夕日が窓から差し込んで、廊下を夕焼けの色に染めていた。
並んだ教室の中にはどこも人気がない。
この時間ともなれば、まだ残っているのは部活動をしている生徒達か残って自習をしている生徒達ぐらいだろう。
そんな事を思いながら足を進めていると、ふと、一つの教室の前で足が止まった。
教室の奥、窓際に女子制服を着た後姿。
平均的な身長、女子高生にはありふれたセミロングの髪。
それでも、その後姿を見間違えることはない。
教室の引き戸を開けて、中に入る。
扉を引く音は聞こえていただろうけど、彼女からは何の反応もなかった。
窓際に近づくと、どうやら、彼女が窓枠に腕を置いて外を眺めているらしい事が分かった。
真似をするように、開け放たれていた隣の窓に肘を置く。
頬杖を付いて横を向くと、予想通りの人物が窓から顔を出して外を眺めていた。
表情の無い横顔と、右手に握られたパックのいちご牛乳。
「苗字さん、何をやっているんですか?」
僕の問いに、一拍置いて彼女が口を開いた。
「ヤケ酒ってます」
冗談を言うでもない、淡々とした口調。
強ち嘘でもないのだろう。
消えかけた涙の跡が、きっとその証拠だ。
「そうなんですか。もしも良かったら、先生に話を聞かせてもらませんか?」
「今は楽しい話を出来る気分じゃないですね」
冗談めいた言葉だが、その横顔には一片の笑顔も浮かんでいなかった。
「楽しい話よりも、君が話したい事を聞きたいです」
「……別に、今は暗い話くらいしかないんですけど」
「構いません。先生には一緒に悩むこと位しか出来ませんけど」
「先生まで一緒に悩む必要はないでしょ」
「そんな事ないです。1人で悩むより、2人で悩む方がずっと良い」
逡巡するように、彼女が言葉を止める。
本当はただ、彼女をここまで追い詰めている原因を知りたいだけだ。
いつも気丈に振舞っている彼女を追い詰めた、何か。
(そんな事を伝えたら、君はどんな表情をするんだろう)
彼女は一口いちご牛乳を飲んで、やがて口を開いた。
「……知り合いに、ろくでなしがいまして」
小さな声が、風に流されて僕の方へ流れてくる。
「悪い人じゃないんです。でも、人と関わるのが最高に下手なんですよ。下手な演技で優しいフリして女の子泣かせる馬鹿野郎です」
あのろくでなし。
その声は言葉に反して寂しそうで、それでいて優しい響きを孕んでいた。
そう、いつだって。
彼女はいつだって、誰にだって優しい。
「その人が私に対しても嘘吐いてるっていうのは分かっていましたよ。でも、頑張ればどうにか出来るんじゃないかって思っちゃって。なんていうか、ちゃんとあの人と仲良くなったら、そういう演技みたいな態度も止めてくれるんじゃないかなーと」
言葉を止めて、視線を俯かせる。
垂れ下がった髪のせいで、彼女の表情は見えなくなった。
でも、多分、彼女は笑っている。
虚勢を張って、何でもない事のように。
「……結局、今はろくでなしに良い様に遊ばれた駄目女になっちゃってる訳です。だからこう、ヤケ酒をね」
片手に持ったいちご牛乳を、おどけた仕草で持ち上げた。
普通に悲しんでみせるよりもずっと痛々しくて、彼女がしている無理を隠すには逆効果だった。
彼女がそんなに無理をする理由なんて、どこにもないだろう。
その「あの人」というのが彼女の好意を無碍にして、それを彼女は今悲しんでいる。
彼女が無理をして笑う理由なんて、どこにもない。
「……君は、その人の事を好きだったんですか?」
自分の口から零れ落ちた言葉に、自分自身で驚いた。
そんな事を言うつもりじゃなかった。
彼女にかけるべき言葉がそんなものじゃないという事くらい、僕にもよく分かっている。
それ程までに、僕は彼女を傷つけた相手の事を気にしているのだろうか。
彼女も僕の問いかけに驚いたように、初めてこちらへ顔を向けた。
そして、ええ、と小さな声で呟く。
「……好き、ですよ。恋愛感情とかじゃないけど。
その人とちゃんと仲良くしたいって、今でも思ってます」
