扉を開けた途端、コーヒーの良い香りがふわりと漂ってくる。私が来たのに気付いて、テーブルの横に立っていた瑛くんが顔を上げた。

「お、ナイスタイミング。ちょうど淹れたところだ」

「やった。さすが瑛くん」

「はいはい。ほら、座れよ」

促されるままに椅子に座り、改めて瑛くん特製珊瑚礁ブレンドの香りを吸い込む。(ああ、すっごく幸せ!)向かいの席に座った瑛くんが、呆れたような、それでいて優しい笑顔を浮かべた。その穏やかな表情が大好きで、幸せな気持ちが更に確かなものになる。

「じゃあ、今日もお疲れさまでした」

「ああ、お疲れ」

仕事終わりの、いつもの挨拶。その後で、そっとコーヒーに口をつける。爽やかな苦味と酸味が口の中に広がって、一気に肩の力が抜けてきた。

「やっぱりこの時間は落ち着くなぁ」

「仕事終わりのこの一杯って、こういう感覚なのかもな」

「そんな言い方するとちょっとオジさんみたいだよ」

「はぁ?……いや、お前、それはないだろ」

「あははっ」

焦ったような反応に思わず笑うと、瑛くんは眉間に皺を寄せてそっぽを向いた。(ちょっと怒らせちゃったかな)もちろん、本気でオジさんなんて言った訳じゃない。今みたいに顔をしかめていたって、昔と変わらずかっこいい。ひょっとしたら、前よりもずっと。
(前、かぁ)

「……懐かしいな」

思わず呟くと、瑛くんが不思議そうに私を見た。

「懐かしい?」

「高校のときのこと」

「……オジさんの次は高校かよ」

「オジさんは冗談だよ。そういえば、あの頃はプリンスだったっけ」

あ、また眉間に皺。
ちょっと面白いから、コーヒーを一口飲んでプリンス時代の口調を真似してみる。

「やあ、君も今帰り?とかすっごくわざとらしい笑顔で言っちゃって」

「おい、今さらその話を引きずり出すな」

「キャーサエキクンーカッコイーみたいな感じの女の子に囲まれて……」

「それを言うならお前だって色んな男に手出してただろ!」

いきなりの言葉にコーヒーを吹き出しそうになって(手を出してたって何!?)、一瞬反応が遅れた。器官を落ち着かせて、すぐに反論に出る。

「出してないよ!普通に喋ってただけじゃん」

「いや出してた。お前はド天然な上に喋りながら相手に触りすぎだ」

「別に、普通のスキンシップだったよ?友達なんだから」

「お前の普通は普通じゃないんだよ。絶対に触りすぎだった」

「そんなこと言ったら、瑛くんだって隙あらば人の頭にチョップとか」

「それは手を出すの種類が違う」

「そ、そのほかだって腕とか組みたそうにしちゃったり手とか繋いできたり!」

「そんなのはお前にだけだ!」


「……え?」

「……あ」


瑛くんの頬に、さっと赤みが差した。(今、凄いこと言われちゃったような、気が)頭の中で反芻した途端、私の顔まで熱くなってくる。
なんとも言えない沈黙の甘さに、気恥ずかしさが込み上げてきた。瑛くんをこっそり伺えば、それは向こうも同じようで。まるで、本当に高校生に戻ったような雰囲気。

――ああ、こんなやり取り、よくやってたな。

喧嘩なようだけど喧嘩じゃない、信頼の上に成り立つ言い合い。懐かしさに小さく笑うと、目を逸らしていた瑛くんもつられたように吹き出した。結局、二人してくすくすと笑いあう。

「やっぱり楽しかったね、高校」

「さあな」

「……どうしてそういう言い方するのかなー」

「楽しいの前に色々あっただろ、俺の場合」

「まあ、そうだけど」

だからこその“王子様”だった訳だし。笑いも収まって素知らぬ顔でコーヒーを飲む瑛くんを見て、無意識のうちに視線が下を向いた。コーヒーの水面が、静かにさざめいている。

「……でも、さ」

ぽつり、と。そんな声が聞こえてきて、瑛くんの方を見る。仏頂面で視線を逸らしたまま、瑛くんは口を開いた。

「今から思えば、お前がいてくれたお陰で少しは楽しかった、と思う」

歯切れの悪い、聞き取りづらい声。
それでもはっきりと耳に届いて、思わず瑛くんを凝視する。少しの間黙り込んだあと、居心地が悪そうにこちらへ視線を動かしてきた。

「……何だよ」

ぶっきらぼうな言い方。高校のときから何も変わらないようだけど、今の私は、それが照れ隠しだって知っている。(何も変わってないみたい、だけど)

「ううん。ただ、あのときよりかっこよくなったなぁって」

いきなり瑛くんが噎せ返った。
派手な咳を数回したあと、恨めしそうな目をして私を睨んでくる。

「いきなり変なこと言うな、馬鹿!」

「だって本当だもん」

“王子様”だった瑛くんは、いつもどこか無理をしていた。笑顔の裏に本音を隠して、身を削るようにして気を張って。時々、見ているのが辛いくらいに。
でも、今は毎日楽しそうに、瑛くんにとって大切なこのお店を続けている。前よりもずっと余裕ができて、優しく笑う回数も増えて。 (瑛くんの幸せは、私にとっての幸せでもあるから)


「あのときも楽しかったけど、私は、今の瑛くんが一番好きだよ」


瑛くんが、驚いたように目を見開いた。突然すぎたかな。そんな風に思ったけど、瑛くんはふっと和らいだ表情を浮かべた。

「……俺も」

「なぁに?」

「俺も、今のお前が一番好きだ」

暖かな響きの言葉に、ありがとう、と笑って返す。瑛くんは照れたように目を伏せながらも、優しく微笑した。あの頃は見れなかった、安らいだ笑顔。


何気ない、暖かな優しさに包まれた日々。
疑う余地もないくらい、私たちは今幸せだ。






瑛主企画サイト「ひとやすみしない?」様に提出した話です。






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