猿飛は模範的なクラスメイトだ。面倒見が良くて頭が良くて運動ができて成績も良い。常に人好きのする笑顔を浮かべた彼は、楽しい冗談と細やかな気遣いを持ち合わせ、高校生にしては人間が出来過ぎている程に良い奴だ。そう、猿飛は良い奴。誰も口に出さすともそれは皆の共通認識で、私もそう漠然と考えていて。
「名前ちゃんって偉そうな勘違いするタイプだよねぇ」私の胸中を見透かしたかのように、猿飛はそう爽やかに吐き捨てた。




























「猿飛は私のことが嫌いなの」
「嫌いだよ。名前ちゃんの顔見るたびに吐き気がする」


























放課後の教室には夕焼けの似合う青春がある、そんな憧れを漠然と抱いていたこともあったような気がする。無論そんなものは大抵創作の産物であることは理解していたけれど、だからといってこんな現実を望んでいた訳では決してなかっただろう。
今日は数月に一度回ってくる日直の当番で、そうじゃなかったら学校が終わった瞬間教室から逃げ出していた。それは勿論日誌の空欄を機械的に埋めている私をにこにこにこにこ笑いながら凝視している猿飛から逃げるためで、いつもだったら、もう逃げ出しているはずなのに。「嫌いなら近寄らなきゃ良いと思うけど」残りの空欄の量を見る。まだまだ書き終わりそうもない。「そっちが何か言いたげだから、俺様こうやって話しかけてるんだけど?」つまりこれを埋め終わるまでは顔を上げなくて良いということだ。それまでに猿飛が飽きてくれることをひたすらに祈りながら、猿飛に突っ込まれないギリギリの遅さでペンを動かす。猿飛と目を合わせる瞬間を、少しでも先延ばしする為に。「別に、言いたいこととかないから」猿飛は確実に何かがおかしい。それに気づいたのはつい最近で、気づいたときにはもう遅くて。皆に好かれるイイコは中身が歪んでいるだとかそんなありふれたお話の実証だとでも言うのか、いやこれはそんな単純な話ではないだろう。猿飛が私にぶつけてきているのは鬱憤でも鬱屈でもなく、異様に粘度が高いだけのただの悪意だ。「名前ちゃん、吐くならもっと上手な嘘にした方が良いよ」もしもの話、猿飛がただの孤独で哀れなイイコだったら掛ける言葉もあったのかもしれない。実際、前までは何かあった筈なのだ。猿飛は良い奴だ、高校生とは思えないほどに完成された人だ。常に笑顔で感情を晒さない人間がどうやって自分の感情を処理しているのか、対岸の猫の死体に対する哀れみにも似たものを猿飛に抱いていたのかもしれない。もしもこの男が素直に笑えたら、きっともっと世界は生きやすかろうに、なんて。
「ほらその顔」猿飛くんが呟く。「無責任な同情とか、本当気持ち悪いよね」決して口に出すことのなかった、そんな“もしも”はどこにも存在しない。


































(猿飛)
(ん、どうかした?)
(……あー、ごめん、やっぱ何でもない)


































最後の空欄、今日の一言に適当な文字を埋める。「……もう、ほっといてくれないかな。私のこと」書ききってしまった。最悪だ、そうしたらもう顔を上げるしかやることが残っていないじゃないか。「何か気に障ったのなら謝るから。もう関わらないから。見もしないから「そういうのじゃないんだよ」私を遮る声はいつも通りで、淡々としていて、ぞくり、背筋を冷たいものが走り抜ける。不意に彼が手を伸ばし、私の顎に手を掛けた。彼の長く固い指が無理矢理私の顔を持ち上げた拍子に手からシャーペンが転がり落ちたが、硬質な音に猿飛は反応すらしない。片手で私を上向かせながら頬杖をついた猿飛の目は、息を呑む程に据わっていた。感情、心、そういうものが欠落した色。人を殺す目というのがあるのなら、もしかしたらこんなものなのかもしれないと。「名前ちゃん。本当に言いたいのは、そんなことじゃないよね」彼が爪を立て、頬に鈍い痛みが走る。短い息が洩れたのが聞こえたのか、ようやく猿飛は小さく笑んだ。「言ってみなよ。俺様、ちゃーんと聞いてあげるからさ」「何を、」「分かってるんじゃないの?」分からない。分かりたくもない。この男に私の声なんて届かない。喉から吐息が零れ、形を成す。「……ごめん」何の意味もないと分かっていながら、喉が言葉を絞り出す。猿飛は、何を言わない。全てはただの自己満足、自己陶酔、結局、そうだったのだろう。言葉が届くと一瞬でも夢描いた私の罪だ。猿飛は気づいていたのだろう。私の浅ましさ、愚かさに。喉が震え、ひとつ、壊れたように音を鳴らした。


























ごめん。






























そう呟いた名前ちゃんの頬を、静かに、一筋の涙が溢れ落ちた。
彼女が俺の前で涙を見せたのは確かこれが初めてで、表情だけは欠片も変えないその泣き方が少しだけ面白かった。指の腹で名前ちゃんの頬を一撫でして、手を放す。直ぐに逃げ出すかと思ったけれど、彼女はただ俯いて乱暴に手の甲で目許を拭った。相変わらず、何の表情も浮かべずに。


「名前ちゃん」


問い掛けながら、彼女が取り落としたペンを拾う。よく見かけるメーカーの、大量生産された内の一本。地味で無難で、ありふれたもの。


「名前ちゃん、俺のこと嫌いになった?」
「……分からない」


その言葉に、視線をペンから動かす。自分で聞きながら、まさか返事が返ってくるとは思っていなかった。


「分かんない?」
「……」


喉が動き、吐息だけが口から洩れる。彼女は何を考えているのだろう。俺に、どんな感情を向けているのだろう。



「嫌って良いよ」



俺の言葉に、今度こそ返事はない。


「俺のこと、嫌って良いよ。それが楽だって、名前ちゃんは分かってるよね」
「……私は」
「人でなしとでもクソ野郎とでも何とでも言って逃げれば?止めないよ。名前ちゃんの言う通り、もう関わりもしない。それで良いんじゃない?」


誰かを追い詰めるのなんて簡単で、掬い上げるのと逆の言葉を舌先に乗せるだけで良い。名前ちゃん程単純であれば尚更だ。その手が強張るのを見ると、奇妙な充足感が心臓の近くに滲んだ。

名前ちゃんは浅はかで、無責任で、スレている癖に純真で、酷く脆くて。

指に挟んだペンを手慰みにくるくると回す。頬を滑り落ちた涙に、窓から差し込む夕焼けが映り込んだ。


「なあ、どうする?」


一瞬、名前ちゃんと視線が合う。薄い膜の張った黒い瞳。少し力を入れたら壊れそうなそれが、静かに揺れた。
この子は分かっていない。名前ちゃんから欲しいものは同情なんかではない。俺が抱いている感情の名前に意味なんてない。嫌悪だろうと、恋情だろうと、求めるのはただ一つだけ。その心が抱いた安い正義感を砕かれ、ただ傷つき、苦しみ、傷んだ表情を見せてくれれば良いのだ。その瞬間だけはどうしてか俺を満たしてくれるから。それだけで、良いのだ。
何でもない。そう言ってあの時呑み込まれた言葉を勝手に夢想しながら、手にしたペンを机の上に落とす。軽い音を立てて転がるそれに、ほんの少しだけ笑んでみせた。







20140704






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