男の隣で座布団を枕に、背中を丸め、あどけない顔をこちらに向けて眠るのは、見れば見るほど精巧な人形のような少年であった。淡く色付いた桃色のくちびるはクローバーのように均整が取れふっくらとやわらかそうで、長い睫毛には優雅な異国の猫を思わせる少し吊った至極色の瞳が隠されている。

 檳榔子染 びんろうじぞめの上等そうな袴から覗く成長途中の日に焼けていない、肉の薄い太ももは傷ひとつなく、普段旅をしているというのが疑わしいくらいだった。足袋にはほつれもなく、人形にそれらしい装いをさせて、ごっこ遊びに興じていると言われた方がしっくり来る程である。もっとも依頼主である旅人達がそんな悪趣味なことをする訳もないので男の勝手な妄想に過ぎないのだが。

 目が覚めるほど鮮やかな次縹の着物の襟合わせは動きやすさを考慮しているのか、下の襦袢が覗くほどに大きく開かれていた。乱れるほどでもなく、少年の着物はあからさまないやらしさがないにもかかわらず、白い首と濃紺の肌着のくっきりとした境界線を見てしまって、何となく背徳感と後ろめたさを覚える。薄い胸板は浅く呼吸を繰り返し、その桜貝の爪は行儀よく揃えられていた。はくりと時折吐き出される少年の音を聞きながら西洋画に出てくる天使の吐息のようだ、と男はぼんやりと考えた。聖夜の人々を祝福して、眠りについた穏やかな顔、思い浮かべるのは随分前に上野の美術館で十年程前にお目にかかったバルトロメ・エステバン・ムリイリョの一作、あの無垢な顔の幼児の作品は心を打たれるものがあった。

 神が髪の毛の一本一本まで丁寧に作り上げた彫刻のような造形、完成されたそれは当たり前のように少年を形作っている。最早、奇跡と呼ぶに相応しかった。すやすやと眠る天使を起こすのはしのびなく、向こうから指定された予定の時間には半刻ほど早かったこともありしばらくは声をかけなかった。

 だが桔梗の花を思わせる双眸がこちらを捉えていないのは些か不満であるのも、また事実。男は原稿用紙を一枚埋めきってから、わざと独り言を零すことにした。少年の意識が微睡みの中にあると分かっていての行動であった。

「紺桔梗の君、お前は少女病を読んだことがあるのだろうか。」

 うつらうつらと夢の中に意識を彷徨わせていた少年はすぐに目を覚まして、何事か唸りながら、やがて自分が眠りを妨げられたと気がつくと不機嫌な顔を隠しもせず、じとりと男を見つめた。

「……また君の訳の分からない文学談義かい。生憎だけど、僕は学者程俗世に関する知識に精通している訳では無いよ。」
「そうか、ちょっとした世間話のつもりだったが気を悪くしてしまったのならすまないな。」
「あぁ全く。折角、気持ちよく寝ていたのに不躾な隣人のせいで妨げられたんだ。僕が君に何を言いたいか分かるかい?」
「ふむ、私は旅人からの依頼を受けて素性の知れない少年を一人、善意で匿っているだけなんだがな。そこに気を遣ってやる義理はないだろう?しかしお前から隣人、と呼ばれるのは少し照れくさいな。私たちはそれなりに打ち解けた関係性に発展したと受け取っていいのだろうか?」
「はいはい……もう勝手に解釈すればいいさ。」
「あぁ、それで話を戻すが、少女病は日本の近代文学の偉人、布団で非常に有名な田山花袋の作品だ、そこに出てくる少女……いやあれは妙齢の女性だったか、ともかくその令嬢に君がそっくりだったもので」

 ぱちりと子供らしい顔で放浪者はひとつ瞬きをした。きょとん、というオノマトペが似合う仕草に男の濁流のような話し方に拍車がかかる。

「勘違いしないでほしい。お前はまるで神がひとつひとつ選んだような選りすぐりのパーツでもって作られたような容姿だが、女性的だとかめんこい、なんてチープな言葉で表現するつもりはない。だからそんな、腐りかけの鍋を見る目で私を見ないでくれよ。

 語り部である主人公はただの物書き男なんだよ。しかしね、人間の心とは私が「ただの」なんて称することもばかばかしい程に複雑怪奇で、毎日電車、乗合の馬車のようなものだ、これに乗り合わせる一人の女にただならぬ想いを抱いていた。

