目の前に転がるそれに、涙は出なかった。夜闇に紛れてしまったかのように、上手く理解が及んでいなかったのかもしれない。
私の目から溢れなくとも代わりのように血が止めどなく出ていることだし、私が泣いたところでそれが収まる訳もない。膝をついたまま、その力なき手を握る。指先から伝わる仄かな体温は、少しずつ薄くなっていた。

不意に、月明かりの影が私の手元に闇を落とした。



「貴女は泣かないのですね」


顔を上げる。月を背にして、光秀さまがそこに立っていた。目が遭った瞬間、口角をゆっくりと持ち上げる。光秀さまが両手に持った鎌を振れば、ぴしゃりと音を立てて血が跳ねた。私の顔にも、手にも。温く、ぬるりとした感触。


「夫を殺され、嘆かないのですか」
「……どうして、殺したのですか。何か、手落ちでも」
「いえ。貴女と同じく彼は有能でした、とてもね。ですが、そんなことはどうでも良いのですよ」


どうでも良い、そう評された夫の亡骸へ視線を落とす。怒りは沸いてこなかった。悲しみも、嘆きも。目の前の骸など存在しないかのように、心の臓は酷く穏やかに音を刻む。ただ、光秀さまはこういうお方であったと思い出すだけ。夫に嫁ぐまでは女中としてこの方に仕えていたのだから、それくらいは私にも分かる。ああ、随分と前のことなのに、光秀さまは私のことを覚えていたのか。
今となっては、何の意味もないことだけれど。






「私はね、人になりたいのですよ」





ぽつり、光秀さまが呟く。





「そして、彼は実に人らしかった」



夫は穏やかな人だった。義に厚く、優しい。そんな、他に言葉が見つからない程に良い人だった。
それが、光秀さまの思う人なのだろうか。



「きっと、それは貴女がいたからなのでしょう」
「そのようなことは、」
「愛する対象が、自らの帰りを待つ相手がいる。穏やかで、慎みやかな日常……」


譫言のように言葉を紡ぎ続ける光秀さまは、私のことなんて見てはいない。私は何か言うのを諦め、夫に目を落とした。その骸から体温は既に失せ、握った手は少しずつ重みを増している。広がる血溜まりは私の膝元にまで届き、簡素な着物を朱に染め上げていて。


この人は死んだのだと。
他人事のような言葉が、脳髄に反響する。




「ねえ、名前さん」




囁くように、光秀さまは私の名前を呼んだ。その顔はもう笑っていない。ただ、懇願するように、嘆くように、その端正な顔を歪めて。いや、もしかしたら笑っていたのかもしれない。私には分からない、けれど。






「私にも、その愛をくれませんか」





見ているだけで、心が抉られるほど。
その顔は、酷くいたましくて。






亡骸を見る。

確かに愛していた、私の夫。







「……お言葉ですが、それはなりません」
「何故、」
「夫に捧げた愛は、相手があの方だったからこそのものです。光秀さまを同じようにお慕いすることは、私にはできません」




頭垂れたまま、亡骸と指を絡めたまま、言葉を続ける。光秀さまは何も言わない。永遠にも感じられる静寂に、黙って目を伏せる。光秀さまが刈りやすいように、首を、さらけ出して。




「――そうですか」




不意に。
そう、掠れた声が聞こえた。

私が何か言う前に、かさり、地面を踏む音。目を上げれば、一瞬だけ光秀さまと目が遭う。彼は、小さく笑ったように見えた。



ただ、それだけ。


ふらり、光秀さまが踵を返す。そのままゆっくりと遠ざかって行く背中に、かける声なんてない。そのようなもの、私にある筈がない。





あの痛ましい表情が、脳裏を過る。




「……っ、」



嘘でも、あなたを愛しますと言うべきだったのか。夫に捧げた穏やかな恋を、光秀さまにも向けられると。

そんなこと、出来る筈がない。光秀さまを夫と同じように愛するなど、私には無理なのだ。
ああ、いっそ、この首を落としてくれれば良かったのに。思い出とした筈の初恋を蘇らす必要など、なかった。光秀さまが必要としたのは、私が光秀さまに抱いた感情ではない。私では光秀さまを救えない。幸せにできない。人になんて、できない。それならば、あなたに仕えられた幸福を胸に抱いて死すだけで、私は幸せだったというのに。





もう動かない夫の手を握ったまま、少しだけ、泣いた。







20130928






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