やってしまった。

最近なんとなくだるい気はしていたんだ。
一昨日からは頭重感や寒気もしていたけど、身体は強い方だし、数日経てばすぐ本調子に戻るだろうと思っていた。
まさか、こんな風に風邪でダウンしてしまう事になるとは。

「……はぁ」

誰もいないリビングで、小さな溜息を吐く。
学校を休むなんて、どれだけ久しぶりの事だろう。小学校以来かもしれない。

昼過ぎまで部屋でゆっくりしていたからか、、もう随分体調は良くなっている。
熱も下がってきた今、これ以上布団でぐだぐだしている訳にはいかない。
何を隠そう、明日までに生徒会に提出しなければならない資料作成がまだ終わっていないのだ。

よし、と呟いてテーブルに開いた書類へ目を向ける。
先日あった話し合いの内容ををまとめるだけの、単調で正直面倒くさい作業。
それでも、投げ出そうとは思わない。
一応これでも学級委員だし、それ以上に。

頭に浮かんだその続きに、思わず顔が熱くなる。
ああもう、早くやってしまおう。

雑念を頭から追い払おうと、シャーペンを握る。
とりあえず簡単に下書きして、その後清書。
せっかく集中しやすいようにリビングまで来たんだから、さっさとやってしまおう。

シャーペンが紙を引っかく音が、誰もいない部屋に響く。
まとめ始めると意外に手間がかかり、あっという間に時計の針が進んでいってしまう。
いつの間にか、窓から夕日の差し込む時間になっていた。
ようやくまとめが一通り終わって一息つくと、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。

「あ、はーい」

椅子から立ち上がりながら、玄関に向かって返事をする。
人が来ると困るから一応着替えてはいたけど、こんな時間に誰だろう。
駆け足気味で玄関へ向かい、ドアの覗き穴から来客を確認する。


確認して、思考が停止した。


「……え」


どうして、この人が。
頭の中が真っ白になったが、もう一度チャイムが鳴ってはっとする。とりあえず、開けないと。
扉を開けて、そこに立っている人を自分の肉眼で見る。
もしかしたら幻覚だったんじゃないかと思ったが、そんな事はなかった。

「や、苗字さん。寝ていなくて大丈夫なの?」


――間違えようにはなかったけれど、やはり間違っていない。


ドアの向こうに立っていたのは、私の担任である若王子先生だった。






「ど、どうして先生が……」

「お見舞いに来ました。具合、どうですか?」

「えっと、もうかなり良くなって……その、ここじゃなんですし、良ければ上がってください」

慌てて下がり、来客用スリッパを並べる。

「やや、ありがとうございます。お邪魔しちゃいますね」

そう言って靴を脱ぐ先生を見ていると、驚きで固まっていた頭が段々と動き始め、同時に嬉しさがこみ上げてきた。
学校を休んだというのに、この人に会えるだなんて思っていなかった。
……でも、先生というのはたかが一生徒が一日学校を休んだだけで家庭訪問するものだっただろうか。
別に、嬉しいから良いんだけれど。

スリッパを履いた先生が、あ、と気付いたように声を漏らした。片手に持っていたビニール袋を差し出して、笑顔を浮かべる。

「これ、差し入れです。良かったらどうぞ」

「あ、ありがとうございます!」

手渡された袋には、美味しそうな林檎がいくつか入っていた。……学校帰りみたいだし、買って来てくれたのだろう、か。
どうして、こんな事までしてくれるんだろうか。
変な考えが頭に浮かびそうになり、慌てて先生に言う。

「えっと、じゃあどうぞ。散らかってますが……」

先生をリビングに案内して、必死に思考を整理していく。
先生は凄く生徒思いな人だから、こうやってお見舞いに来るのに特別な理由なんてないだろう。平常心。落ち着け私。
机の上に広げっぱなしだった資料をざっと隅にまとめて、入り口に一番近い椅子を引く。

「座ってください。今、お茶淹れます」

「や、お気遣いなく。先生、そんなに長居するつもりはありませんから。……ご両親は?」

「まだ帰ってないです。共働きなんで」

一瞬迷ったが、先生に促されてお茶を淹れないまま向かいの席に座る。
先生が私の家にリビングが座っている。何この状況。
私が言葉に詰まっていると、先生はふと視線を横の方へずらした。
その先には、私が隅にどかした資料の束。

