授業が終わるチャイムが鳴った。この後は移動教室だから荷物を持って教室を後にする。その荷物の中に、ちょっとしたものを忍ばせて。少し浮かれてしまう気持ちを押し殺しつつ、しかし僅かな期待を胸に秘めながらあくまで普通に廊下を歩く

次の移動教室の場所は、とある教室に近かった。とある教室を通り過ぎなければたどり着けない、そんな場所。運が良ければもしかしたら、という高揚感が胸を弾ませる。勿論、運が悪かった場合の言い訳を胸に言い聞かせつつ、近くになればなるほど不自然に足速になってしまう己の足に苦笑を漏らしながら、トレイ・クローバーは平然を装って前を歩く

とある教室に近付くと、わいわいガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。いや、この階層か。相変わらずこの学年は元気だなとトレイは笑う。そうしてとある教室にあと一歩のところで近付こうとした時、教室の扉からフワリと柔らかい存在が視界に入ってきた


「クローバー先輩、御機嫌よう」
「やぁ、監督生。奇遇だな」


とある教室、1−Aのクラスから現れたのはこの学園随一の人気者で高嶺の花である、ミリ・クロウリー

この移動教室中のトレイの目的の相手でもあった彼女。今日は運がいい、とトレイの心は強くガッツポーズ。なかなかどうしてか、こういう機会が無いと出会えなかったりするから困った話だ。彼女がまだ彼だったら話は違ったのに。どうしてか未だに緊張してしまうから、つくづく困った話だ

そんな心中を知らない彼女は、トレイの来訪に優しげな微笑みを浮かばせた


「移動教室中ですか?もしくはハーツラビュル所属の子に御用で?」
「移動教室中だ。こっちを通った方が早いからな」
「あらー」
「そういう監督生はどこか行くのか?」
「知っている気配が来たから誰かなって。顔を出してみたら、クローバー先輩でした。顔を出してみて正解でした」
「…おまえってやつは……」


どうしてこうも嬉しい言葉をくれるんだと、トレイは己の動揺を隠すために眼鏡の縁を上げ下げする。上げ下げし過ぎる気もするが、運がよく彼女は教室内に視線を向けていた。つくづく運がいい。時計を見ていた彼女は「引き留めすぎるのはいけないね」と苦笑を漏らし、「それでは、」とペコりと頭を下げて帰ろうとする。時間の運は無かったらしい。トレイは平然を装いつつ、慌てて彼女を引き留めた


「これ、渡しておくよ。グリムと一緒に食べてくれ」
「!…クローバー印のマフィン!」
「昨日作ったやつでな、配っているんだ。たまたま今持っていて良かったよ」


まぁ嘘なんだが。昨日作って知り合いに配っていたのは事実だが、その分はお前に渡すためだけに持ってきたんだけど。トレイは平然を装いつつ真実と嘘を混ぜる。そういう男である

別にグリ厶の分も用意しなくてもよくて、出来ればミリだけに渡したいのが本音だ。しかし、グリムを我が子と思う彼女はきっと全部グリムに食べさせるだろう。自分は一欠片しか食べないで。簡単に想像つく結果に先手を打って用意しておけば、彼女は嬉しそうに食べてくれる。そして嬉しそうに笑顔を綻ばせながら自分に言うのだ、「美味しかったです」と


「ありがとうございます、クローバー先輩。今日も頑張れそうです」


作り手にとって、そして自分にとって、彼女にそう言って貰える為に動こうとするのかだなんて

嗚呼、それは―――――





トレイ・クローバーは○○○○いる



トレイ・クローバーにとって、ケーキ作りはストレス発散だ。日常の鬱憤、寮内の鬱憤、様々な鬱憤を発散する為にもケーキ作りはまさに理想の存在だ。実家がケーキ屋だからもあるが、手短に発散出来るものがケーキ作りだった。いや、普通の男はなかなかその方向にはいかないが、それは蛇足として

