「……え、」 イライラしていた。 とにかくイライラしていたんだ。 だからそいつのマンションに行って、一発……といわず二発三発殴ってやろうと思った。 それが、なんでだろう。 なんで逃げてるんだろう、俺。 いつもならありえないくらいの早足で明るい街に戻りながら、バクバクと嫌な音を立てる心臓を押さえ込む。 臨也がマンションのエントランスで女の人といた。臨也の秘書の人じゃなかった。 そりゃ、対したことじゃない。その後に起こったことなんて、臨也が彼女の髪を撫でただけだ。静かな夜には臨也が彼女の名前を呼ぶ声が聞こえて、そのままそっと髪を梳いた。 自惚れだ。ただの自惚れ。 そんな声で呼ぶ名前は自分のものだけだと思ってた。 その指で髪を撫でられるのも、自分だけだと思ってた。 それだけだ。 次の日は最悪だった。 なんとか慣れない化粧でごまかしたものの、顔色も悪いしくまも出来ていた。 そんな姿で仕事になんか出たくなかったけどトムさんには迷惑をかけたくないし、仕方なく向いた足は重くて仕方がない。 昨日からずきずきと痛む心臓は止む気配もなく、無意識に胸を押さえていた。 「静雄、遅かったな」 「すんません……ちょっと、」 仕事場に着くと俺を待っていたらしいトムさんは心配そうに声をかけてくれた。 余計な心配をかけないように笑ってみせるがやはりぎこちなかったようでトムさんはどうしたんだ?と首を傾げる。 俺はまた曖昧に笑みを零して、少しだけ目を伏せた。 胸は、痛いまま。 それでも仕事がなくなるわけでもなく、取り立てに行くため街に出る。 「っ、」 そこで、今一番見たくない黒い人影が目に入った。 「静雄?」 トムさんはまだ気付いていないようで、急に立ち止まった俺を振り向く。 大丈夫、まだ向こうは気付いていない。 必死に心臓を落ち着かせて、道を変えないかと口を開こうとしたところで、 黒い影が、こちらを向いた。 「あっれー、シズちゃん。こんなところで奇遇だねえ」 「っ!」 どうしよう。嫌だ。今は会いたくない。 トムさんは既に少し離れたところにいて、逃げようと思えば一緒に逃げられる。 いや、いつもどおり、いつもどおり喧嘩をすればいいのだ。 「なーんて、君に会いに来たわけだから必然なんだけどね?でも君から見つけてくれなかったのはショックだなあ。」 「……、」 「…シズちゃん?」 いつもどおりにすればいい。 標識で殴って、自販機を投げ付けて、そうしたら、きっとばれない。 こんなぐちゃぐちゃした気持ち、バレるわけがない。 「シーズーちゃん?」 「えっ、」 なのに、気が付くと臨也がすぐ目の前にいた。 手が触れる距離。昨日の女の人と、同じ距離。 「珍しいねー、今日化粧して……」 「さ、わんなっ!」 臨也から伸ばされた手に、昨日の映像がフラッシュバックした。 気が付いたらその手を払い落としていて、驚いた顔をした臨也が目の前にいた。 「っ!!」 だから、逃げた。 トムさんが俺のことを呼ぶ声は聞こえたけど、でも、逃げた。 もうなにも考えたくなかった。 |