「あ、いたいた!」
突如聞こえた声に、一瞬緊張が走る。警戒しながら声の方へ視線を持ち上げたが、駆けてきた相手が誰なのか分かって思わず安堵の息を漏らした。この学校で唯一、取り繕うことなく言葉を交わせる相手。
体育着の裾をはためかせながら俺の元まできた名前が、浅くなった呼吸を整えて口を開く。
「やっと見つけたー……瑛くん、どこにもいなくて心配したんだよ」
「別に良いだろ。昼休みくらい、一人で休んでだって」
文化祭とか体育祭。そういうお祭りごとの日には、ただでさえうるさい奴らがいつにも増して騒がしさを増す。そういうのに朝からずっと笑顔を振りまいてやっていたんだ、少ない休みくらい一人で堪能しても許されるだろう。
俺の言いたいことが分かったらしく、複雑な声で「そうだけど」と名前が呟いた。そして、そのまま座っている俺の正面に回って視線の高さを合わせてくる。
「やっぱり、瑛くんは乗り気じゃない?」
「何が」
「体育祭」
「……言っただろ。こんなの、やりたい奴らだけやってれば良いって」
こんな行事に費やす体力は全部店に回したいんだ。運動部の筋肉バカ達だけでやっていれば良いのに、何で俺まで。
名前と一緒に店へ向かう道すがら、体育祭のことが話題に上ったときだって同じ言葉を返してた。名前だって、そんなことは今さら確認するまでもなく分かってる筈だ。
それなのに。
「そっか……そうだよね」
その表情は明らかに暗くなって、声まであからさまに残念そうになり。予想外の反応に内心たじろぐ。何だそれ、俺が何かしたみたいな言い方じゃないか。
「……何だよ」
「え?」
「何か、用があったんだろ」
決まりが悪くて思わず問い掛けると、名前は迷うように俯き、やがて口を開いた。
「二人三脚でペアの人が、怪我して走れなくなっちゃったんだって。それで代わりに出てくれる人を探してたんだけど、瑛くんが良かったら頼みたいなって思ってて」
「……は?」
「でも、そうだよね。ごめんね、邪魔しちゃって」
「いや待て、ちょっと待て」
惚けた表情で、立ち去ろうとした名前が動きを止めた。一人早合点している名前の言葉を反芻し、冷静さを装って整理していく。
「……つまり、お前は俺を誘いにきたのか?」
「え?うん、そうだよ」
「で、今諦めようとしてる」
「諦めようっていうか……まあ、うん」
「そうしたら、お前、相手はどうする気なんだよ」
「誰かに頼んでみるつもりだけど……」
素直に答えながらも、その顔にははっきりと困惑が浮かんでいる。どうやら、何も分かっていないらしい。
(……こいつ……)
数ある競技の中でも、二人三脚は男女ペアでの参加が基本のものだ。実際、こいつと出場する予定だった奴も男だった筈。
いや、俺だって名前が相当抜けている奴だってことはよく知ってる。知っているけど、普通人の目の前で「他の男を誘います」なんて宣言するか?しかも、よりによって二人三脚。二人三脚なんて言ったら、どうしたってペア同士密着する競技な訳で。
「お前、本当は計算してんじゃないのか?」
「え、何の話?」
「……何でもないよ」
いや、名前にそんな頭は無いだろう。誰に対しても馬鹿みたいに真っ直ぐで、素直な奴。
そういう所が、こいつの分かりにくい最大の長所でもあるんだろうけど。
「……気が変わった」
抜けてて、馬鹿で、何に対しても無自覚で。
ここでほっといたら、絶対にロクなことにならないだろう。例えば、違う誰かがその長所に気付く、とか。本当ろくでもない。(そんなの、分かっているのは俺だけで良いんだ)
「出てやるよ、二人三脚」
名前が一度瞬き、まじまじとこちらの方を見る。なんとなく気恥ずかしく思えて、視線から逃げるようにそっぽを向いた。
「……ほ、本当に?」
「何で嘘つかなきゃいけないんだよ」
「だって、出てくれるって思ってなかったから……」
「気が変わったんだ。嫌なら別に「ううん!全然そんなことない!」
唐突な大声に言葉を切る。無意識だったのか、名前もはっとしたように俺の顔を見て、すぐ照れたような笑顔を浮かべた。
「瑛くんが一緒に出てくれるなら、それが一番嬉しいよ」
どこまでも、呆れるくらいに真っ直ぐで。
邪気のない、柔らかな笑顔。
――ほんの、一瞬。
一瞬だけ、その表情に魅入ってしまった。
(……ああ、もう、)
計算でも策略でもなしに、どうしてこいつはそんなことを言えるんだ。
「……ほら、じゃあ、行くぞ」
目を合わせないまま立ち上がり、さっさと歩きだす。名前は虚を突かれたように立ち尽くしていたが、すぐに早足で隣に並んできた。
「え、ちょっと、歩くの早いよ」
「普通だ」
「普通じゃないよ!二人三脚のときは抑えてね?」
「分かってるよ。お前こそ、転んだりしたらチョップだからな」
「わ、分かってます!」
転ぶ気だったのか、お前。
焦ったような言い方が面白くて噴き出すと、始めは不本意そうに口を尖らせていた名前もつられたように小さく笑った。
これで良いんだ。
こいつの長所を知ってるのは、まだ、俺だけで良い。
俺の秘密を握ってるのが、世界でただ一人、名前だけなのと同じように。
調子に乗るだろうから、そんなことは絶対に言ってやらないけど。
「名前」
名前を呼びかける。
俺よりもずっと低い位置で、名前が俺を見上げてくる。
やっぱりこいつは馬鹿だ。二人三脚なら、普通はもっと身長が同じくらいの奴を誘うものだろう。本当にどうしようにもない馬鹿だ。
でも。
「俺たちがやるからには、絶対に勝つからな」
――これなら、体育祭だって悪くないかもしれない。
ふと、そう思った。
瑛主企画サイト「ひとやすみしない?」様に提出した話です。