どことなく古びた木製の扉。なんとなくその取っ手に触れる。力を込めてみたが、当たり前のようにびくともしなかった。小さくため息をついて、その扉から離れる。

絵本にでも出てきそうな、ステンドグラス造りの建物。この空間を切り取るように、背の高い木が周囲を取り囲んでいる。柔らかな風が、木々の葉を静かに揺らす音がした。


――学園の教会には、伝説がある。

いかにも女子高生が好みそうな、何の確証もない噂話。
かくいう私もそんな女子高生の一人な訳で、その話を聞いてからなんとなく心に引っ掛かったままでいた。
だってしょうがないだろう。誰だって重大な決心をする時には、背中を押してくれるような何かを心のどこかに求めてしまうんだ。それは占いだったり、おまじないだったり。それが伝説であって悪い理由なんてどこにもない。


(……まあ、)


私の為に、鍵は開かなかったみたいだけど。


心の中で呟くと、なぜか笑みが零れた。
今から私が為そうとしている事が成功する可能性は0に近い。そんな事は分かりきっているのに、なぜか心は晴れ晴れとしていた。


諦めている訳でも、自棄になっている訳でもない。

ただ、私は、


「名前」


教会から視線を外し、振り返る。
見慣れた仏頂面に、弛みそうになる頬を抑えて口を開いた。


「こんにちは、設楽先輩」

「ああ」

いつもと同じ無愛想な返事に、なんとなく安心した。何も変わらない、お洒落に着くずした制服に、愛想笑いなんて絶対浮かべない表情。いつもと違う所を上げるとすれば、胸に差した造花と根こそぎ取られたジャケットのボタンだろう。きっと女子生徒に全部取られたんだろうな。この人は人気だから。
先輩がこちらへ歩を進めるのに合わせて、かさりと軽い音が響く。どこか日本人離れした先輩の容姿と静謐な雰囲気のこの空間は、なんとなく様になっているように思えた。

「わざわざ来てくださってありがとうございます。もっとゆっくりでも大丈夫だったのに」

「あっちにいるとうるさい奴が多いんだよ。大体こういう時ばっかり話しかけてきて、一体何なんだって言うんだ」

「こういう時だからでしょう」

一旦言葉を切って、文句ありげな先輩に笑いかける。

「ご卒業、おめでとうございます」

「……ああ」

そこは素直に「ありがとう」くらい言ってくれれば良いのに。ああ、でも、そんなのは設楽先輩じゃないのかもしれない。それにこうやって少し居心地悪そうに視線を逸らすとき、先輩は照れているだけだから何にも問題はない。私はそれを知っていることだし。
もしかしたら、無意識の内に笑っていたのかもしれない。眉間に皺を寄せて、先輩が無愛想に言った。

「それで、わざわざ呼び出して何の用だ」

「……えっと、ですね」

「大した用じゃないのなら帰るぞ」

「あ、それは待ってください」

慌てて言って、小さく息を吸い込む。呼吸を落ち着かせてから、先輩と目を合わせた。
綺麗で真っ直ぐに私を射ぬく、先輩の瞳。

こうやって相対するのも、最後になってしまうんだろうか。


「あの、ですね」


――何から話そう。

明日の私が、どうか後悔しないように。


「……私、先輩と今まで仲良くして頂きながら、未だに難しい芸術の話は分からないんですけど」

「今更言うまでもないだろ、そんな事」

「でも、先輩のピアノが大好きだっていうのは分かるんです」

あまりにも唐突過ぎただろうか。先輩が、驚きに目を見開いた。それでも今更退く気はないから、勢いのまま続きを口にする。

「だから、先輩がピアノをまた真剣に始めるんだって聞いたとき、凄く嬉しかったです。先輩のピアノが沢山の人に聞かれて、沢山の人に好かれるのは、まあ、少し寂しい気もしますけど、やっぱり私も幸せですから」

「……」

「ずっと、私はピアニスト・設楽聖司のファンですよ」

「……いきなり、何が言いたいんだよ」

「予防線です」

「は?」

本当は、こんな事なんて考えたくもないけど。
もし今日を境に先輩と気まずくなってしまって、今まで通り喋ることが出来なくなってしまったら、絶対に私は後悔する。だから、予防線だ。今のうちに、先輩がまだ私と普通に接してくれているうちに、ちゃんと伝えておきたかった。


きっと今から私がすることは成功しない。下手をすれば先輩に嫌われるかもしれない。

でも、それだけの覚悟は決めたんだ。



「先輩、この教会の伝説ってご存知ですか?」

「……伝説って、あの王子と姫が再び、とかいう奴か?」

「それですね。あれって現代バージョンで解釈する人も結構いるんです。今日はそれに則ってみようかなあと思いまして」

「は?」

王子と、王子を待ち続ける姫なんて現代には存在しない。この学園にいるのは普通の高校生達だけだ。その手にかかれば、絵本みたいな伝説なんてたちまち身近なものに変換されてしまう。

