徹夜明けの頭が、寝不足の興奮状態を超えて段々と重みを増してきた。
今日は久々の休みなんだから、早く帰って寝てしまおう。
最後の業務を終わらせようと、目の前の白い扉をノックする。
返事はない。最早当たり前だ。
「失礼します」
独り言のように呟いて、勝手に扉を開けた。
一歩踏み入れた瞬間足元の資料を踏みつけそうになり、小さく溜め息を吐く。
床に転がった資料や硝子瓶、その他よく分からないもの。
執務机も同じようなもので、一番の粗大ごみは長椅子の上に横たわっていた。
見れば、身を投げ出すようにして爆睡している。
「朝ですよ、局長」
一応声をかけてみたが、動きすらしない。
早々に諦めて帰りたくなったが、起こさないと職務怠慢になってしまう。
そろそろ移籍を考えたいけど、今はそうも言ってられない。
長椅子に歩み寄って膝をつく。
間近で見る寝顔は、いつもより少しだけ幼いように見えた。
窓から差し込んでくる光が、薄い色彩の前髪に反射している。
「局長」
呼びかけて、意外とがっしりとした肩に手を掛けた。
「起きてください、帰れないんで」
肩を揺らしながら声を掛け続ける。
反応はない。本当に生きているのだろうか。
「朝ですから。ほら、駄目男さん」
「……ん……」
「駄目男に反応しないでくださいよ」
私の声が聞こえているのかいないのか、少しだけ局長が身じろぎした。
ゆっくりとした動きで、肩を揺すっていた私の手首を掴んでくる。
手越しに伝わってくる、柔い体温。
それを振り払う間もなく、唐突に引き寄せられた。
バランスを崩して、倒れ込むように局長に凭れ掛かる。
同時に背中に手を回され、隊長の肩に顔を埋める形となった。
――ああ、またか。
そう呟いたつもりだったけれど、くぐもって声が上手く出ない。
私が起こそうとする度、寝ている局長はこうやって私を抱き寄せる。
一度目にされたときは時は、少し焦ってから腹を殴って脱出した。
二度目は呆れ半分のまますり抜けて頭を殴った。
そして、今日が三度目。
薬品の匂いが染みた隊長羽織、回された腕の感触。
伝わってくる温もりに、徹夜明けの頭が負けそうになる。
「……局長」
眠い。早く、起こさないと。
全身のだるさに、目を閉じて嘆息した。
上手く動けないのは、きっと寝不足のせいだ。
「寝惚けてるからって、こういう事するのは良くないですよ」
聞こえていないと分かっていても、小声で呟き続ける。
そうじゃないと、本当に眠気に負けてしまいそうで。
「……期待、しちゃうじゃないですか」
思わず零した言葉も、きっと寝不足のせいだ。
寝言みたいな言葉に、勿論返事はない。
――何をやってるんだか、私は。
自分の行動に呆れて、いい加減局長の腕の中から抜け出そうと身を捩る。しかし、全く抜け出せない。
何で爆睡している癖にこんな力が強いんだ。
また殴ってやろうか。そんな事を思った瞬間、近くにあった目蓋がすっと開いた。
間近で、ばっちり目が合う。
「名前、サン?」
「…………ええ、名前ですが」
局長の目が瞬いた。
腕による拘束は解かないまま、数秒の時間が過ぎる。
やがて、局長が呟いた。
「これって、何のご褒美ですかね?」
「放せ馬鹿局長」
腹を思い切り殴って無理やり脱出する。
何やら呻き声が聞こえたが、気にせずにさっさと立ち上がった。
長椅子の上で腹を押さえている局長を見下げ、深く溜息を吐いた。
「じゃあ、私帰ります。徹夜明けなんで」
「……お疲れ様っス……」
「局長は正しい場所で寝る癖をつけてください。それでは、失礼します」
軽く頭を下げて、さっさと背を向ける。
ああ、早く帰って早く寝よう。
そして、こんな駄目男のことは忘れて休日を過ごそう。
「あ、名前サン」
扉に手をかけた瞬間声をかけられ、動きが止まる。
振り返ると、局長が起き上がって私を見ていた。
目が合った途端、静かに笑みを浮かべる。
「僕は、期待してくれて大丈夫ですよ」
「……は、い?」
馬鹿みたいな声が、口から漏れる。
局長は一度大きく欠伸をして、またごろりと長椅子の上に横になった。寝るなよ。
いや、そうじゃない、今はそんな事じゃなくて。
期待しても良いって。
それって、もしかして。
「し、失礼します!」
声が裏返ったとか気にする余裕もなく、飛び出す勢いで部屋から逃げ出した。
扉を叩き閉め、ふらつく足のまま向かいの壁に倒れ込む。
「……嘘、でしょ……」
呟いた言葉には、誰の返事もなかった。