しかし、敏夫の口から紡がれた言葉は、肯定でも否定でもなく。
瞬時に背筋を走った悪寒に振り返れば、そこには呆然と佇む友人の姿があった。生まれつきの色素の薄い髪が、陽光に煌めいている。言葉なく立ち尽くしたその瞳が、射るように夏野を見つめていた。
一体どこから聞いていたのか、どうしてここにいるのか。口を突いて出そうな言葉は音になって発されることはなく。ただただ夏野を突き動かすのは、ここから逃げろという衝動だ。
躰中から嫌な汗が噴き出して、思わず衝動のままに思い切り後ずさった。

「っ夏野!!」

途端、足場がなくなって躰が一瞬宙に浮いた。
何が起こっているのか。気持ちとは裏腹に冷静な頭が、スローモーションのように映像を捉えていた。二つの驚きに見開かれた目が、自分を見つめている。まだ、二人ともこっちを見てくれている。その場にそぐわない妙な安心感に、笑ってしまいそうになった。
思い切り地面に背中を叩きつけて、その衝撃で揺らいだテーブルから灰皿が転がり落ちる。一瞬だけ凪いだ夢心地を、現実に引き戻す痛み。
焦った様子で近づいた徹から距離を取るように、上半身だけ起き上がらせて両手のひらを目の前に突きつけた。

「悪い、悪い……わ、忘れてくれ。もう、家にもいかないから。俺も、忘れるように努力するから。もうちょっと、もうちょっと待ってくれたら――」

灰が舞っている。
亡骸だ。
まさに、俺じゃないか。
突きつけられた手のひらと夏野の言葉に動きを止めた徹を見て、込み上げてくるのは悲しみではない。道化のような自分を嗤い飛ばしたくなる嘲りの念だ。我にもなく号哭しそうになって、顔がくしゃりと歪んだ。
こんな無様な自分は、どのようにその瞳に映るのだろう。諦めるだなんて嘯いているのに、こんな泣きそうな顔をして。醜態を晒すばかりだ。

「……夏野くんさ、それなら俺にその気持ち向けるのはどうだい。そこの彼より、ずっと幸せにしてやるよ」

灰と薄い水の膜で滲んだ視界で、敏夫がいつものような優しげな笑みを浮かべているのが分かった。先ほどの静かな瞳は、柔らかに細められていて。
髪にかかった灰をそっと手で払われる。無骨な手はそれでも以前と変わらず温かくて、変わらぬそれに目眩がした。
そして、伝えられた言葉が上手く消化できない。真意を探るように首を傾げて見上げれば、困ったような笑みをした敏夫にしゃがんで目線を合わせられた。
「なんだ、信じてないってか理解してないって目だな」と苦笑混じりに呟かれ、ある日のように耳元に指を差し入れられて顔を近づけられる。
(俺、俺は――)



「――だめだ」



途端、急激に開いた距離に陽光が差し込んで、思わず目を細めた。
驚いて振り返れば、己の腕をしっかりと掴んでいる徹と目が合って、気まずそうに眉を顰められる。その表情が恐ろしくて、引き留められた嬉しさよりも、掴まれた部位から急激に熱が下降していくようだった。
敏夫の言葉の答えを自分でまだ見つけていないとはいえ、今徹の目の前で繰り広げられそうになったのは、同性同士の恋愛を匂わせた遣り取りだ。敏夫が最終的にどういう行為に及ぼうとしたのかは定かではないが、至って普通の異性愛者である徹にとっては見ていて好ましいものではないだろう。
そんな夏野の心情を知ってか知らずか、続けて告げられた言葉に夏野の時が止まる。

「夏野と同じ気持ちかは分からない。けど、夏野がどこかにいくのは――嫌だ」

最初は耳を疑った。往生際の悪い自分の脳が勝手に生み出した妄想の産物ではないのかと思った。
けれど、しっかりと夏野を捕まえる徹の手は力強く、まるで放すつもりは毛頭ないように感じられた。
じわじわと全体に行き渡るように浸食していくその言葉の嬉しさに、本能的に躰が震えるのが分かった。徹に気味悪がられて放されるのが嫌で、その躰を腕で抱きしめるようにして震えを押さえ込む。
その体勢のせいで俯いた視界に、敏夫の足が映り込む。
一歩、二歩、前進して、止まる。零れたのは呆れたような、失笑を含んだ溜息だ。

「子供のわがままだな。それで彼が幸せになれるのか?」

夏野は、自分の時が止まるのが分かった。俄には、敏夫の言葉が理解できなかったからだ。
きっと敏夫のその言葉は、自分自身を直向きに見つめてくれているからこその結果なのだろう。結局、敏夫は夏野を無辜としてくれたのだ。罪を告げる前と何ら変わらぬ敏夫の態度が、その真実を裏付けしてくれていた。それは思わず涙してしまいそうになるほど嬉しいことだった。
しかし、夏野は徹の言葉のままで十分だった。夏野から向けられる気持ちを知った上で、徹が以前のように自分の傍にいてくれるということは、何よりも嬉しいことだった。夏野が一番恐れていたのは、自分の徹に向ける感情が知られることで、以前の関係が完全に崩壊してしまうことだ。気持ちが同じではなくても、気持ち悪がられても、傍にいたかった。幸せだなんて、望んでない。

