※学パロ注意





どうして女の子という生き物は大胆な癖に妙な所で臆病になるのだろう。担任でもない、一日に一度の授業でしか会わないような先生に勉強を聞きに行くという名目でわざわざ会いに行く気力はあるというのに、彼女と大した繋がりもない私に対して「やっぱり緊張するからついてきて?」、なんて。計算された上目遣いに、どこか間延びした喋り方。可愛げの欠片もない私には絶対に真似できない行動だと、冷めた頭で理解した事を覚えている。彼女の行為の根底には、誰かに愛され守られる事への確信があるのだろう。確かに彼女は、他人の庇護欲を掻き立てるには十分なだけの可愛げを持ち合わせている。それこそ、私を引き立て役に使うのも当然かもしれないと思えてしまう程。

そんな彼女は今、私の一歩前で先生の解説を大人しく聞いている。と言っても視線は幾度も先生の顔に注がれ、何をしにここへ来ているのか分かったものではないが。
なんとなく聞き耳を立ててみれば、その解説は基本的な内容であることを考慮しても、順序の良い分かりやすいものだった。思考の重心を自分から彼女と先生へ、内部から外部へとずらした途端、ふと周囲に漂う薬品の匂いを再認識する。化学準備室と銘打たれたこの空間は無秩序な静謐さで満ちていて、それがどこか心地良く思えた。掠れた薬品の匂いに浸りながら、彼女の向こう側、自分のデスクに座って解説を口にしている男へと意識を移す。
僅かに擦れた低い声、色素の薄い癖のある髪、目立たないが整った顔立ち。浦原先生といえば女子生徒からかなりの支持を得ている、所謂「かっこいい」先生の一人だ。無論、女子生徒が先生に向けるその類の賛辞は、芸能人に向ける安易なものと同じである場合が殆んどだ。しかし、目尻を下げるような笑い方や着古した白衣、軽いようで冷静さを欠かない立ち振舞いは、充分その無責任な賛辞に相応しいもののように思えた。

解説が終わったらしく、声が止むのと同時に彼女が高く感嘆の声を上げた。案外早く終わったものだと思いながら、何気なく先生を見遣る。瞬間、彼女の背中越しに先生と目が合った。
冷たくも暖かくもない眼光に、一瞬、呼吸を忘れそうになった。

「あー、ねぇ、先生!」

それも束の間。突然の大声に、心臓が大きく飛び跳ねた。先生も視線を彼女に戻し、小さく首を傾げる。

「どうしました?」

「問題集の方にも分かんない問題あるの忘れてた!ちょっと持ってきても良いですか?」

「ええ、構いませんよ」

「やったぁ、先生ありがとっ!」

花の咲いたように笑って彼女が言った。そのまま身を翻し、私なんて忘れたように外へ駆けて行く。ああ、置いていかれた。準備室を出ていった彼女をしばらく目で追い掛けてから、視線を前に戻す。何故か、また先生と目が合った。
一拍置いて、先生が口を開く。

「君も、何か質問があるんですか?」

それが私に向けられたものだと気付くのに、更に一拍掛かった。

「いえ、特には」

「でしょうね、君は賢いから」

何気ない口振りなのに、どことなく刺を感じる物言いだった。返事をしないでいる私に、先生が浅い笑いを浮かべる。

「あ、さっきの子が馬鹿だって言っている訳じゃないっすよ?」

「……そうですか」

きっと嘘だろう。敢えて追及する気も起きずに黙っていると、先生が頬杖を突いて適当な視線をこちらに向けてくる。なんとなく居心地の悪い気分になりながら、彼女が帰ってくるのが早くも待ち遠しくなってきた。

「それにしても、教科書見れば分かる事をわざわざ聞きにくるなんて勉強熱心ですねぇ」

まるで感心しているような口振りで、先生がふと言った。独り言にも近いそれは聞き流すべきなのか迷ったが、そっと口を開く。

「先生は、」

「はい」

「彼女が何で来てるのか、分かってますよね?」

「勉強の質問の為に、でしょう」

それ以外に何があるんだと言わんばかりに即答された。ああ、なんて白々しいんだ。きっとこの人は分かっている。彼女の意図も、私が先生の言葉を彼女に伝えはしないということも。心臓を腐食される感覚に、セーターの袖を強く握り締める。


「苗字さん」


不意に、名前を呼ばれた。私の薄暗い感情を見抜いたかのように、浦原先生が口元に笑みを浮かべる。



「君、僕のことが嫌いでしょ?」



どくり、と心臓が波打った。咄嗟に口を開くが、何も言葉が出てこない。私の様子を見て、先生が軽い調子で首を竦めた。

「否定はしないんですね」

「違、」

「大丈夫ですよ。一応教師っすから、生徒にどう思われているか位分かります」

何が大丈夫なんだ。大した係わりもない癖に理解者面をするな。喉元まで出掛かった罵倒を、すんでの所で呑み込む。(違う、)


「嫌いなんかじゃない、です」

代わりに絞り出せたのは、それだけの弱々しい言葉だった。表情の変わらない目が、立ち竦む私をじっと眺める。逸らされない視線が、酷く居心地悪かった。

「そうですか」

分かっているのかいないのか分からない口調で、先生が短く言った。重ねるように、浅い笑いが耳に届く。

「僕は君のこと、結構好きですけどね」

ざわりとした感覚が背筋を走った。反射的に、逃げ出すように目を伏せる。伸ばしかけの爪が、握り締めた拍子に掌に突き刺さった。


「……それは」


何のつもり、なんですか。


「ありがとう、ございます」

口から出たのは、薄っぺらな感謝だった。返ってきたのも薄い笑顔で、更にその真意が見えなくなる。

この人と向き合うのは苦手だ。思考回路がさっぱり見えなくて、まるで、中身の見えない箱のようだから。その中に手を伸ばすのが酷く気持ち悪くて、それなのに、いつの間にか、このまま手を引きちぎられても構わないんじゃないかと思っている自分にふと気づくのだ。
まるで、平衡感覚が無くなっていくような。その薄い色をした目で見られるだけで、何が正しいのか、何が本当の自分の気持ちなのか、全部分からなくなる。彼女のように好意を示すことは愚か、完璧に嫌うこともできないまま、不安定な位置を、ふらふらと。


す、と先生が私から目を逸らした。私を見ないその瞳は、まるで温度も感情も全てどこかに忘れてしまっているように見えた。遠くから廊下を蹴る音が聞こえてくる。ああ、彼女が帰ってきたのだろう。私はただそれを待っていた筈なのに、なぜだか、心臓に宿る重苦しさが増したような気がした。





融解
(密やかに、蝕まれゆく)

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