「…まじかよ」

そう呟いて、夏野は手に持った小さな紙をくしゃりと握り潰した。
黒板には「席替え」と書かれた大きな文字と、教卓には廃棄されたプリントの裏紙を使った、簡易的な籤引きの箱。夏野の紙に書かれていた数字は、教室の端を示していた。



九月の始め。夏野は窓際の席になった。
残暑はまだまだ厳しく、無表情のニュースキャスター曰くどうやらこの暑さは九月末まで続くらしい。太陽の光は容赦なく、秋の色も見せずにじりじりと焼きつくようなそれである。トンボの飛ぶ姿はなく、永遠に秋なんて来ないのではないだろうかと錯覚させるほどうるさい蝉の声。
そんな夏と寸分違いない状況の中での、日が差し込む窓辺の席。暑さが苦手な夏野としては、最悪な席に当たってしまった。元から外場村にいる人間は窓辺でも飄々としているが、外から来て暑さに慣れていない夏野はそうはいかない。新学期早々いやな目を見るものだと、思わず零れたため息は暑さに溶け込んだ。



「おーい!こっちこっち、パス、パース!」

普段なら絶対に授業中に余所見なんかしない。同じ教室には理解することを放棄して堂々と寝ている奴、寝ていることを悟られないようにポーズを取るのだが首がかくかくとよく落ちている奴、ノートの端に落書きする奴、それこそ窓の外を眺めてぼうっと呆けている奴。授業から逃避しようとする奴はこの少ない教室にもちらほら見受けられる。
しかし夏野は勿論そんな逃避などするわけもなく、先生冥利に尽きるような模範生徒である。誰かの悪戯で校庭で爆竹が破裂しようが、隣の女子の会話がやたらと耳に入ってこようが、集中力が途切れることは早々なかった。なのに今回は、爆竹よりも女子の声よりも小さいはずの、遠くに聞こえた声にふと校庭の方を見てしまった。
そこにはよく見知った顔の生徒が、この炎天下の中手を振りながらチームメイトにサッカーボールを催促していた。生まれながらに色素の薄い髪が太陽の光を受けてきらきらと光っている。全身から滲む柔和な雰囲気を持つ人間は、この村で夏野は一人しか知らない。武藤徹だ。
思わずじっと徹のことを見ていたことに気付いて、小さく頭を振った。こんなのは自分らしくない。そう思ってペンを取り、黒板に書かれた文字を走り書きする。そんな最中でも、耳に入ってくるのは校庭からの声。あんた、無駄に声出し過ぎだ。思わず喉元でくっと笑みが零れてしまう。
集中できない自分に嫌気が差して、ええいままよ、とシャーペンを投げ出した。



水曜日の三時間目と金曜日の二時間目。目立たないように校庭に目線をやれば、ふわふわとした髪が目に付く。以前校庭で徹を見つけてしまってからというもの、この時間の数学の授業は校庭を密かに眺めるのが習慣となっていた。
外場村の授業のレベルは低い。都会だと中学二年でやっていたようなことを、この外場の高校一年で習っている。だからと言って勿論それが授業を放棄する理由には成り得ないし、あってはいけないことだ。どんな授業でさえ、放り出すことは言語道断だ。だった。過去形である。
夏野の中でも、どうして徹を見ているだけのそれが習慣になるほどに染み付いているのかは不明だったが、他の授業では絶対しないこの授業だけのひと時は、結構楽しみでもあった。
あ、転んだ。くすりと小さく笑った夏野を見て、隣の席の生徒は大きく瞠目していたのを夏野は知らない。






十月に入って、外は少し秋を匂わせ始めた。色付き始めた木々に、じぐざぐに飛ぶトンボの群れ。まだ日の光は強めだったが、九月よりも大分ましである。
過ごし易い季節になったものだと、以前は嫌っていた窓辺の席で頬杖をつく。徹を見つけるまでは暑くて眩しくて損ばかりのその席だったが、例の習慣ができてからは少しその席も気に入るようになっていた。
教科書とノートを揃えて机の上に並べる。チャイムと同時にこめかみのあたりが気になる壮年の教師が入ってきた。今日は水曜の三時間目だ。教師の指示をするページとノートを開いて、外をちらりと見た。

―――いない?

