何だろう、この状況。
02
いつもは遠くから見ていた、そして今実際に座っているベンチは、塗装は剥がれ鉄は錆びて酷くみすぼらしい状態だった。赤茶色になった錆をなんとなく眺めていると、視界の中にふらりと茶色の猫が入ってきた。条件反射で首筋を撫でる。足元に擦り寄りながら、猫は満足そうに喉を鳴らした。
「猫、可愛いですよね」
穏やかな声。顔を上がると、私の隣に座っている男も私と同じように猫を眺めていた。一瞬何と言葉を返すか迷って、とりあえず頷くだけにしておく。
男も特に言葉を続けることもなく、顔にかかっている髪を無造作に払った。優しげなグリーンの瞳と、微かに浮き出た頬骨、それに整った顔立ちが露わになった。凝視しそうになるのを堪えて(だって本当にかっこいい)、私も猫に視線を戻す。
何で私、謎のお兄さんと一緒にベンチでくつろいでいるんだろう。勝手に公園に入り込んだことを怒られるんじゃないかと本気で危惧したというのに。いや、現実にならなくて良かったけど。
やっぱり少し気になって、横目で盗み見る。みすぼらしく見える格好に騙されて、この人がこんなにかっこいいだなんて気付かなかった。なんとなく隣で黙っているのも勿体無いように思えて、勇気を出して声をかけてみる。
「えっと、よくここにいますよね?」
「はい、少し前からお世話になっています。……マズいですかね?」
「私は知らないけど……まあ、ここの道を使ってる人とかほとんどいませんし、良いんじゃないんでしょうか」
「それは安心しました」
そう言って、お兄さんは静かに微笑んだ。柔らかな物腰に、自然とこちらの緊張も解れてくる。
きっとこのお兄さんは良い人だ。確かな証拠はないけど、そんな気がする。
「……その、私はいつもこの道使ってるんで、たまにお兄さんのこと見えてたんです。勝手に入ってすいませんでした」
「や、謝らないでください。僕の家という訳でもありませんから」
そうは言っても、他人の空間に無断に立ち入ったことは事実だ。しかも好奇心からだし。ちょっと申し訳なく思いながらお兄さんの方を見ると、穏やかな笑顔と目が合った。
「今日からは猫好き仲間ですね。よろしくお願いします」
猫好き仲間って。
どこか気の抜けた言葉のチョイスに、思わず笑いがこみ上げてくる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
お兄さんの名前は、若王子貴文というらしい。凄い名前だ。それなのに名前負けしていない容姿って更に凄い。
名前が判明したなら、ちゃんと若王子さんとでも呼ぶべきなんだろうか。気になって聞いてみたら、悩む素振りを見せた後に「今まで呼ばれたことがないので、お兄さんの方が良いです」とちょっと嬉しそうに言われた。その発言だけピックアップしたら通報されかねない。
そんな自己紹介にも満たない会話をしている間に、元々高くもなかった太陽が更に沈んできた。二人分の影がベンチの足元から伸びる。
「……や、暗くなってきましたね」
それに気付いたのか、お兄さんがふと口を開く。
「大分日も長くなってきたし、まだまだ明るいですよ」
「それでも、そろそろ帰った方が良い。お家の方が心配しますよ」
別に、帰りが日暮れ後になったくらいで心配されることもないんだけど。でも言い返すのもおかしい気がして、大人しくその言葉に従うことにした。(ああ、でも、もうちょっと話していたいような気がする)なんだろう、ちょっとだけ勿体無い。
鞄を掴んで立ち上がり、一瞬迷ってから口を開く。
「あの、お兄さん」
「どうかしましたか?」
「また来ても良いですか?」
私の言葉に、驚いたようにお兄さんが目を見開いた。もう来ないと思っていたのか、そんな風に断りを入れられると思っていなかったのか。分からないけど、お兄さんはすぐ穏やかな笑みを浮かべた。
「勿論です。ヤキブタも待っていると思います」
「……焼き豚?」
「あ、この猫の名前です」
「……」
何で豚。
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111106