 物書きにとって令嬢は発展途上の美というテーマでの観察対象だった。通勤の人の波に揉まれて乱れた後れ毛の一本一本から、爪の先、使い込んですこしばかり草臥れたリボン、そういったものを丁寧に紐解いてしまうのは物書きとしての最盛期時代からの性分だったらしい。

 マァ、男は令嬢の美しさに魅入って死んでしまうんだがね。ウン、考えると後味が悪いな。……すまない、やっぱり忘れてくれ。この前同じような話をした時に君からこの世界にそんな作家は存在しないなんて言われたのを思い出した。」

 中途半端に話を切り上げられたと捉えたのか、少年は形のいい柳眉を吊り上げた。

「そこまで話して忘れろなんて言うのは無理な話じゃないか。くだらない戯言に付き合わせるなら最後まで物語の結末まで明かすのが筋ってものだろ。」
「悪いな、けれどもそれが結末だからな。令嬢の美しさに魅入られて、いつか来る日を懸想したらいつの間にか死んでしまった、それだけだ。」
「……君の話はいつも脈絡がなくて、しかも自分勝手だ。」

 どこかむすくれたように、絞り出された声に笑ってしまった。

「つまらない話をしてすまなかったな。」

 世間話を嫌う少年に対する媚売だったのかもしれない。気がついて、らしくもなく、男は恥じ、後悔した。

 まったくもってくだらない与太話だ。どうか忘れてくれ、と。そうしてくれた方が都合がよかった。

 二

 その少年が訳アリの、世の中には少しばかり都合が悪い存在であることは旅人の態度や時折聞こえる会話から察することが出来た。

 それでも男が彼らの旅路の協力者に自ら進んで名乗り出るのには大変打算的な理由があったからだった。

 それは自身を異邦の旅人、と名乗った金色の髪の若者はこのテイワット大陸とは違う世界から迷い込んだらしいこと。そして、そのガイドよろしく引っ付いて回っている小さな妖精の名前の由来はどうやらそんな可愛らしい存在ではなさそうだったこと。その根拠は男の世界で有名だったソロモン七二柱の内の一柱として同じ名前があったということ以外、何ひとつとして存在しないため敢えて追求することはなかった。

 しかし、聞けばこの世界を統治する七神たちのみならず、滅んだ魔神達も全て同じ法則性で名前が付けられている。

 男の世界では悪魔として西洋諸国で語り継がれた存在がこの平たい大陸で神として崇められている、大変興味深いことであった。そこで旅人から聞いた物語を時折脚色を加えながらも忠実に文章としてしたためてやったら、無断で旅人とその妖精は男の作品を八重堂という出版社の編集者に原稿を渡してしまった。

 本人たちは盗作だとか剽窃 ひょうせつのつもりはなく、仕事に就けず稲妻でふらふらしている友人(男にはまったくそんなつもりはなく、日雇いの仕事を請け負うことできままに生活していた。)が書いた物語をどうか本にしてやって欲しいと頼み込むつもりだったらしい。

 数日後、そのような話し合いがされていたとは知らない男が離島に呼び出されたとき、一緒にやってきた旅人と小さな友人だけでなく、見慣れない男、八重堂の編集者がやや興奮したように「あなたの文を本にしたい。是非うちでこの話の続きを書いてくれないか。」と開口一番に言われてしまったせいで面食らうことになった。

 閑話休題、思わぬ所で定職にありついた男はその謝礼として旅人に年頃の子供が好きそうな稲妻細工、少女の手には稲妻の土産物屋で買った小さな鈴を渡してしまった。明らかに高価そうだった小物を渡された旅人は困惑したが、小さな少女は楽しげに鈴をちりんちりんと鳴らしていた。子供は素直が一番というのはその通りだった。

 そんなこんなで城下町からは少し離れた住宅街の一角に住居を構えた男の元に件の少年がやってきてから、すでに幾らかの月日が経過していた。

「ふーん、あいつらが持ってるおもちゃ、君のだったんだ。」

 事も無げに話す少年は一体それをどこから聞きつけたのか、すぐあの旅人と小さな少女の二人組に違いないと思い至った。

「なんだ、お前も欲しかったのか。」
「そんなこと一言も言ってないだろ。子供じみたおもちゃで喜ぶような歳じゃない。」
「ならいい。私は子供が大嫌いなんだ。」

 アッサリと言い切った男に少年は僅かばかりピクリと指先を動かしたが、すぐに何事も無かったかのように俯いて、少し上擦った声でに「そうか。」とだけ返した。少年の頬にらしくもなく微笑が浮かんでいたことに男が気づくことはついぞなかったのだが。