「これ、生徒会に提出する資料?」

「はい。あ、期限でしたら絶対間に合います!だから……」


「――今、書いてたの?」


唐突に。
少しだけ、先生の声の温度が下がったように感じた。
心なしか、資料へ向けられた目線も冷たい。

もしかして、前日まで提出資料を片付けていなかった事に呆れられただろうか。
その可能性に、すっと心臓が冷たくなる感覚がする。

そんなのは、絶対に嫌だ。


「……はい、申し訳ないありません。
 でも、後少しなんで絶対間に合います。だから」

「苗字さん」


先生の視線が私に移され、続きの言葉が喉元で消え失せる。
私が黙ったのを確認して、先生が静かに話し始めた。

「委員長さんとしても苗字さん自身としても、君がいつも頑張っていること、先生は知っています。それは本当に素晴らしいことだと思う」

思ってもいなかった褒め言葉に、返事をするべきか一瞬悩む。
私が黙っているのをどう捉えたのかは分からないが、先生はそのまま話を続けた。


「でもね、忘れないでほしいんです。君が体調を壊すまで無理をしたら、心配する人がいるんだってこと。……今日くらいゆっくり休むこと。良いですね?」


「……はい」


返事をして、小さく頷く。
先生はいつも通りの優しい微笑みを浮かべて、不意に私へ右手を伸ばしてきた。
突然のことに驚いて、反射的に目を瞑る。


ぽん、と頭に手を置かれる感覚。
驚いて目を開けると、少しだけ身を乗り出した先生と目が合った。


呆然としている間に私の頭を一度だけ撫でて、先生は目を細めた。

「はい、よく出来ました」

先生が右手を戻してから、ようやく何があったか理解が追いついてくる。

――先生に、頭を撫でられた。

そう自覚した途端、一気に顔が熱くなるのが分かった。

「な、な何ですかいきなり!」

「よく出来ましたとお疲れさまの意味を込めてみました。
 ダメでしたか?」

「いや、駄目とかじゃなくて。頭をなで、なでるとか、その、おかしいですから!」

「そうでしょうか……」

先生が少し残念そうに呟た。おかしい。絶対おかしい。
多分赤くなっている顔を隠そうと俯く。
どうして、いきなりこんな心臓に悪いことをするんだろう。確信犯か。
私の心中知ってか知らずか、先生は小さく笑い声を上げた。

「ともかく、今日はゆっくり休んでください。
 もう後は写すだけみたいですし、先生がやっておきますから」

「え、それは大丈夫です!
 明日の朝にでもやれば終わる量なので、この位自分で片付けますから!」

「ダメですよ、苗字さん。
 こういうとき位、先生を頼りにしてください。
 ……ちょっと頼りないかもしれませんけど」

――そんな事、ある訳がない。
先生が付け足した言葉に、はっとなって首を振る。

「そ、そんな事ないです!」

「それは良かった。
 それでは、あまり長居するのも良くないでしょうからそろそろお暇しますね」

そう言って、私が何か言う前に資料を鞄にしまい込んだ。
今更止められなくて、項垂れて謝罪をする。

「……ごめんなさい」

「謝ったりしなくて大丈夫です。
 先生、篠原さんにはいつも助けられていますから」

はい、と短く返事をする。

別に、仕事を片付けようとしたのは責任感なんかが一番の理由ではない。
それもあるけれど、一番はもっと大事な理由。


私はただ、この人に迷惑をかけて、失望されくなかっただけだ。


「それじゃあ、僕はこれで。お邪魔しました」

「あ、あの、先生」

立ち上がった先生に思わず声をかけた。
先生がこちらへと視線を向ける。

何か、何か言わないと。


「……今日は、ゆっくり休みます。明日からはもうこんな事にならないように、体調管理はしっかりします、から」


黙って私の言葉を聞いていた先生が、ゆっくりと優しい笑顔を浮かべた。
鞄を持って、椅子から完全に立ち上がる。

「さすが、先生自慢の委員長さんです。これからも、頼りにしちゃいますね」

突然の言葉に驚いたが、すぐに我に返って頷いた。

「……はい!」








先生を玄関まで見送り、リビングまで戻ってきた。
椅子に座り込み、さっきまで先生のいた空間をなんとなく眺める。

――頼りにするって、言った。
先生の言葉を、頭の中でもう一回思い出す。

「……やばい、嬉しい」

怪しいくらい口元がにやけているのが自分でも分かったが、抑えられない。
わざわざお見舞いに来てくれただけでも心臓が飛び出しそうになるくらい嬉しかったのに、また熱が上がってきそうだ。
そんな熱も悪くないけれど、それでは全然意味がない。


今日はゆっくり休まないと。
ゆっくり休んで、明日からまたしっかり学校に行こう。


そして明日、また先生に会いに行こう。









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