初めて会った頃に一度だけ、前世の記憶はあるのか、と彼が尋ねてきたことがあった。
先祖返りの中にはそういう人たちもいるということは知っているけど、少なくとも私はそうではない。
そのことを素直に伝えると、彼はそうか、と微かに笑った。
いつもの尊大なそれとは異なる、どこかやるせない笑い方で。


彼は放浪癖のある変人で、時々帰ってきては鞭だの縄だの偏った土産を皆に配り歩いてSだMだと騒いでまたふらりとどこかに行く、そんな生活を送っているらしい。初めて会った時にはその奇怪な外見(何で仮面?)に驚いたものの、段々と耐性ができて少しずつ普通に会話もできるようになった。言動と外見が奇怪なだけで、意外に中身はまともだったし。ああでも反ノ塚くんがいつか言っていた「あの人、お前にはなんか優しいよな」って言葉が、案外嘘でもなかっただけなのかもしれないけど。

それから彼が前世について触れてくることはなかった。私だって覚えていないことについて話せる程器用じゃないし、結果として前世なんてものについて話す機会はもうなかった。あの時は一体何だったんだろうなとか気になることはあったけど、自由奔放な彼の思考が読めないのはその時に限ったことではなかったので、特に追及しようという気にはならなかった。

時が流れていく内に沢山のことがあって幾多の思い出なんかも出来た。妖館に住む皆は優しかったし、時々帰ってくる彼との交流は訳もなく楽しかった。
何度も言葉を交わすうちに、いつの間にか私は彼に変な感情を抱きはじめた。妙に浮ついていて暖かくていつも私を浮かれさせて、それでいて絶えず不安と焦燥に突き動かしてくる、そんな生まれて初めての感覚。ああこれが恋なんだって他人事のように実感して、そんな自分に驚いた。だって、彼は言動も外見も常軌を逸した紛うことなき変人の変態だ。そんな人に恋だなんて、どこかに頭をぶつけたとしか思えない。
でも私はどこまでも健康体でそれなのに彼がどうにもならない位恋しくて、それが不思議と幸せだった。

その内に、気紛れな彼の帰りを待つのが私の密かな楽しみとなっていた。暇さえあれば彼のことを考えているようになって、次に会ったときには何て話そうか、そんなことを考えるだけで幸せな気分になった。
そして、それと同じくらいの頃から、何かがおかしいと思い始めた。

最初のきっかけは夏目くん。次はいつ帰ってくるんだろうかとか会話を交わす時間はあるんだろうかとかまた変なお土産買ってくるのかなとか脳内でお花畑を展開していたら目が合った途端にいつもの笑顔を引っ込められて、まさか表情に出ていたの!?と焦りながら問い詰めてみると「そんなことないよー」とすぐに復活した笑顔で誤魔化された(夏目くんの笑顔が崩れたことなんて、それまで一回もなかったのに)。そんな訳がないと疑っていたら、ふと、いつか見たものに似たやるせない笑顔を浮かべて、「頑張ってね」、って。
恋なんてしたことのない私がどうすれば良いのか分からなくなって野ばらさんに相談したときもそうだった。最初は「私の名前ちゃんが恋ですって!?一体どこのどいつに誑かされたの詳しく聞かせて頂戴!」とこっちが一歩引いてしまう勢いで話に食い付いてきたのに、相手の名前を告げた瞬間、一度だけ瞬きをして、ふっとあの笑顔を浮かべた。そうしてただ一言、「応援してるわ」、って。


それらが何を意味しているのか。
いくら鈍い私でも、気付くのにそう時間はかからなかった。





「“先祖返りは同じような運命を歩む”なんて信じていなかったんですけど、案外、嘘でもないのかもしれませんね」

前世は前世で今は今。例え基本の性質を受け継いでいたとしても、関わる人間や生きる環境でその人生は変わってくるに決まっている。
ずっとそう考えていたけど、所詮私の考えなんて先人達の言葉に適う筈もなかったようだ。