 「鎌倉の海は寒いのか」と少年が思い出したように尋ねてきた。おうむ返しに「カマクラ」とおつむの弱い白痴のように繰り返した男に苛立ったような様子で少年が「君が前話したんだろ。」と話すので、男は些か面食らった。世間話も他人との関係を築くことも嫌う少年は随分前に教えた小動崎の話を覚えていたらしかった。

「あぁ、覚えているとも。きっと今はとんでもなく寒いだろうな。お前みたいな身体の小さな奴はものの数分で死んじまうに違いないだろうさ。」

 少年はその言葉に黙り込んで、しばらく考え込んでいたようだった。
 
「それで話の続きは。」
「聞いてくれるのか。」
「気が向いた。君の妄想に付き合ってやる。」
「そりゃいい。」

 佇まいを正して少年は、こちらに向いた。その後ろでは物見窓から紅葉した葉が散っている。どこまでも幻想的で、絵になる少年だと、男は感嘆の吐息さえ漏らした。

「物語の主役は生きることに疲れた男女だ。女はあやまった男と姦通して、男は女をそこまで追い込んでしまうほど疲弊させていた。罪と後ろめたさから解放されたい一心だった。ただこの世界で生きることに辟易して、二人で最期の逃避行に洒落込むことにした。それから」

 どうなったんだったか、いつもは流暢に紡がれる物語のあらすじが何故か今日に限って出てこなかった。「姥捨」を読んだのは男が高等学校に入る前のことであった為であった。

 いつまでも話の続きを明かさない様子に少年は何も言わなかったが、しばらくして口を開いた。

「続きがわからないなら、試してみない?そのカマクラの話のさ、結末。結構前に君から話の断片だけ聞いてたけど、ちょうど僕も気になってるんだ。」

 いつもの妄想だ。どうか忘れてくれ、とおどけて茶化すことは出来なかった。少年の至極色の瞳は真っ直ぐでほんの少しの冗談も含まれてなどいなかった。

 白魚のつるりとしたしみも毛穴もない無機質なしなやかな指が男の頬をすくい上げる。マネキンの手のようだ、と知り合いの院の研究室でお目にかかった瞬きをする機械なんてこの世に存在しているかも怪しい存在を思い浮かべる。自分自身を放浪者だと身分を明かすだけの少年は、人間が限りなく人間らしいように作り上げた化学合成物質によく似ていた。

 ぶっきらぼうでどこか無関心にさえ取れるその声色が実の所、人間らしさをむき出しに発声することが出来ると、知っていたのは初対面でこの少年の見た目だけで性別をめんこい女児だと誤認し、男が猫可愛がりするような態度で接したからであった。

「冗談のつもりだと思った?僕は本気だよ。」
「あぁ、お前が安っぽい嘘をつくような奴だとは思ってない。」
「それならいい。」
「感謝してるくらいだ。こんな偏屈な小説家と好き好んで付き合うような酔狂はお前くらいだろうからな。」

 男の呆れた声に少年は笑った。今にも散ってしまいそうな花のような弱々しく、儚い笑顔だった。

「それにしても、相変わらず、今にも死にそうな顔だね、君。」

 どちらが切り出すことも無く、二人は身支度を始めた。鎌倉の海は無いが、稲妻には人が二人沈んでも大した問題にならなさそうな場所があるという。ほんの少し前までスメールに居たと話していた少年がやたらこの辺りの地理に明るいことに違和感こそ抱いたが、まぁ稲妻人らしい格好なのだから何らおかしな所はないだろう、と敢えて追求することなく、言われるがまま海祇島行きの船便の片道券を二人分、購入した。道中の暇つぶしになるように花札と、二人分のサイダーにキャラメル、緋櫻餅まで買ってそれでもモラには随分余裕があった。幸いにも、金はあった。

 旅人には放浪者と少し気分転換をしてくると書き置きを残して、今日の依頼料はいらないのでなにか美味いもんでも食べてこい、とらしくもなく相手を気遣うような文章さえしたためた。ついでに二人が夕飯にありつけなかったらいけないと充分な食事代を置いていると、横から旅支度をしていた少年が、おもむろに男の万年筆を握り、今まで世話になった、と几帳面そうな、それでもって書きなれていないどこか歪な字を付け加えていて、大声を出して笑った。

