私には何もありません。元就様が与えてくれたものだけが、私の全てでした。


気づいたとき、私は暗く汚い水溜まりに立っていました。身に纏っていた着物は水を含み異様に重く、手にした剣の刀身は黒くくすんでいました。周りには動かぬ男共が転がっており、鉄のような、酷く嫌な臭いが立ち込めていたのを覚えています。
後から聞いた話ですが、其処は悪質な賊の根城だったらしいです。それによる被害は相当なものとなっており、元就様自らが討伐に来たのだと。しかし、元就様たちが着いたとき、既に賊は居なくなっており、代わりに私が居たのです。



お前は誰だ、何故そのようなことをした。初めて会う方々にそう問われた私に答える言葉はありませんでした。名前も出自もどうして其処にいたのかも賊を殺した記憶も何もかもがなかったからです。分からない、そう素直に応えれば、一番後ろに立っていた方が冷たい表情でじぃと私を見据えました。部下であろう人が私に手出ししようとするのを指先の動きだけで止め、凛と口を開きました。


「貴様には名もなく、役割もないと言うか」


ひとつ頷くと、その方は目を細めて私を見下ろします。


「さすれば好都合。貴様は今日より我の駒となれ」


近くにいた方々が驚いたようにその方を見ますが、冷たい視線を浴びせられて直ぐに視線を落とします。私はただ呆けてその方を見ていました。唐突な言葉に、どうすれば良いのか迷います。ですが、迷うも何も、判断する尺度は私の中にはありません。
何も持たぬ身だった私は、与えられるまま、唯はいと答えました。






自らのものより先に元就様の名を知ったのは、そのすぐあとのこと。





がらんどうだった私の中には、元就様が与えてくれるものばかりが積み重なってゆきました。元就様という名前、元就様の駒という役目。私は婆娑羅というものを扱えるらしく、扱える者よりは役に立つが使えるものの中では底辺と言える程の力だと元就様は言いました。その言い方はとても冷たいもので、かなしいとはこういうことか、とふと思いました。
そして、名前。呼ぶときに不便だと元就様が書物の一文からそれを与えてくれました。胸が僅かに熱を持つような感覚、それがうれしいということであると気づいたのは、つい最近のことです。








元就様の駒として私は戦場へとゆきます。剣で肉を裂くを感触は、不思議と手に馴染みました。そう言うと、元就様はいつもの無表情の上に不快さを浮かべます。


「気に障りましたか」
「だとしたらどうすると言うのだ」
「ごめんなさい」


元就様は何も言わず、ふいと私から視線を外しました。


「元就様」
「何だ」
「捨てないでください」


無言。暫くして、「自惚れるな。そなたは元より捨て駒よ」と言葉が返って来ました。その通りだと思いました。








「ぬしが毛利のお気に入りか」戦場で出会ったそのひとはそう言いました。ふわふわと浮かぶ台座とその人の恰好は朱く、私の身体についた赤よりずっと綺麗な赤だと思いました。その人は私のことも、元就様のことも知っているようでした。


「おきにいり、」
「そう。オキニイリよ」
「さあ」
「ふむ、ではぬしの方は毛利を好いているのか」


突然の言葉に、私は言葉を失いました。そうすると、その朱い人は引きつった様な笑い声を上げました。何でこんなに楽しそうなんだろうと思っていると、ふと、脳裏に誰かの笑い声が響きました。野太い、この人のものでも、もちろん元就様のものでもない声が。







崩れ落ちるように、あとは簡単な話で。





戦が終わりました。私はふらふらと生きた人のいない戦場の跡を歩きます。行動に意味なんてありません。辺りにごろごろと人が転がっています。戦の最中には気にならない鉄の臭いが、腐ったような臭いに混じって鼻孔に突き刺さります。「元就様」誰もいない場所に向かって、そう呟いてみます。先日、本物の元就様にいちいち下らぬことを我に言うな、と怒られてしまったので、誰もいない場所に対して話し続けます。「私は、あの賊の一人だったみたいです」思いだした記憶をゆっくりと辿りながら、無為な呟きを続けます。「元々は捨て子だったらしいですが、ばさらの力を見出されたらしくて。言われたようにしてたら褒めてくれて、それが嬉しくて。多分、私はあの人たちのこと、好きだったんだと思います」名前も、居場所も、役割も。あそこには、確かにありました。「でも、あの日元就様達が来るって分かって。退路はもう塞がらなくて、どうにもならなくて、そのとき、私を囮にすることを思いついたらしくて」××を残せば時間稼ぎくらいにはなるだろう、と、誰かが私の名を呼びました。私にも、それがどういう意味なのか分かりました。
死にたくないと、思いました。



「だから、」


居場所を


「皆を」


役割を、



「この手で」


名前を。



「わたしが、」





壊したんです。






そう言おうとした瞬間、後ろから頭を叩かれました。振り返ル前に、もう一発。容赦ない力に、ちかちかと視界の端の光が飛びました。今度こそ振り返ると、元就様が立っていてとても驚きました。それが顔に表れてしまったのでしょうか。不快そうに元就様が眉間に皺を寄せました。


「その崩れた顔を止めよ」
「すいません、驚いて」
「……そなたは驚くと泣くというのか」


そう言われて初めて私は自分が泣いていることに気付きました。涙なんていつぶりに流したでしょうか。泣いたことなんてあったでしょうか。目元を拭った指が濡れていても、他人事のようにしか思えません。


「……元就様は、いつから聞いていたのですか」
「いつからでもよかろう」


元就様がそう言うならそうなんでしょう。


「その、前のこと、思い出しました」
「だから何だ」
「思い出したことは言えと、元就様が」
「もうよいわ。存外下らぬ過去であったからな」


全部聞いていたらしいです。下らぬ過去、そうなんでしょうか。きっとそうなんでしょう。ぼうと元就様を見ていると、冷たい目のまま見下されます。それでも何を言うべきか分からずにいれば、元就様が不意に私の名前を呼びました。
昔呼ばれていた名前ではなく、元就様が与えてくれた名前を。


「そなたの役目を言ってみろ」
「元就様の駒、です」
「その通り。痴れ者のそなたがそれ以外を考える必要などない」


それは。
言葉の意味を考える前に、元就様が言葉を続けます。


「駒は駒としての役目を全うせよ。それ以外のことなど必要あるまい」


必要ない。そう、自分でも呟いてみます。瞬間、じんわりと心臓が熱を持ち、また涙がこぼれ落ちました。「っ、」ひゅうと喉から細い息が漏れて、鬱陶しげに私を見る元就様に、なぜか、笑いたくなりました。覚えたことのない感情、また、元就様が与えてくれたもの。


本当に。
私には、この役目が、元就様だけがいれば、それで良いのだと。

そう、思いました。


「朱い人の言う通り、かもしれません」
「朱い人?」
「私が、元就様を好きだと」


私の言葉に、元就様は声を失ったように黙ってしまいました。どうしたのですか、そう聞く前にくるりと踵を返されてしまいます。「あ、」立ち去る背中を追いかけます。誰かの腕を蹴り飛ばしてしまった気がしましたが、それよりも追いかけることが大事でした。他でもない、元就様の背中を。



うれしいという、元就様のくれた感情のまま。







20130828






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