「何故、そう思う」

「貴方みたいにふざけた人、二回も好きになるだなんて普通ありえませんって」

「ふざけてなどいない。私は真面目なドSだ」

「いやそういうのがふざけてる」

ああ、この人と喋っていると、どう頑張ってもシリアスな雰囲気になりきらない。それが今は少しだけありがたかった。どこまで分かっていてそんな発言をしているのかまでは、流石に推し量ることが出来ないけど。

「私は前世のこととか、何も覚えていないんです。それでも、先祖返りがああだこうだって考えるだけで微妙な気持ちになってくるんですよ。もしもですよ、もし、私が貴方を好きになったのはただそういう運命だからで、そこには今の私の意志や今の貴方の存在は介入していないんだとしたら、」


この感情も感情に至るまでの想い出も、ただ、そうあるべくしてあるだけのものだとしたら。


「そんなもの、ただ虚しいだけじゃないですか」


沈黙が、二人の間に降りる。いつも騒がしいこの人との会話では、酷く珍しいことだった。
この人はいつも騒がしくて、変なことばかり言っていて。それについて文句を言ったり、突っ込んだり、呆れたりしながら、私はその騒がしさが大好きだと思った。そんな部分も含めて、この人を好きだと思ったんだから。

そしてきっとそれは、前世の私も同じだったんだろう。


「……つまり」

低い声が、私の鼓膜を揺らす。

「貴様は、前世が無ければ私を好かなかったということか?」

予想していなかった問いかけに一瞬驚いて、思わず相手を見る。表情の浮かんでいない口元と、顔の半分を覆う仮面からその真意を伺い知ることはできない。
おかしな質問だ。そんなこと、誰にも確かめる術なんてないのに。


ああ、でも、何でだろう。根拠もないのに、はっきりと確信できる。微かに笑って、首を横に振った。



「いいえ」

我ながら、馬鹿みたいだとは思うけど。



「前世や先祖返りなんてなくたって、蜻蛉さんを好きになったと思います」




私の言葉に、蜻蛉さんの口元が満足げに弧を描いた。
どこまでも尊大で、どこまでも傲慢な。
いつも通りの、大好きな表情。

「それならば、何も問題はあるまい」

「……そんなものですか?」

「私だって同じだからな」


何気なく放たれた言葉に、一瞬頭がついてこなかった。

呆気にとられたまま蜻蛉さんを見ていると、いつも通りの様子でこちらに歩み寄ってくる。私のすぐ目の前に立つものだから、身長の差から必然的に見下ろされる形になった。


「名前」

「……はい」

「貴様を愛している」



呼吸が、止まった。

音を失った世界で、私の心臓だけが大きく波打つ。告げられた言葉だけが、何度も脳内で繰り返される。


「前世も何も関係ない。私は今を生きて、今の貴様を愛している。貴様も違わないのだろう?」


同じ言葉を、蜻蛉さんはもう一度言った。何も言えないままでいる私の顔に手を伸ばし、そっと輪郭をなぞる。その指先は冷たいのに、触れた跡は妙に熱い。


「それとも、何か問題があるというのか?」

「問題、って」

「ないだろう」

「……ないですけど」

そうか、と。
蜻蛉さんは微笑って、私に触れていた手を顎に添えた。くすぐったい感覚に目を閉じそうになったが、その前に自然な動きで上向かされる。いつもよりずっと近い距離で、仮面越しに目が合った気がした。
いつだって、この人には敵わない。私の葛藤も悩みも全て、その強引さで吹き飛ばしてしまう。前世の私がどうだったかなんて関係ない。私は、この人のそんな所が、どうしようにもなく愛おしいんだ。


ああ、本当。
彼がいるこの瞬間の前に、問題なんて何もなかった。




幾度目かの恋の成就
(今あるのは、ただ、この瞬間だけ)

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