ヒトという生き物 ふらりふらりと場所を転々とする、私は根無し草。 数日前からこの家の近くに居ついた。 この家の主は職人らしく、昼間はいろいろな音が家の隙間から溢れてくる。 その間は耳の良い私には辛くてあまり寄り付かないけれど、日がとっぷりと暮れた後の家裏は私のお気に入りだった。 ガラリ、 薄く光を外に漏らしていた障子が開く。 何かを探すように窓から顔を覗かせた人物を確認して、とっとその窓枠に飛び乗る。 部屋の主は少し驚いた顔をして、それから柔和に微笑んだ。 喉元を、私の喉が鳴るまで。 それから耳から額にかけてをなぞって、うりうりと額を指で掻き回す。 それから、ちょっと待ってろと言って主はドアを開けて部屋から出て行った。 戻ってきた主の手には、うっすらと湯気が立ち上るホットミルク。 ここまで、恒例事項。 彼の名前は“ナツノ”と言うの。 一見冷たそうな外見と裏腹に、彼はとても優しかった。 ずぶ濡れで右往左往していた私を連れて帰り、今日だけだからとその部屋に泊まらせてくれた。 雨音の響く部屋、そっと私の頭を撫でながら、親が嫌がるから飼えないんだという言葉に、私も丁度いいと返事をした(勿論相手には伝わっているかどうか分からないけれど)。 首輪をつけられるのは嫌い。 誰かに縛られるのは嫌い。 ふらりと、自分の好きなように、自分の意思で生きていたいわ。 そんな言葉を伝えることはできないけれど、次の日迷い無く窓枠に飛び乗った私を見て、彼は私がそういうタイプだと理解したみたい。 窓枠に頬杖をついて、俺もおまえみたいになりたいだなんて少し切なげに細められた目が強く記憶に残った。 その表情が本当に切なげで。 だからかしら、私は毎日のように窓枠にお邪魔するようになった。 そんな私を彼は優しく受け入れた。 昼間、ぶらりとしていた時に彼を見かけた。 部屋で見せる表情は身を潜めて、随分と冷たくて硬い顔をしていた。 その時の表情、彼の醸しだす空気。私はよく知っていた。 石を投げられたり、罵られたり、理不尽な制裁を受けたり。 彼のように心を許せる人間もいれば、反発して敵対する人間もいる。心に棘を生やす対象の人間がいる。 彼はその棘が、大勢の人間に対して生やされているのだろう。 自閉的で、閉鎖的な。酷い人間不信を抱いた私の仲間のようだわ。 折角、あんなに切なげな、惹きつける表情をする素敵な人なのに。 勿体無いわ、と塀の上から彼を眺めていたら、不意に彼の空気が変わった。 驚いて彼の目線を追えば、そこには明るい髪色をした柔和に笑う男の人がいた。 随分と、柔らかい雰囲気。その独特な雰囲気は好印象。 気になって二人を眺めていれば、“ナツノ”の表情に目を奪われる。 ああ、私はこの表情をあの窓枠で何度も見たことがある。 その夜窓枠に上れば、“ナツノ”は珍しくベッドに転がっていた。 眠っているところを邪魔したかしらとベッドに目を向ければ、こっちを見ていた“ナツノ”と目が合う。 どうやら起きていたらしい。 そのまま己の横、空いているスペースをぽんぽんと手で叩く。 私は普段他の人間に同じようなことをされても全く靡かないのだけれど、今日だけはいいかしらと音を立てずにベッドへ飛び乗った。 特例よ。もう次はないからね。でも、今日だけは。 人だったら溜息というものを零していたのかしら。私はすんと鼻を鳴らしてから、寝転がったままの彼の顔に顔を寄せ、目尻を舐めた。 途端広がる、少ししょっぱい味。 決壊してはいなかった。でも今にも溢れ出しそうだったそれは、私が舐めたことが引き金になったのか、ついに決壊した。 幾筋も頬に伸びるその涙を、丁寧に丁寧に舐め取っていく。 そんな私を見て、“ナツノ”は悲しそうに微笑んだ。 ああ、またその表情をするのね。 “ナツノ”は“トオルチャン”が好きなんだって。 でも“トオルチャン”は“カンゴフサン”が好きだから。 囁くように、少し涙声で紡がれる告白に、私の頭の中で一人の人物が浮かぶ。 昼間、お日様の光を纏ったような、柔らかい雰囲気の男の人。 きっと、“ナツノ”がいっぱい生やした棘を、そのまま包み込んでくれている優しい人。 素敵な人ね。接触したことはないけれど、きっとそうだわ。 だって、あなたの表情が、本当に幸せそうだったもの。 “カンゴフサン”が誰かは知らないけれど、ねぇ“ナツノ”。 あなたはその感情が独りよがりと嘆いて、こんな暗がりで涙を流すけれど。 あなたは、お日様の光が眩しすぎて分からないのかしら。 近寄りすぎて、ちゃんと見ることができていないのかしら。 あなたのその焦がれた想いは、独りよがりでもなんでもない。 鏡で映したように、同じ表情をしているのを、私はちゃんと見ているわ。 磁石のS極とN極のように、空気が引き合っているのを、私はちゃんと感じているわ。 ねぇ、ヒトという生き物はなんて愚かなの。 たくさんの伝える手段がある。 たくさんの触れる手段がある。 私ほどじゃなくても、相手を見ることができる視覚がある。 私ほどじゃなくても、相手の声を拾うことができる聴覚がある。 あなたは全て持っているじゃない。 私があなたにこの想いを伝えることより、ずっとずっと簡単だわ。 ねぇ、可哀想なヒト。 明日はきっと大丈夫だから、その目を大きく開いてみなさいな。 お日様はきっと眩しいけど、きっとあなたと同じ表情をしているわ。 そして私は最後の涙を舐め取った。 この想いは、伝わるかしら? 声を上げて笑ってしまいそうになるほど、不器用でかわいそうな生き物 back |