俺の家は所謂放任主義で、仕事にかかりきりの父親の顔を最後にちゃんと見たのは随分前な気がする。母親はとっくの昔に出ていった。そのお陰で手に入れたのは、適度に冷めた人生観、人並みくらいの家事の能力といったところか。そんな境遇を今更恨む気はない。親を恋しがるような年齢でもないし、余計な干渉のない環境はむしろ好ましいくらいだ。そうして培った生活力に助けられてる面が、今は確実にある訳だし。


最早来馴れたスーパーで、店名のロゴが入った籠を片手に取る。隣を歩く名字ちゃんに目を向けると、彼女はどこか遠くを見ているようだった。そう見てるだけで、実際は壁に貼られた安売りのチラシでも見ているだけかもしれない。それでも、その意識をこちらに向けてみたくて声をかける。


「名字ちゃん、食べたいものある?」
「……んー、冷やしうどん食べたいかも」
「うどん?俺様、もっと難しいものだってつくっちゃうよ」
「猿飛くんは違うものが良い?」
「そういう訳じゃないけど」
「じゃあ、それは今度のお楽しみで」
「そっか。じゃあわかめ買ってこう」
「納豆も」
「お、良いねー」


まるで同棲しているような会話だ、そう他人事のように思う。勿論高校生の俺と名字ちゃんが同棲なんてしている訳がない。ただ、綺麗な部屋に独り暮らしをしている名字ちゃんは生活力が皆無で、小汚ない部屋で段々独り暮らしのような生活になってきている俺はそれなりに料理ができて、俺と名字ちゃんは恋人同士で。自然とご飯をつくってあげる機会が多くなっている、ただそれだけのこと。勿論毎日名字ちゃんの家に行くという訳にもいかないから、一人でも大丈夫なように簡単な料理は教えてみたりもしている。
でも、俺がご飯をつくると、名字ちゃんが嬉しそうにするから。普段あまり表情を変えない彼女が、「おいしい」と小さく笑うから。我ながら単純だと思うけれど、まあ、彼女の家にしょっちゅう通いつめられるというだけでも充分なことだ。そう考えることにしよう。


そんなことを考えながら買い物をし、二人で夕方の帰り道を歩く。なんとなく名字ちゃんの手を握ってみれば、俺より幾分も小さい彼女は不思議そうに俺を見上げた。


「猿飛くん、どうしたの」
「何でもないよ」
「そっか」
「そうなの」







名字ちゃんの部屋は極端に生活感がない。二階建て式のベッドの下、そのスペースに置かれた机の上には整然と立てられた教科書とノート。小さな卓袱台は、食事のときにしか使われている形跡がない。
白い壁に木目の床。それだけに囲われた名字ちゃんの生活に初めて触れたとき、酷く空虚だと感じたのを覚えている。それを放っておくことができなくて、俺は名字ちゃんの家に通い詰めているのかもしれない。いやまあ俺も健康的な男子高校生、一人暮らしの彼女の部屋へ行くというイベントにあれやそれを期待していないと言ったら嘘になるけど。でも、彼女といると、そういったことが妙に馬鹿らしくなってくるのだ。


名字ちゃんは常にどことなく無気力で、周りの流れに無関心で。儚げという言葉を使うのはこそばゆいが、なんとなく、ふと目を離した途端に消えてしまいそうだとか馬鹿なことを考えてしまうから。キスをしたり押し倒したりするよりも、閉ざされた名字ちゃんの生活に、少しずつ俺を混ぜ込んでいきたくなる。



「猿飛くん、何か手伝う?」棚を開ければ、俺が買い足した必要最低限にもうちょっと足したような調味料。「んー、じゃあ野菜切ってくれる?」振り返れば、名字ちゃんが俺の為に買ってくれた青色のクッション。「分かった」包丁を取り出す名字ちゃんの髪は、俺の選んだ黄緑のシュシュで括られている。




綺麗な白い部屋に、少しずつ、俺の痕が染みてゆくようで。





「……んー……」






望んだ通りの筈なのに。
なぜか、嫌悪が胸を過る。





「ねえ、名字ちゃん」
「何?」
「俺様さ、重かったりする?」
「……えっと、何が?」
「……あはは」


やっぱ何でもない。そう言えば名字ちゃんは不思議がるように俺を見たが、結局何も言わないまま包丁を動かす。さくり、キャベツの切れる音がした。





俺は名字ちゃんが好きで、その笑顔を見るのが好きで。
けれど、それ以上に面倒な感情を向けてしまっている自覚はある。面倒というか不要というか、きっと必要のないそれを。


例えば、この部屋。少しずつ俺の色が混じってきたここは元々空虚なものだったけれど、名字ちゃんが帰る場所として確かに完成していた。何もないようでありながら、彼女が彼女である為に必要なもので満たされているのだ。淡水で満たされた水槽を泳ぐ魚のように。学校にいるときよりも、二人で帰り道を歩いているときよりも。この部屋にいる名字ちゃんは、ずっと名字ちゃんらしい。
それが具体的にどういうことなのかと言われても説明に困るが、とにかく、俺はどこまでも異分子なのだ。白い壁にどれだけ痕を残した所で、俺はこの中に溶け込めない。ただ、綺麗に磨かれた水槽に指紋を残しているのと同じこと。


本当、面倒な感情を抱いてしまったものだ。俺様何やってんのかな、女の子と付き合うのが初めてって訳でもないだろうにさ。心のなかで苦笑を漏らしながら、冷凍のうどんを鍋に入れる。俺と名字ちゃんの間に会話はない。ただ、水が沸騰する音、野菜が切られる音だけが部屋に響く。





「猿飛くん」





その沈黙を破ったのは、名字ちゃんの声。



「どうしたの?」
「……えっと、」




名字ちゃんは珍しく口ごもり、そして、





「私、猿飛くんのことが好きだよ」





そんなことを言うものだから、一瞬、冗談抜きで心臓が止まるかと思った。

手を止めて隣の名字ちゃんを見れば、その真っ直ぐな瞳と目が遭った。冗談を言っている雰囲気ではない。元々そんな冗談を言う子じゃないし。




それじゃあ、今のは。




「……ちょっ、と、いきなりどうしたの?」
「なんとなく、そう思ったから」


そうとだけ言うと、名字ちゃんは俯いてしまった。垂れ下がった黒髪の隙間から見える頬には、少しだけ赤みが差している。それが、言葉に困るくらい可愛くて。敵わないなぁ、そんな風に思う。


まさか名字ちゃんが俺の脳内を見透かした訳ではないだろう。その言葉には作為も裏もなく、本当に「なんとなく思った」から言っただけで。
だからこそ、名字ちゃんの言葉は確かに俺を拾い上げる。ここにいて良いのだと、名字ちゃんを満たすものの中にいて良いのだと思わせてくれる。




本当に、敵わない。





「……うん、ありがと」



俺も、名字ちゃんのこと大好きだよ。

そう言えば、名字ちゃんは小さく笑みを溢した。







20130923






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