王子と姫が結ばれる、その運命だけを切り取って。


「先輩がこの学校からいなくなる前に、どうしても伝えたいことがあるんです」


何かに気付いたのかもしれない。
先輩の目が、驚きに揺れる。


喉を通る空気が、いつもよりも冷たい。


酸素を吸い込んで、静かに、口を開く。




「私、先輩のことが、

「待て」


不意に先輩が口を開いた。

突然の事に、思わず言葉を失う。



「その先は言うな」



呆気にとられて、ただ先輩を見る。真っ直ぐで、どこか苛立ったような雰囲気を醸し出していて。(どういう、こと?)段々と、内臓が冷たいものに浸っていく感覚がした。

「……言うなって」

「決まってるだろ。良いか、そういうのはな」

「そんなに嫌だったんですか?」

先輩が言葉を止めた。時間の止まった頭の代わりに、口が勝手に言葉を紡ぎ始める。

「まさかここまで言ったのに、私が何を伝えようとしたか分からないなんて言いませんよね?」

「そのくらい分かる。だから」

「じゃあ何でそんなこと言うんですか。人がどれだけ覚悟決めて来てるか分かりますか?別にこっちは先輩はどうせ嫌がるなんて分かってましたよ」

「おい、人の話を」

「だけどちゃんと言うって決めて、見栄とかプライドとか全部投げうって来たんですよ?言うなって何?せめて最後まで言わせ」「人の話を聞け!!」



滅多に聞かない先輩の大声に、心臓が飛び跳ねた。
つかつかと歩み寄ってくる先輩を、黙って見つめる。

至近距離に立った先輩は、さっき以上に怒ったような顔をしていた。


「誰が嫌だなんて言った」

「……だって、先輩が言うなって」

「それは俺の言葉をお前が勝手に言おうとするからだ!」



え 、


呆気にとられた声は、形にならなかった。いつもより近い先輩の顔に、ほんの少し赤みが差していて。


「良いか、」



そこに続くであろう言葉を予想出来ない程、私だって馬鹿じゃない。

でも、それが、信じられなくて。





「お前が好きだ」



信じ、られなくて。




「……え、嘘?」




口から零れた言葉はどこまでも素直で、考え得る限り最悪のものだった。


はっと気付いた時にはもう遅く、先輩の表情がみるみる厳しいものになっていく。(違う違う違う違う!)言いたいのはそんなことじゃない。頭の中身がぐちゃぐちゃになって、縋るように先輩の袖を掴む。

「え、あの、本当に!?どっきりとかじゃなくて?」

「どうしてそうなるんだ!本気だよ、本気で何が悪い!?」

「だって、教会閉まったままだし、だからもう先輩と気まずくなっちゃうんじゃってばかり、」

「は?」

告白して振られて、それでなんとなく距離が出来てしまうなんてよくある話だ。そんな風になりたかった訳ではないけど、思いのすれ違いを認識した上で一緒にいてほしいだなんて過ぎた願いだろう。もしも先輩が私を敬遠するようになっても、文句は言えないって。


「馬鹿か、お前は」


呆れたような先輩の声を聞いて。そんなことばかり一気に考えていた頭が、不意に気付く。


まさか了承されるなんて、欠片も思っていなかったから。

だから今、こんなに、現実味がないんだ。


「……馬鹿、です」



想像とはかけ離れていた今を、うまく飲み込みきれない。驚きが消えなくて、信じられなくて、目を閉じたら全部夢に変わってしまうんじゃないかって怯えてしまう。
でも、握った先輩の袖の感触と、先輩の小さな笑顔から、これは夢じゃないんだと伝わってくる。


それは閉じたままの教会の扉より、ずっと力強く私に届いた。



ああ、もう、馬鹿で良いや。

こんなにも、幸せで溢れているんだから。





「……あ、やばい、泣きそう」

「はあ?何でだよ」

「なんか、嬉しすぎて」

「……お前、いつものつんけんした態度はどこ行った」

「つんけんなんてしてませんよ」

「してる」

「そうかなぁ」


呟いて、先輩を見上げてみる。どこか呆れたように先輩が私を見て、それがなんだかおかしかった。小さく笑って、ぱさりと寄りかかってみる。先輩が驚いたように硬直したのが直に伝わってきた。


「……っ、」


一拍置いて、もう自棄になったように抱き締められた。近い温もりに、心臓が今更早鐘を打ち始める。(ああ、近い)先輩が、こんなに。



満ち足りた感情が溢れて出て、本当に泣いてしまいそうだ。


顔を持ち上げて、そのまま先輩の首元に思い切り抱きついた。






「お……っ!」

「先輩」



今、この瞬間なら。


きっと、このくらいは許されるはず。






「大好き、です」








馬鹿みたいなです

伝説に頼らなくても、こんなに幸福になってしまえたんだから。






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