そう言い切った彼女に、嘘や躊躇いの影はなかった。
真っ直ぐな瞳に、かけようとした言葉が喉元で消える。
代わりに手を伸ばして、彼女の頭に出来るだけ優しく触れた。
僕の手の下で、彼女が虚を突かれたように目を見開いた。
「君は優しい人ですね」
「……それはないと思います」
「そんな事ないです。傷ついても相手と真っ直ぐに向き合おうとし続けるのは、並大抵の事じゃない」
「別に、私がしたいってだけですから」
こんなの自業自得です、そう言った彼女は、どこか不機嫌そうに目を伏せた。
何か怒らせるような事を言ってしまっただろうか。
分からないまま彼女の髪を一度だけ撫で、伸ばした手を引っ込めた。
彼女は優しい人だ。
こうやって話していれば、その優しさが真っ直ぐに伝わってくる。
その優しさ故に、いつも、彼女自身が傷ついてしまうというのに。
「……じゃあ、苗字さん。一つだけ、先生と約束してくれませんか?」
「約束、ですか」
「そうです。
誰かに何かをしたいと思ったとき、君が辛い思いをするまで無理をしないって」
僕を見上げる彼女の瞳が、ほんの僅かに揺れ動いた。
彼女が何かを言う前に言葉を続ける。
「それでも辛くなっちゃったり、何か吐き出したくなったりしたくなったときには、すぐに僕のことを呼んでください」
「……先生を?」
「はい。ヤケ酒は一人でするより、二人でする方がずっと効果的なんですよ」
笑みを浮かべて、知っていましたか?と付け足す。
呆気にとられたように、彼女は僕の顔を見た。
「……先生は私なんかよりずっと優しいけど、時々ずるいですよね」
「僕が?」
二重の意味での問いかけに、彼女が頷く。
「先生みたいなのに甘やかされたら、私みたいな奴は簡単に誘惑に負けちゃいますから。超困ります」
彼女は何かを誤魔化すように笑いながら、本当困るーとふざけた口調で呟いた。
一瞬意味が分からず、彼女の言葉を考えながら問い直す。
「……それはつまり、先生を頼っちゃいたうから困るっていうことですか?」
彼女の笑顔が停止した。
唖然としたように僕の顔を見て、呆れたように溜息を吐いた。
「……本当、何でそういうこと普通に言うのかな……」
「やや、マズかったですか?」
「マズいですよ。さっきから何なんですか先生、私にドッキリでもしかけてるんですか」
そう不満げに言って、彼女は窓枠から身を起こした。
気がつけば、大分日も沈んできていた。
今日のヤケ酒はもう終わりらしい。僕も彼女に倣って立ち上がった。
「ていうか先生、もしかしてお仕事中じゃなかったんですか?」
「や、先生は大丈夫です。後は戸締りを確認するだけですので」
「仕事中じゃん……」
確かにそうだ。
彼女の言葉に、苦笑を返すしかない。
「……えーと、私はそろそろ帰りますね。話聞いてくれてありがとうございました」
「いえいえ。それで、どうでしょう」
「どうって」
「先生との約束。してくれますか?」
虚を突かれたように見開かれた瞳が、数回瞬きを繰り返した。
ほんの少しだけ、罪悪感のようなものが自分の中に芽生える。
自分が本当に望んでことなんて分かりきっている。
悩みを聞くなんて大義名分の元、ただ、彼女の近くにいたいだけだ。
彼女の無償の優しさとは違う、利己的な思惑を孕んだ言葉。
彼女が何かを感じ取って僕を拒否したとしても、何の不思議もない。
「……約束しちゃって、良いんですか?」
それでも彼女は。
ふざけたような口調で誤魔化しながら、僕にまで真っ直ぐな優しさを伝えてくる。
(それに頼り切っているのは、僕の方だ)
「ええ、勿論です」
「私、約束破らないですよ。後悔しても知りませんよ」
「やや、どうして僕が後悔するんですか?」
「だから……ああ、もう良いや」
語尾を濁して、彼女が僕を見る。
その視線はどこまでも真っ直ぐで、なぜか少しだけ逸らしたいような気がした。
「約束、します」
そう言った彼女に。
僕は、いつものように笑いかけた。