 少年は口を曲げて男の脇を小突いた。

 支度が済んでから、少年の白い陶器の手がきゅっと男のペンだこで妙な形になった指ごと握りしめた。温度の違いに驚いたのは男の方だった。

 手を繋いで男の体温を奪ったが、それでも少年は寒い、寒いと言う。ただの振りで本心などではなかったと知らなかったから、寒空の下を歩かせるのには忍びないと鴉羽根色の羽織を貸した。体格差で長羽織のようになってしまったが見窄らしくはなく、少し大人びた雰囲気を加えた。

「全然違う。馬鹿だな、こういう時は手を絡めるんだよ。」
「……そんなの気付くわけないだろ。」
「君、情緒が無いって言われない?」
「生憎、一度も無いな。こう見えて情緒を金にする仕事をしてるもんで。」
「この揚げ足取り。」
 
 口調とは裏腹に穏やかな少年がするりと男の指に手を絡める。こいびとか、と聞かれたらかつての自分は否定していただろう。

 お互いに決定的な言葉はない。好きだとか、あいしてる、なんて睦言を交わすような関係ではなかった。依頼人と請負人、放浪者と小説家。年齢差だってある。そういった倫理観を男は未だ失ってはいなかった。

 滑稽なことである。うら若き少年の未来をたったいま摘み取らんとする男に真っ当な倫理などが備わっているわけがないのに、当人は全くもって自分は健常で、平凡な人間であるとさえ思い込んでいるのだから。ちぐはぐな二人に名前を付けることは難しかった。

 しかし、そういった関係を誰からも悟られることなく生きるというのは不可能なことで、時折、人形のような少年の出入りを訝しんだ家主から尋ねられることがあった。囲い込むにはちと幼過ぎるぞ、と妙な倫理と常識を振りかざしてくるせいで男は辟易しながら、親戚の子供を預かっている、なんてそれらしい理由をでっち上げてなあなあに誤魔化してきた。
 
 けれど今日でそれも止めにするのだ。いじらしい行動は少年の耳朶を薄紅に染めていた。そんな様子の一部始終を見たら、急にこのわけのわからない関係がいとおしくなって、少年の旋毛にキスを一つ落とした。なんてことはない。ただのごっこ遊びの延長線上の行動だった。

「どうして君たちは自ら死を選ぼうとするんだい。人の命なんて一瞬じゃないか。わざわざ寿命を縮めなくとも、勝手に死ぬくせに。」
 
 道中の船に揺られながら、心の底から不思議で仕方ないと言わんばかりに少年は尋ねてきた。そこに咎めるだとか、制止の意思は感じられなかった。人が自死を選ぶ理由、哲学めいた質問だ。しかしすぐに答えることは出来なかった。
 
「死にたいと思うから、人は死ぬ。短い寿命にさえ耐えきれない人間だっている、俺みたいにな。」
「ふぅん、なら今日、君の死体が浮いてたら稲妻の桜にでも埋めてあげようか。」

 桜の樹の下に死体なんて考え方が、この世界にもあったのだと。

「アァ!そうか、そうか!私もお前も今から死ぬっていうのにお前が死体を埋めてくれるのか!」
「何がおかしいんだ。気持ち悪い笑い方だな。」
 
 アハアハとネジが飛んだように笑う男からの指摘で少年は目を伏せた。失念していたようだった。それが尚更愉快で、らしくもなく、手を叩いて爆笑した。
 
「いやなに、少し……少しばかり絶望しただけだ。あぁ、……全くどこまでもこの世界は無情だな。」

 少年の色付いた眦がきゅっと吊り上げられた。怒りなのか、それともなにか別に思う所があったのか、男は人生の内の長い時間、文章を書く仕事をしてきたが、人の気持ちに寄り添うことは得意では無かったので少年が何を考えたのか、皆目見当もつかなかった。

「なぁ、少年、死のうか。共に死のう。きっと神も許してくれるさ。」

 一二月二四日、紅葉が舞う、雪も積もらぬ冬の在る日の事だった。

 三

 城下町から離れ、半日程、少年と小さな船の客室で過ごせば、珊瑚宮と呼ばれる政府に統制された島に着いた。停泊地にはぽつぽつと小舟や客船が泊まっていた。聞くところによれば、鎖国令が解除されたことで物流が盛んになり、人々を運ぶ船も増えたらしい。南国の穏やかな気候の下、冬でもいくらか肌寒さが和らいでいた。
 
