口の中に残る苦味と、手足を緩く痺れさせる感覚。それが気持ち悪くて、今日の仕事を勝手に中断して城内をふらふらと歩く。その足元のように思考回路の動きも覚束なく、自室の方へ向かいながら小さく溜息を吐いた。

(……致死性のものは、入っていなかったみたいだけど)

精々痺れ毒位だろう。幸か不幸か大抵の毒に対して抵抗のある私には、例え致死性のものが混入していた所で大した問題にはならなかっただろうが。それよりも問題なのはこの苦味だ。この液体は大量に摂取するべきものではない。一度口内を清涼にしようと、自室の前で小さく息を吐いた。



「今日は何の日だか知っているかい?」



唐突に、背後から声がした。
よくあることではあるし、別段驚きもせずに顔だけ振り返る。
いつの間にかすぐ背後に立っていたアルケインが、私を見下ろしながら笑っていた。趣味の悪い登場の仕方に、愛想を返すのも馬鹿らしくて小さく首肯する。

「存じております。閣下の自称されたお誕生日ですよね。おめでとうございます」

「取って付けたような祝いだね」

「今はあまり会話をしたくない気分なので。それでは失礼致します」

それだけ言い残してさっさと踵を返そうとしたが、腕を掴まれて阻まれる。溜息を吐いて、その場から逃げることを諦めた。素直にアルケインの方を向くと、直ぐに手は放された。まあ、彼がその気になったら私が逃げられる筈もないのだけど。

「酷く体調が悪そうに見えるが、どうしたんだい?」

「……ワインの飲み過ぎで、少々吐き気が」

素直に不快感の理由を口にすると、アルケインは意外そうにへえ、と呟いた。

「君が吐く程ワインを飲むなんて珍しいな。そういえば、今日は姿を見ないと思ったが」

「さぼって飲んだくれていた訳ではありませんからね。毒味していただけです」

「……何だって?」

「英雄であられる閣下の誕生日ですから、まあワインの献上品が多くて多くて。時勢柄、城がワインで埋まるという事態は避けられましたが」

「いや、ちょっと待て」

言葉を遮られ、思わず眉間に皺を寄せる。今は、出来る限り早く会話を終わらせたいのに。
見上げたアルケインの口元からは、いつもの余裕ぶった笑顔が消えていた。

「君が、毒味なんてしていたのかい?」

「ええ、はい。お陰で吐く程戴きました。ああ、毒味が済んだものはちゃんと部屋にお運びしましたし、どれも魔導で少しだけ抜き出したので品質には問題は……」

「そうじゃない」

また、遮られた。先程とは更に様子の違う声に、大人しく口を閉じる。
抑揚の少なく、冷涼さを孕んだ声。普段飄々としているアルケインが、こんなに話し方をするのはどんなときなのか、私は知っている。知っている、けど。


「何で、君がそんなことをした?」



何で、この人は怒っている?



「……何故、と言いましても」

時間稼ぎを呟いて、緊張しながら思考を巡らせる。
状況からして、アルケインを怒らせているのは私だ。しかし、全く要因が思い当たらない。普段は温厚なアルケインが怒るだなんて、余程のことだろうに。
状況も分からないのに下手に嘘を吐くのは得策でないと判断して、正直に、慎重に言葉を選ぶ。

「毒味をしていないワインを閣下に献上するなど言語道断でしょう。幸いにして私は他の兵と違い毒への抗体がありますから、私がその責務を負うのは当然です。事実、この機に乗じ毒を持ったものを混ぜるような輩もいました」

「それを、君が飲んだのか」

「はい」

「だから、そんなに調子が悪そうなんだね」




はい、と返事をする暇もなかった。




強い力で肩を掴まれたと思うと、そのまま背中を扉に叩きつけられる。唐突な衝撃に、反射反応で短く息を飲んだ。指が肩に食い込んで、鈍い痛みを発する。


「――僕がいつ、そんなことを許可した」


私を壁に押しつけて、アルケインが低く呟いた。今まで向けられたことのないような冷たい怒りに、心臓が冷えていく。

「いつ、って」

「答えろ。君が毒を飲むようなことを、いつ、誰が許可した?」

分からない。
何をいきなり言っているのだろう。
アルケインの配下が毒味を行うのは当然だ。それに私には大抵の毒への耐性があるのだし、アルケインだってそれを知っている。許可なんて取る必要があるとは思えない。
分かりきったことなのに。
どうして、こんなにこの人は怒っているのだろう。

