夢か夢じゃない不思議な空間に一人の女が立っていた。青の着物、空色の羽織りを羽織った女の流れる漆黒の髪には綺麗な簪が差さっていた。片方の手には、そう、以前梵天丸が姉上という御仁に真剣になって選んでやったものだ。もう片方の手には忘れる筈もない、自分が選んだ小刀があったのだから。女は二つを大事そうに胸に抱えながら、こちらをまっすぐ見つめていた 美しい女だった。初めて見る女の姿は美しく綺麗で、でも何処か儚げな印象を持っていた。あの者が自分の息子を救い、あの小十郎の心を射止めた女だと気付くのには時間は掛からなかった。シャランと鳴るのは小十郎が与えた簪 ふわりと女は笑った ―― ―――― ―――――― 「小十郎、あの者が消えてからもう半月が経ったな」 城にある一室で上座に座る伊達家当主伊達総次郎輝宗が部屋から見える空を見上げながら、目の前に座る小十郎に言葉を投げ掛ける そうで御座いますな、と小十郎は静かに言葉を返し同じ様に部屋から見える空を見上げた。今日は曇り一つもない青い空だ。小鳥の鳴き声は羽ばたく音が心地良く耳に入ってくる 「森は相変わらずだったか?」 「…はい。もうあの場所に辿り着く事は無く、近くを流れる小川に出てしまいます。何度か行ってみたはいいもの、変わりは無く」 「そうか。しかし残念な事だ。籠の中の鳥は空を見る事叶わぬとして消えてしまうのだからな」 「…………」 あれ以来、この日の本で不思議な森が現れる事は無くなった それは同時にあの場所さえも既に無くなっているという事になる。あれから何度か行ってみたはいいもの、深い森になる事もなくすぐに小川に出てしまっていた。本当に、始めからあの場所なんて存在しなかった様に敢然としていたのだから 結局聖蝶という女は何者で、本名はどんな名前なのかさえ、分からないまま 「ときに小十郎よ、昨晩私は不思議な夢を見たのだよ」 「夢、で御座いますか?」 「左様。アレは不思議な夢だった。もう見る事は叶わなくなるが…一度でも出会えた事を、私は嬉しく思う」 「……?」 「此処での無礼は承知。この場を通して貴方様に謁見を申したかった所存」 「貴方に御礼が言いたかった。かような私を伊達家の一員として認めて下さり、本当にありがとうございます。景綱と梵天丸、そして貴方様から頂いた品々は大切に致します」 「伊達家に繁栄と末永い安泰を祈っております」 「私もまだまだ頑張らないとな。 小十郎よ、」 「はっ」 「嫁が消えて貰う相手が居なくなって寂しくなったな」 ……………… … 「………はっ!?」 「いやー実に残念だ。私はてっきり、と期待しておったのに。小十郎も実は奥手だったとは、いやしかし相手を思う為なら奥手も先手も厭わない…いやーしかし残念だ!小十郎のやや子が見れると思って楽しみにしておったものを!なぁ?綱元、喜多」 ガラッ 「左様。私も早く小十郎のやや子を、それから嫁を一目見たかったです」 「あの小十郎が認めるおなごなら、良き義姉妹になれると思っていましたのよ?」 「いつから襖の外にいたんだ!?」 「先程からですよ」 仰天する小十郎。そんな義弟の珍しく且つ面白い姿を見て鬼庭綱元と喜多は笑う いつから居たんだ、いや、どうして聖蝶の事を知っているんだとか何で話が進んでいるのかとか色々突っ込みたい所。だが残念な事に突然の登場に口を半開きにしている小十郎にそんな言葉は喉の奥で消える事となる 「貴方がそんなに彼女を失って傷心しているのは存じていますが、まさか気配まで分からなくなるなんて…私は心配でなりませんよ」 「好いた者が消えてしまう気持ち…しかも初恋なれば傷心する気持ちは察します。されどそのせいで嫁を貰わないとなれば…綱元は父に顔向けができません」 「見ろ小十郎、お前の将来を心配する兄姉を。この二人は今か今かとお前の子を待っておるぞ!小十郎…行き遅れる前にこの二人を安心させい!そして私にやや子を見せるのだ!」 「輝宗様ッ!!」 「ハッハッハッハッ!」 今日も奥州は平和だった ――――― ――― ― 「えーびーしーでぃーいーえふじー、えいちあーいじぇーけーえるえむえーぬ」 離れにある屋敷の部屋から歌が聞こえる。小さな声、だけど何処か楽しげな歌。テンポ良くリズミカルな歌は誰もいない部屋に小さく響き渡った 縁側で足をぶらぶらさせながら梵天丸が歌を歌っていた。空を見上げ、近くの木に止まる鳥達の仲睦まじい姿を見ながら、歌はいつしか終盤な近付いていく 歌い終えた梵天丸はふう、と小さく息を吐いた。記憶にない歌はこうして一日一回歌う事が日課になっていた。誰もいない一人だけの屋敷、梵天丸は膝を折って立ち上がった 「いんぐりっしゅの勉強したら小十郎と稽古して…それから、」 ―――…それから? ピタリと部屋に向う小さい足が止まる そう、最近何故か稽古後の行動が思い出せないでいた。稽古したら後は自由なのに、自由にして遊んでいたのに、何故釈然つかないのか。おかしな点は幾つかあった。前なんて病の関係で部屋から出れなかったのに、回りの目が怖かったのに今では全然平気で、母を前にしても辛くは無かった。自分は気付かない内に逞しくなっていた。一番びっくりしたのが知らなかった筈の南蛮語を知って、しかも先程の様にいつの間にか口ずさんでいた 自分の行動が分からない。頭を捻って一日中考えても答えは出なかった。分からない、でも、これだけは分かる 「ねぇ、梵天丸…こんな私を好きになってくれて、ありがとう」 自分は誰かを忘れている でも答えを知るのが怖くって、今の考えを頭で振った。紛らわす為に足速に部屋に戻っていった リーン それ以降、もう梵天丸の記憶に出てくる事は無くなった そ し て 記 憶 の 物 語 は 終 焉 を 迎 え た |