「オロバシノミコト、海祇大御神、なるほどオロバスか。それとも大蛇か。」

 御神体、雷電将軍に討たれたオロバシの遺体はヤシオリ島に今も放置されているらしい。海祇地方の民族信仰にも書かれていたことだ。目狩令の間はここの私軍に幕府軍も随分苦しめられたようだが、旅人や奉行所、他にも様々な尽力でどうにか和平交渉という形に漕ぎ着けたらしい。

 そんな場所に死体を浮かべるのは些か申し訳なさがあったが、どこぞの宿を事故物件に仕立て上げるよりかはマシだと、自分勝手な理論で納得することにした。
 
 外は晴れていた。体を休める為だけの宿に向かえば若い少女が店番を任されていた。ちょうど昼下がりの昼食時である。

「おじさん達、今日はハネムウンにいらしたの。」
「あぁ、そんな所だ。日の出は海が見える綺麗な場所で迎えたいと思ってな。それにしてもお嬢さん、難しい言葉を知ってるんだな」
「私のパパとママのお友達がそんな話をしていたもの。」
「あぁ、そうかい。それはまた……大変なことになりそうだな。」
「ふふ、そうでしょ。でもいいの、今年は私がママを独り占めできるから。」
 
 くふくふと年相応におぼこい笑顔で部屋の鍵を渡して、良いお年を、と見送ってくれた少女に肩をすくめた。

 それから二人で食事を取った。いつも頑なに必要ないと意地を張る少年も、今日だけは付き合ってくれるらしかった。

 上等な料亭は質素ながら素材の味を最大限に活かす術を知る店主のお陰で最後までくどくならず、晩餐を終えることが出来た。運ばれてくる食事にはぽつぽつと感想を残していたが、やがてそれも終えると、しばらく少年は黙りを決め込んだ。時折、思い出したように風の色をした神の目を触り、羽織らせた上着の袖を握る。大きな笠は目立つかもしれない。しかし、この世界に自分の痕跡を残すことはしたくない、と、ホテルに置いてくることは無かった。
 
 男には分からなくなった。少年は、本当に死ぬつもりなのか。ここには毒薬も、酒も、睡眠薬もないと言うのに。

 けれども、すぐに自分の言葉の軽薄さと無責任さを恥じた。少年はずっと本気で、男と最期を迎えようとしていたのだ。だからこそらしくもなくこいびとごっこに興じて、何もかもを捨ててしまう決心を付けている。

 同時に恐怖が支配した。本当にこの子を死なせてしまっていいのか。大人びた言動で失念していたが、放浪者の身分でも少年はおそらく齢一七も行かぬ幼い子供である。

「あらら、もしかして怖くなっちゃった?安心しなよ、僕は君を見捨てたりなんかしない。最期まで付き合ってあげるさ。死んでも一緒ってやつだよ。この僕が、たった一人の人間のために何もかも捨ててあげるんだ、光栄に思いなよ。」

 煽るような口調だったが、どこまで穏やかで、それが男の罪悪感を薄める為の言葉だったことは明らかだった。まるで何もかも見透かされているようであった。

 会計を済ませると、給仕は少し具合の悪そうな顔で男を見ていた。隣には少年が手を繋いだまま黙って待っている。居心地の悪さを振り払えないまま、宿のエントランスまで戻った。少女に聞けば、近くに人の集まらない小さな浜があると言う。けれど今は寒いので遊泳は勧めていないと。

 今から海まで行くのでルームキーはどうか預かっておいて欲しいと、少女に頼んだ。二人とも無くしてしまうかもしれない、なんて付け加えたら訝しみながらもいくつもある鍵箱の一つにしまって、いってらっしゃい、楽しんでね、と手を振っていた。

 それから海まで歩いた。島の真ん中に空いた大きな穴はこの大陸の外縁の海に繋がっているという。なら身投げは本当に死んでしまうに違いない。それもみっともなく、ひしゃげた肉塊になって。それは嫌だった。自分の体はともかく芸術作品のような少年がそんな最期を迎えるのは許容できなかった。