ケーキ作りが好きなトレイにはハーツラビュル寮の行事は性にあっていた。なんてったってケーキをめっちゃ作れるからな。とはいえ好きで作るケーキと強制されて作るケーキは別物だ。己の知らないところでストレスは蓄積されていく。しかも寮内のいざこざを副寮長として相手しなければならないし、当時暴君だった寮長を宥めたりと、三竦み状態だったのは間違いない

結果的にケーキが作れるのでトレイはケーキ作りを楽しんだ。ケーキを作って作って作って、皆が美味しく食べる姿を見るのが好きだった。しかし寮生達は行事とはいえ毎回毎回ケーキは胃もたれを起こすし、ケーキを見たくないとまで言わす事態になったのは、仕方がない話でもあった。まだ救いなのは寮生はケーキで太らなかった。摂取以上に代謝がすこぶる良かった。ハーツラビュル寮生はもしかしたら糖代謝が良いメンツばかりだったのかもしれない。真相は謎。それはさておき、トレイが三年生になる前までは、なかなかどうしてか、ケーキ作りに対する意欲が湧かずにいたのだ。トレイの心中を知るものは残念ながら誰もいない。悟らせないのがこの男の凄いところである。お前本当に普通の男か?

さてさて。そんなトレイ・クローバーに意欲を取り戻したのは、ミリ・クロウリーの存在だ。正確にはまだ彼として活動していた時なのだが

彼はよくエース達に連れられて、なんでもない日を手伝ってくれた事があった。魔力無しで非力そうなのに手際が良くて、ケーキを作った事がある様に知識が豊富で、とても頼もしく思っていたことがあった。不思議に思っていたが特に追求せずケーキ作りに集中していた時、「ケーキ作りって、大変ですよね。なかなかな重労働、美味しく作るのもそうですが、見栄えにもこだわって。体力も使って頭も使う作業で大変ですがその分、楽しいですよね」と彼は、彼女は笑ったことがあった。そして続けて「こんなに手を混んだケーキを作ってくれた。それを、食べれる。こんなに幸せなことはないですよ。クローバー先輩の手は魔法の手ですね」「いつも自分達の為にありがとうございます、クローバー先輩」とさらに彼は、否、彼女は笑った

トレイに衝撃が走った。当たり前に作っていたケーキ、ストレス発散に作っていたケーキに、そこまで言ってくれたことを。度々自分のケーキを喜んでくれて褒めてくれる事はあったが、ここまで具体的に褒めてくれる事は今までなかったから。まだまだ語彙力が乏しく思春期真っ盛りの男子、なおかつナイトイレブンカレッジの学生が素直に人を褒めれるわけがないから期待する方が間違えているのだが、少なくてもトレイにとって彼の言葉は心に響いた。しかも、彼から彼女になってからは、その言葉は天使の矢に貫かれたかのような、衝撃へと変化して

彼が彼女だと知った時はそれはそれは驚いたものだ。気づいてあげられなかった自分に怒る気持ちを持ちつつ、よくそこまで男として隠してきたなと素直に驚いた。彼が彼女だと知ってから、自分の気持ちに変化が訪れた。その変化は、聡いトレイは気付いてしまった。気付いてしまった以上、止められない

しかしかといっていきなりがめつく様な真似はしない。いや、出来ない。彼女が彼として受けた傷を前に図々しく前に出るなんて愚行過ぎる。少なくても彼女は、自分に懐いてくれている。認めて貰えたその信用に、少しでも答えたい。こんな普通の男なんかでよければ、俺は喜んで着いて行こう

その為にも、昔に忘れてしまった気持ちを思い出しつつ、お前の喜ぶ顔を見せて欲しい




トレイ・クローバーは楽しんでいる



「いつもいつも貰ってばかりで申し訳ないなぁ…一回断った時のあの、大型犬がシュンってなった顔見ちゃったら…ねぇ…無理だよねぇ…あれが無自覚だったらタチ悪いよ…。それはそれとして、マフィン〜帰ったらグリムと食べよー!」



20240322



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