前を歩く背中。
私よりずっと大きな歩幅で、私に気を遣うことなんて絶対しないままに進んでいく。

「佐伯」

返事はない。
私は思わず笑みをこぼして、急ぎ足で背中を追いかけ続けた。

「佐伯くーん、無視しないでよー」

「うるさい」

「うわ、ひどっ」

それでも返事をしてくれたことが嬉しくて、また声を上げて笑う。
佐伯は絶対に振り返らないから、傍から見れば今の私はまだの変人だろう。

「ねーねー佐伯」

「……何だよ」

「あの子とはうまく行ってる?」

返事はない。
ああ、面倒なくらい意地っ張りな奴。

「聞くまでもないよね。仲良いじゃん、最近」

急ぎ足で歩きながら、言葉を返さない佐伯に話しかけ続ける。

「佐伯が素で接せる人なんて超レア物だし、あの子も受け入れてくれてる感じじゃん。良かったねー、佐伯の春の香りにお姉さん嬉しい。うん」

お前誰だよ、とか突っ込まれそうだ。
佐伯の容赦ない返しを予想した瞬間、唐突に目の前の背中が立ち止まった。
ぶつかりそうになって、私も慌てて足を止まる。

顔を上げると、佐伯が上半身だけ振り向いていた。
眉間に皺を寄せて、普段よりも更に機嫌悪そうに。

「うるさいって言ってるだろ」

吐き出された言葉も、冗談で言っている響きではなかった。
いつもと違う様子に、思わず言葉を失う。
もしかして、あの子と喧嘩でもしているのだろうか。
そんな様子、どちらも全くなかったけど。

「……何か、気分悪くさせちゃった感じ?ごめん」

私の言葉に、佐伯が何か言いたげに口を開く。
しかし、逡巡するように目を伏せて前を向いた。
心なしか先ほどよりも速いペースで歩き始めた佐伯の背中を、また必死に追いかける。

「ごめんってば佐伯、喧嘩とかしたなら話聞く」

「そんなんじゃない」

「じゃあ、どうしたの?」

「お前には関係ないだろ」

「ないかもだけど。でも、佐伯が荒れてるのは気になるから」

大股で歩いてもでも追いかけるのが辛くて、いつの間にか駆け足になっていた。
遠ざかりそうになる背中へ、必死に話かける。

佐伯の視線の先に気付けたのは、単なる偶然だった。
あの子が気になるのかと聞けば、絶対に首を縦に振らずに顔を顰めるようなひねくれ者。
それでも、最終的には気になっているということを小声で教えてくれた。

何でも溜め込んで押さえ込んで、弱みを絶対に見せない奴だから。
ほんの少しでも本心を覗けた気がして、本当に嬉しかったんだ。

「お節介かもしれないけど、佐伯の力になりたいんだよ」

「……だから、何なんだよ」

小さな声で。
搾り出すように、佐伯が呟いた。

必死で動かしていた足が、無意識のうちに止まる。
少し離れた場所で、佐伯も立ち止まった。

「何って」

「力になるとか言うなよ。何にも分かってない癖に」

喉元まで出掛かっていた言葉が消える。
佐伯は確実に、私に対して怒りを向けたいた。

「どうしてお前がそういう事言うんだよ。おかしいだろ」

「……いきなり、何言ってるの」

何を言っているのかさっぱり分からない。
私が、佐伯に何かしてしまったんだろうか。

「お前がそういう事ばっかり言うから、どうにもならなくなってるんじゃないか」

「だから、何のこと?分からないよ。どうしていきなりそんなこと言うの」

「いきなりじゃない!ずっと、俺は……」

唐突に言葉を止める。
暫しの静寂が降りて、やがて、佐伯が小声で言った。

「……悪い、何でもない」

「……丸見えな嘘つかないで。私が何か悪いんなら直すし、愚痴とかあるんだったら聞きたい」

「本当、何でもないから」

無理に作ったような明るい口調で、佐伯がこちらを見ないままに言った。
知っている。
そんな喋り方をするとき、佐伯はいつも何かを押さえ込んで、何かを我慢しているんだって。

「……何でもなくないでしょ。私に対して怒ってたじゃん」

「悪かったって。少し寝不足気味で、苛々してただけだ。ごめんな、当たっちゃって」

こいつは、どうしてこんなに嘘をつくのが下手なんだろう。
何でも無さそうな口調で、本人はちゃんと誤魔化しているつもりなのかもしれないけど。

私は一瞬迷って、小さく息を吐いた。

「……なら、もう聞かない」

これ以上聞いたとしても、本心を話すつもりはないみたいだし。

佐伯は笑みを零して、ああ、と返事をする。
安心したような、諦めたような響きに聞こえた。
どれも、気のせいなのかもしれないけど。

「じゃあ俺、先行くから。早く行って店開けないと」

「途中まで一緒に行っちゃ駄目?」

一瞬、返事に迷うように佐伯が黙り込む。

「……悪い。今は1人が良い。頭、冷やしたいから」

示された、柔い拒絶。
私は小さく笑って、見えていないとは分かっていても頷いた。

「そっか。じゃあ、また明日」

「ああ、じゃあな」

そう言って、佐伯が歩き出す。
少しずつペースを速めて行って、やがてその大きな歩幅で駆け出した。



佐伯の背中が見えなくなるまで、なぜだか私はその場から動けずにいた。








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