 二人で歩いて、やがて小さな洞窟から海へ繋がる入江についた。色鮮やかな珊瑚礁の海はちゃぷちゃぷと不相応な程に穏やかな波が満ち干きを繰り返していた。

「あぁ、言い忘れていたな。
 少年、メリイ、クリスマス。」
「なんだいそれ。」
「ハハハ、お前に分かるはずなかったな。この時期に人間がよく使う挨拶だ。」
「ふーん、めりい、くりすます。
君が変なのは、今に始まった事じゃなかったね。」

 また使い道のない単語を覚えてしまった、と少年は顔をしかめる。全くもってどうしようも無い世界だった。自分の迷い込んだこの世界は、かつて住んでいた世界より文明は数百年も遅れている。まるで異世界だ。男は云わばこの世界の異物に違いなかった。それなのに、ここに住む住人はまるで自分を同等の人間のように扱い、慈悲を与え、接してくる。八重堂の彼らもまた変わり者の作家だと揶揄しながらも受け入れている。

「この時代の当たり前に生きてきたお前は知らないんだ。食卓に並ぶターキーに、マッシュポテト、芽キャベツの茹で物、それに白ワインと甘ったるいだけのケエキ、イルミネエションに照らされた東京の街並みも、そこではしゃぐアベックの煩わしさも、お前たちは何も知らないんだ。」

 男は気狂いの学者でも、螺子の飛んだ文字書きでもなかった。ただ何かの拍子で別の世界から迷い込んだ異邦人で、どこまでも人らしい人間だった。少年、放浪者はそんな男をどこまでも愚かで馬鹿なやつだと憐れみさえ抱いていた。

「ねぇ、結局、君の言いたいことは何一つ理解できなかったんだけど。どこの世界かも分からない話をして僕に何を伝えたかったの?」
「さァ、この世界に私が生きていた証拠を残したかったのかもしれないな。いつか忘れられるかもしれない。だけど、何かしらの形で爪痕を残したかった。だから物書きになって、お前の依頼も受けた。」
「僕も、君も今から死ぬのに?結局無意味だったじゃないか。」
「そうだったな、ははは。」

 下駄を脱いで、水に浸かれば肌に突き刺さるような冷たさが全身を駆け抜けた。頑なに手を離さないで、少年は狂ったように笑う男をじっと観察している。今から死ぬというのに、その穏やかな面持ちに恐怖は浮かんでいなかった。

「少年、今なら私の故郷に帰れる気がするんだ。」

 だから死ぬなら、今日しかないと思った。諦観しているつもりだった。失った日常の代わりに得られた関係で、望郷を埋められるのならそれで良いと、割り切っていたつもりだった。
 
 けれども、心には未練が巣を作っていた。それは誰かを巻き込んで死んでしまえるほど、大きな病魔に違いなかった。

「メリイ、クリスマス。」

 もう一度少年に言った。
 
 タダで死ぬつもりは無かった。この世界の肉体が滅びれば、魂は巡り巡って戻ることが出来る。そんな希望を胸に男、私は死ぬのだ。
 
 もう胸まで海水が浸かっていた。指の感覚はとうになく、それは少年も同じはずなのに、黙ったまま縋り付くように両手を男の腰に回して、顔だけをこちらに向けていた。その顔があんまりに綺麗で、思わずあぁ、すきだなぁ、と零した。どこまでも男は自分勝手で屑だった。それでも少年のことをあいしていた。なにもかもを投げ打って共にしんでもいいとおもうほど、人形のような少年に心をうばわれていた。

「過去も未来も、たとえ無かったことにしても、一度ついた傷跡は凹んだままだ。だから、私は死ぬんだ。少年、もし生き残ったとしても、選択を誤るなよ。」

 そこでようやく少年が酷く傷ついたような顔をしていたことに気がついた。寒さと痛みで朦朧としてくる意識に身を委ねて、ゆっくりと目を閉じる。

 何もかも、次に目を覚ませば終わっていればいい。東京の郊外、畳の香るあの和室で目が覚めて、編集者から原稿を急かされながら、行きつけの喫茶店でコーヒーを啜りながら物を書くあの日常が戻ってくるのなら、なんだってよかった。

 もうろくに呼吸も出来ないの唇に柔らかい感触が触れた。脳に酸素も回っていないせいか、それの正体を考えることも出来ない。けれど、わずかにあまくて、しょっぱい味がした。

 今日、あの世界に戻る男には関係の無い事だった。

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