いつもならこの時間は、徹が仲間と騒ぎながらグラウンドを走り出す頃だ。別段今日は天気が悪いわけでもない。なのに今日のグラウンドは、人っ子一人見当たらない。
いつも通りなら、と考えて、思い当たる。そうか、体育館授業だ。
サッカーの授業のあとは、バスケットボールだというのを徹から聞いた覚えがある。徹は普段引きこもってゲームをしている上に、あのへらりとした風体だ。運動とは縁がないのかと思いきや、本人曰く皆でやる体育のような運動は好きらしい。実際、サッカーは何人もいる同級生の中でも、かなり上手い方だった。
まぁこれで授業に集中できるからいいと考えればいいではないか。自分にそう言い聞かせて、途中だった板書を再開する。そもそも徹を見ているだけで大事な授業の時間を潰すなんてこと自体が自分らしくない。これで正常に戻るのだと。
しかし、その日は余所見をしていた時よりも身が入らず、気付いたら終了のチャイムが鳴っていた。


授業後の十五分休み。自分でも最悪な時間の使い方をしてしまったと思い、自己嫌悪に深く溜息を吐いた。次の授業はなんだったかとうつらうつら考えていれば、突然教室の入り口付近が騒がしくなる。思わず目を向けてみれば、体育ジャージのままの徹と目が合ってへらりと笑われる。その笑顔にどう対応していいか分からず固まっていたら、「おーっす夏野」と笑ったまま近寄って来て、目の前の空いていた席に座られる。徹はそのまま夏野の席の方を向いて、机の上で腕を組んだ。

「勝手に目の前座るなよ。あと、あんた汗くさい」
「なはは、バスケだったからな」
「ふうん」

知ってた、とは言わず、さも興味なさそうに返答する。なぜ徹が体育が終わってそのまま自分の教室に来たのかは不明だが、下手に何かを尋ねるよりもいつも通りの体が無難だろう。そんな風を装った夏野の顔を見て、徹はにやっと笑った。その笑みがどこか、胡散臭い。

「だってな、いなかっただろ?」
「は?」
「こーてい。夏野、いつもここから俺のこと見ててくれただろ」

俺実は知ってたんだからなーなんて得意げに笑う徹を前にして、どんどんと頬が熱くなっていくのが分かる。なんで、嘘だ、見てるわけないだろ、分かってたならとっとと言え。どれも墓穴を掘ってしまいそうで、一度開けた口は何も零すことなくぎゅっと固く結ばれた。

「なーっつの、かわいいな」
「う、るさい。男に可愛いとかいうな気持ち悪い。あと名前っ」
「…夏野、顔赤い」
「日が当たってるせいだ、ばかっ!」

そう言って軽く頭を叩けば、逆効果だったようで更に満面の笑みになる徹。お前は叩かれて喜ぶのかと悪態を吐こうとしたが、不意に片手を取られてそのまま上から被せるように軽く握られる。なに、と尋ねる前に徹の体が傾いて、目の前には夏野の机に伏せた徹の姿が広がる。驚いて振り払おうとしたが、徹の体の下敷きになった手は、なかなか引っ張りだせない。困ったように徹の顔を覗き込めば、少しずらして現れた目が緩やかな弧を描いた。

「夏野、この席いーな。日の光が気持ちい」

夏野もいるし、眠たいと呟いた徹は、やっぱり夏野の手を離さないまま。むしろその手を頬の下に敷いて寝始めてしまった。その瞬間芸にたじろぐが、当の本人はもう微かな寝息を立て始めていて。どうしてこうなったのか。考えても自由奔放な徹のことだ、きっと答えは出ない。
目の前でふわふわと揺れる髪に、自分も思わず眠気が誘われる。秋になって和らいだ光が、徹の髪をきらきらと光らせる。お日様を纏ったようなそれに、思わず笑みが零れた。


「やっぱり、この席でちょっと良かったかもな」


誰に聞こえるでもなくそう一人呟いて、夏野は徹の横に突っ伏した。
穏やかな日差しが、じんわりと二人を温めたある秋の頃。








結城、武藤。そろそろ授業始めたいんだがな…いいかな





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