名前はよく嘔吐する。
ここ暫くの間で、鍛練の際名前に我の相手をさせることが増えていた。無論、その腕は他の駒よりも辛うじて見られるという程度ではあったが。それでも、ここまで婆娑羅を扱える者は貴重だ。
名前は目に何の感情も浮かべずに剣を振るう。我に叩きのめされても、声も上げず、泣き言も漏らさず、淡々と立ち上がる。そして剣を振りかざした時、いきなりそれを取り落とし、口許を抑えて鍛練場を飛び出していく。
仕方なしにその後を追えば、名前は暗い地面に踞り、背中を揺らして胃の中のものを戻している。その喉から漏れる異音と、吐瀉物が地面を叩く音。しばらくそれが続いた後に、胃酸の鼻を突くような胃酸の臭いの中、吐くものがなくなった名前は暫し咳き込む。「如何にした」我がそう問えば、名前は咳の合間、細い息をしながらも我を見返す。「何でも、ありません」その眼には、薄く張った水。口許を拭って、今一度、名前は咳を溢す。


そのようなことが起きるのは、我との鍛練の時に限ったことではなかった。他の兵士に混じり剣を振るっている際でも、相手に模擬刀を振り下ろす際など、唐突にそれは起きるらしい。食が細いのも相成り、元々痩せたその体躯は更に肉を落とし、肌の色は何処ぞの石田をも想起させるものとなってきている。
その理由など、考えるまでもない。






「名前」


踞るそれに声をかける。名前は視線を持ち上げ、しかし、すぐに嘔吐感が込み上げて来たのだろう、直ぐに口を抑える。


「……もとなりさま。すぐに戻ります、ので」
「あの賊共は、そなたにとって大切であると言うのか」


名前は分かりやすく瞠目した。気を緩めた名前の口の端から、吐瀉物が僅かに垂れ落ちた。名前は地面に目を落とし、乱暴に口許を拭う。「そうかもしれません」やがて、そう淡々と呟いた。


「あの人たちは、私を必要としてくれたから」





人は誰しもが大局を巡る駒だ。それは我も同じこと。我が知略に沿ってそれらを動かす瞬間、駒には駒としての役割が生まれる。それが捨て駒としての役割であろうが、何の支障もあるまい。代わりなど幾らでもいる。役割の無き生を続けられる人間というのは滅多に存在しないのだから。
名前も、それに耐えられない人間であった。ただ、それだけのこと。







襖の向こうから声がする。入れ、と声をかけると、ゆっくりと襖が開かれる。白い顔をした名前が、相も変わらぬ無表情で我を見た。


「お呼びだと聞いたのですが」
「名前。そなたは甘味を好むか」


一拍の、沈黙。「……甘味?」初めて知った言葉のように、名前が呟いた。その響きに、聞くだけ無駄であったことを悟る。


「早く入らぬか」


我の言葉に、名前がどこか戸惑いを浮かべながらも我の向かいに敷かれた座布団の上に座する。名前がちらりと見た卓の上には、器に乗せられた白い饅頭の山。何処ぞの配下より贈られた代物だ。そして横には、二人分の茶。


「食べよ」
「……いただきます」


我が一つ手に取れば、名前もそれに倣う。まじまじと手の中の饅頭を見つめ、ちらりと我の方を見る。そして、一口かぶりついた。
ゆっくりと咀嚼する名前の目が、少しずつ見開かれていく。呑み込んで、また一口。普段物を余り食べぬ上、吐き癖がついているからであろう。それは緩慢な動きながらも、普段は感じられぬ活力に満ちていた。
顔を上げた名前の目は、常時とは違い輝きに満ちていた。


「とてもおいしいです」
「そうか」
「こんなにおいしいものがあるんですね」


知りませんでした。そう言って名前は微かに、ほんの微かに笑う。







名前を縛るもの。それは下らぬ過去への憧憬とそれに纏わる後悔だ。ならば、それを上書きしてやれば良い。我の駒として充分な働きをするのに必要と言うのであれば、居場所など幾らでもくれてやろう。


「元就様は優しい方ですね」


茶を飲む我に、能天気に名前がそう口にした。




20130828






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