「せんせっそれは……」

慌てて敏夫に自分の意思を伝えようと一歩踏み出した刹那、今度は思い切り腕を引かれて徹の腕の中に躰ごと閉じ込められてしまう。

「幸せに、してみせます」

――夏野がどこかに行ってしまうのは、自分自身が幸せになれない。もし、夏野が自分と一緒にいることで幸せを感じてくれるのであれば。
いつか夏野の想いに応えてあげられるかもしれない。そんな未来は、今の時点で明言することはできないけれど、今は自分の最も近くにいるこの存在を失うのは、誰かに盗られるのは、どうしようもなく許せなく思う。
躰を包む熱に何が起きたのかが理解できず、夏野の頭の中は真っ白だ。
事切れたシナプスをどうすることもできずに立ち竦んでいる夏野の頭の上で、交わされるのは睨み合うような視線。
永遠にも感じられるような三竦みの均衡を破ったのは、吐き出すような敏夫の嘆息だった。

「……あーあ、言ってくれる」

そんなことを夏野の思い人である徹に言われてしまえば、敏夫の入り込む余地はないだろう。困ったように、無造作に散らばった頭髪を掻くと、白衣の内ポケットに手を差し入れた。ゆったりとした動作で煙草を一本取り出して口に咥え、そのまま口元に手を添えたまま、ふっと口角を上げた。それは夏野のよく知る、敏夫の悪戯そうな笑みで。

「下手でも打とうものなら、俺が結城くんを貰うからなー」

思わず目を見開いて見蕩れている夏野の姿に満足したのか、くるりと踵を返して病院へと戻る道を辿っていく。
「先生、俺、」
遠ざかっていく背中になんだか胸の奥がざわりとするようで、夏野は思わず口を開いた。
けれど、開いたところで一体どんな言葉を掛ければいいのだろうか。謝るのも、礼をいうのも、引き留めるのも、今後また以前のように親しくして欲しいと言うのも。何を言うのも間違っているような気がした。そもそも、自分がそんな言葉を敏夫に投げかける権利などあるのだろうか。個人の都合で勝手に振り回してしまって、結果、自分は敏夫に何を残せたのだろうか。子供の恋愛沙汰に、しかも同性だなんて、敏夫にとっては迷惑以外の何物でもなかっただろう。そう思うと、次の句が告げずに戸惑ってしまう。
振り向いた敏夫は、そんな夏野の心情を読み取ったのか、ふっと目を細めて笑った。

「またクレオールでな、夏野くん」



* * *




後ろ手を振りながら、敏夫の姿はドアの向こうへと消えた。
残ったのは、変わらず合唱を続ける蝉達と、暑さを忘れたように抱き合う二人の姿だけ。
ふと夏野が我に返って慌てて徹の腕から抜け出そうとすると、許さないというように更にしっかりと夏野の腰の辺りで交差する腕。驚いて斜め上を見上げると、何故だか渋い顔をした徹と目が合う。どういう態度を取ったらいいのかと気恥ずかしさで逃げ出したかった夏野だが、予想外の徹の表情と自分をどうやっても放そうとしない腕の力に、何だか気が抜けてしまう。
なんて声を掛けたらいいのだろうと夏野が考えあぐねている間に、徹の方が先に覚悟が決まったようだった。

「……尾崎先生とクレオールで会ってたんだな」

溜息混じりに告げられたその言葉の真意が分からず首を傾げれば、気まずそうに目を泳がせながら徹は口を開いた。
夏野がなかなか家にこなくなったのがなんだか嫌だった。
その理由があの先生だって分かった時に、胸のここらへんがむかむかした。
それが夏野と同じ恋なのかは分からないけれど、夏野があの先生に盗られるのは絶対いやだ。
次々に愚痴のようにこぼされる言葉は、まるで子供が駄々をこねるようで、思わず夏野の口元が笑みを象った。徹の言葉が一体どういう感情に繋がるかは分からない。しかし、以前と変わらぬ、以前よりも少しだけ歩を進めて、当たり前のように近くにいてくれている徹に込み上げるのは嬉しさばかりだ。

「そうやって、思ってくれるだけでいいよ」

今は、それだけで十分だ。
未だ回されたままの腕に甘えて、夏野は徹の胸に頭を擦りつけた。







髪が揺れた拍子に舞った亡骸は、陽光に煌めいて随分と綺麗に見えた





back




「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -