二月。昔の人にとっては既に春だったらしいけど、現代に生きる私には容赦のない程冷たい風が吹き付けてくる。太陽が落ちたこの時間帯ともなれば尚更だ。隣を歩くひとの手だけが、酷く温かい。
ちらりと視線を上げてみると、ちょうど私を見ていた瞳と目が合った。優しい色をしたそれが、微かな不安に細められる。
「寒くない?」
「大丈夫です。貴文さんこそ」
「……ちょっと寒いかな」
そう言って、貴文さんは手を握り直してそっと寄り添ってきた。(え、)私が自然な動きに言葉を失っていると、低く、柔らかい微笑が近い距離に聞こえた。
「こうすれば、暖かいでしょう?」
悪戯をしかけた子どもみたいな言い方に、照れくさいような、くすぐったいような気持ちに心臓が飛び跳ねる。目を伏せて、私も手に力を込める。貴文さんは何も言わずに、また小さな笑みを溢した気配だけがした。
一歩歩いて、一つ言葉を交わす度に、少しずつ家が近づいてくる。
幸せな時間が、少しずつ終わりに近づいてくる。
「明日なんて、来なければ良いのに」
思わず、小さな声で呟いた。貴文さんは一度瞬きすると、不思議そうに首を傾げる。柔らかそうな髪が、ふわりと目にかかった。そんなかわいい仕草が似合う男の人ってあまりいない。しかも、貴文さんの容姿はかわいい系じゃなくてかっこいい系だっていうのに。どんな仕草にも優しい暖かさが溢れていて、何度でも見惚れてしまう。
ずっと、こうやって見惚れていたいと思ってしまう。
「どうして?……ああ、宿題が終わっていない。ピンポンですね?」
「ブ、ブーです」本当は後少し残っているけど、今はあまり考えたくない。「だって、そうしたら貴文さんなんて呼べないじゃないですか」
「そうだね」
「あっさりですね」
「僕も君を名前で呼べなくなる。おあいこです」
「そんなおあいこいりません」
言い返してから、罪悪感が胸をよぎった。こんなことを貴文さんに言ったってどうしようにもないのに。明日になったら貴文さんは先生で、私はただの生徒で。私はそれに対して文句を言うどころか、叶わぬ恋の代名詞である“先生への片想い”が成就しただけでも世界へ最高の感謝を捧げなければいけないんだ。分かってる。分かってるのに、欲望は留まるところを知らずに溢れ続けて、意味もなく貴文さんを困らせる。
「……ごめんなさい、私」
「ううん」
貴文さんは首を振り、優しく微笑った。溶けるような笑い方に、じんわりした柔い熱が広がってゆく。
「本当は、僕だってずっとこうしていたいから」
「……ですか」
「うん。でも、高校生の君は今しか見られないから、そう考えればこういうのも悪くありません」
ね、と貴文さんが言う。(今しか、かあ)そうかもしれない。私が高校生じゃなくなったって貴文さんは先生のままだろうけど、私にとっての先生なのは今だけだ。それに、卒業したら見れなくなる姿もある訳で。白衣とか、黒板に字を書き付ける後ろ姿とか、そういうちょっとだけマニアックな姿。
うん、悪くない。
「貴文さんは私を説得するのが世界一上手ですね」
「そう?」
「はい。ごめんなさい、わがまま言っちゃって」
「君のわがままなら大歓迎です。……や、着きましたね」
そう言われて、やっと家の近くに到着していたことに気づいた。明確な時間の区切りに、割り切った筈の心がまた騒ぎだす。(ああ、もう)変なことを言ってしまう前に、繋いでいた手をそっと離す。
熱を失った指先が、酷く冷たい。
「ありがとうございます、ここまで送ってくれて」
「こちらこそ。君といれて楽しかった」
「……あ、あと、その」
鞄を開けて、朝から中に忍ばせていたものを取り出す。不思議そうにこちらを見ている貴文さんに、淡い色合いの小包を突き出した。
「若干フライングですが、バレンタインです」
「……え」
「今日誘ったの、本当はこれ渡したかったからで……タイミング分からなくて、こんな時になっちゃいましたけど」
言っているうちに恥ずかしくなってきて、貴文さんから視線を逸らす。別に、こういう関係になる前からバレンタインのプレゼントはしていて、今さら恥じることでもないのに。
「あ、ほら、学校だと色んな人に貰うでしょうから渡しにくいし、変に怪しまれたら困りますし……どうせなら、二人でいるときに渡したいな、って」
言い訳を重ねながら、やっぱりイベント事でフライングは不味かったかという焦りでいっぱいになる。貴文さんが何も言わずに包みを見ているのが更に不安感を煽る。(ど、どうしよう)包みを両手で掲げたまま固まっていると、貴文さんが不意に口を開いた。
「……君の手作り?」
「え、あ、はい!あああ一応味見はしたので食べれないってことは多分ないと思いますけ、」
続けようとした言葉が、消えた。
貴文さんが掴んだのはプレゼントじゃなくて、私の肩で。気づいたときには貴文さんの腕の中にいた。思わず落としそうになった包みを掴み直して、馬鹿みたいに速い鼓動が伝わっていないか緊張する。吐息が私の髪に当たって、顔を上げると貴文さんの顔が近い距離にあった。珍しく頬を赤くした、幸せそうな微笑に、思考回路が全てぶっ飛んだ音がした。(あ、私、しんだかも)
「今日が学校じゃなくて、本当に良かった」
「なん、で」
「学校で君を抱き締めてしまったかもしれないから」
こんなにも幸せなことなんて思わなかった。
そう微笑って、貴文さんが一層強く私を抱き締める。身長の差のせいで、私の頭は貴文さんの胸に押し付けられる形になる訳で。
(あ、)
貴文さんの鼓動も、速い。
「……貴文さん」
「なに?」
「やっぱり、明日にならなければいいって思います」
I w a n t t o b e a l o n e
w i t h y o u .
(僕も、そう思う)
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