「……申し訳ありません」

何も分からなくて、食い込む指が痛くて、アルケインの怒りが純粋に怖くて。ただ、平坦さを装って謝罪する。
アルケインは何も言わずに、肩を押さえつけているのとは逆の手で私の髪を一房掬いあげた。冷たい指が頬を掠めて、反射で身体が緊張する。微かに身を屈めて、アルケインは私の耳元に口を寄せた。


「君は、誰のものだ?」

低く、深い声で。
アルケインが、すぐ傍で囁く。


どこか甘い響きにも聞こえるのに、それが、訳も分からず怖かった。(どうして、こんなに怒っているの)弱い自我が今にも折れて、雰囲気に全て呑まれそうにになる。

――駄目だ。
気を、強く保たないと。

近い距離にあるアルケインの目を、仮面越しに見据える。零れそうになる涙を追いやって、震えそうになる声を凛と張った。

「……確認するまでもないでしょう。私は、閣下の所有物です」

私の言葉に、アルケインは口を閉じた。私の髪を放し、その手で私の輪郭をなぞる。冷たい指先の感触に、思わず目を細めた。

「それが、勝手に毒を飲むなんてね」

「……私には、そんなもの効きませんから」

「知っているよ。それでも、絶対じゃない。事実、君は今毒のせいで弱っている」


返そうとした言葉が、喉元で消えた。
表情の浮かばかないアルケインの顔を、思わず見つめる。



「……君だって所詮人間だろう」



アルケインの声に、微かに、懇願するような響きが混じっていたから。


この位何ともないです。
例え死んだとしても、それ位、何でもないんです。
私にとって、閣下が全てなんですから。
あなたの為に死ねるなら、それが幸せなんですから。

伝えたい言葉は沢山ある。でも、何一つ、上手く形に出来なかった。



「……僕は、君が死ぬことを許していない」


死んでしまうときには、誰の意志も関係ない。
それを誰よりも知っている筈なのに、そんな、馬鹿みたいなことを言って。
目の前にいるこの人が、酷く痛ましいものに思えた。(しねない、ひと)ずっと、きっとこれからも、悠久の時を生きていく人。それは、私の命が幾つあっても足りない程の、永い時間。


「……閣下、」


あなたは、ただ、寂しいだけなんですね。

言葉の代わりに、私も手を伸ばす。虚を突かれたように動きを止めるアルケインの頬を撫でて、微笑した。


「私は、閣下のものですから」

この短い命が果てるまでは、ずっと。


「閣下の為にどんな毒を飲もうと、決して死にません。命尽きるまで、閣下のお側にいます」

ずっと肩に食い込んでいた手が、ふっと力を失った。
アルケインが、何も言わずに私を見た。一度何かを言おうとするように口を開いて、結局何も言わずに黙り込む。やがて、ぽつりと小さく呟いた。

「どっちにしろ僕は死なないんだから、毒味なんてする必要はなかっただろう」

「死ななくても、毒は苦しいです」

「君だって、それは変わらない」

「それよりも、閣下に毒を飲ませる方が辛いです」

「……そんなの、僕が嫌なんだ」

駄々をこねるような物言いに、小さく笑う。アルケインは私から手を離すと、一歩分後ろに下がった。私も壁から立ち上がって姿勢を正し、改めてアルケインと向き合う。

「閣下」

「……」

「心配をおかけし、申し訳ありません」

謝罪をして、頭を下げる。分かりにくいけど、この人は私の心配をしてくれていたんだ。その事実は、素直に、少しだけ嬉しい。

「……それなら、もう止めろ」

顔を上げると、アルケインが唇を引き結んで私を見ていた。いつものような飄々さも先程までの冷淡さもない、縋りつくような表情。(まるで、子どものようだ)馬鹿みたいに強くて、私よりもずっと永い時を生きてきた人なのに。

「そろそろ終わりますから、もう少しだけお待ちください。私の自己満足だとでも思って」

「許可しないと言っているだろう」

「あなたの為に、何かをしていたいんです」

分かっている。
こんなの、ただの自己満足。ただの我が儘だ。

でもその瞬間は、あなたの為に生きていられる。
私なんかを心配して、私なんかの為に怒ってくれるあなたの為に。


だから、




「お許しください、閣下」



あなただけの為に、生きることを。





あなたの為の

(……それじゃあ、僕も一緒に毒見しよう。どうせ死にはしないんだ)
(それ、毒見の意味がないんですが)











誕生日はログアウトしました。
アルケイン将軍おめでとうございます。
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