「――の、夏野!聞いてるか?」
「……っえ」

いきなり目の前に現れた顔に、驚いてバランスを崩しそうになりながらも後ずさった。背中に、古びたバス停がぶつかって我に返る。
逆光で上手く目視ができなかったが、肩を大げさに大きく上げてから、呆れたようにだらんと下ろすそのわざとらしい仕草をするような人物は、夏野は一人しか知らない。

「い、きなり目の前に現れるなよ、徹ちゃん」
「おいおい、もう遠くの方でおまえを見つけてから、ずっと呼び続けてたんだぞ。どうした、ぼうっとして」

そう言って徹は唇をへの字に曲げた。
天然のものなのか、寝癖のものなのか、はたまたセットしたものなのか、くるくるとした徹の髪が初夏の風に揺れる。少し伸びてきて目にかかる前髪に垂れ目を細めている徹を視界に納めて、夏野は小さく溜息を吐いた。普段ぼうっとすることなんて滅多にないはずの自分の失態に、少しだけ恥ずかしさを感じて。
まだ来そうもないバス。徹に無理矢理肩に腕を回されて促され、色褪せたベンチに二人して座った。

「なんだか、最近おまえぼうっとしているな?どうした、お兄さんに相談してみろ」
「お兄さんに話さなければならない義務はないな」
「むう……しかしな、なんでおまえは最近そんなに、楽しそうなんだ?」
「……楽しそう?」

ぐいぐいと近づけられる顔を手のひらで押し退けながら、ふと耳に引っかかった単語に思わず聞き返してしまった。じっと徹を見上げれば、気付いていなかったのか、と目で返されたような気がした。その目の色はなんだか深くて暗くて、吸い込まれそうで。見たことのない徹の目に少しだけ逡巡した。
思わず見開かれた目に、ぱっと徹が夏野から離れた。気まずげに視線を宙に彷徨わせて、指先で頬を掻く。

「最近あまり家にも寄らんだろう。だからそのぅ、何か良いことでもあったのかと……思ってだな……」

へにゃんと下げられた眉をはじめとする、頼りなげな大型犬のような面持ち。
さっきの目が見間違いだったようにいつも通りの徹に、夏野の少し強張っていた躰の力が抜けた。一緒に連むようになって久しいが、夏野の記憶の中では徹はいつものらりくらりとしていて掴み所のない人間のはずだ。さっきの目も、見間違いか、何かか。夏野は何故だか自分が酷く焦燥している気がして、制服の裾を握りしめた。

「特に、何もない。あんたには関係ないだろ」

だから、口を吐いて出た言葉も、いつもの徹に向けるような短絡的な言葉で。
いつもなら許されているから。いつもなら、そんなこと言うなよぉなんて間延びした声が、鼓膜を震わせるはずだから。人懐っこい笑みを浮かべて、こっちが嫌がっても抱きついてくるのだ。

―――なのに、いつまでも徹の口から言葉が紡がれることはなかった。

じりじりと、コンクリートから熱が這い上がってくるような気がする。胃のあたりが焼け付くような気がして、思わずへその上辺りの服を掴んだ。真上に輝く太陽が眩しい。だから、目線を地面から上げられない。日差しを浴びて萎れた雑草が、まるで自分のように感じられて居たたまれない。たらりと額を伝うこの汗は、果たして暑さによるものだろうか。
どれぐらい経ったか分からないが、息が詰まって窒息しそうになった時、遠くから大型車特有のエンジンの音が聞こえた。反射的に顔を上げれば、見慣れた村営のバスがこっちに向かって来るのが視界に入った。そして、驚いたようにこっちを見つめる徹の顔も。
反射的に口を開いて名前を呼ぼうとした瞬間、徹があまりにもわざとらしく、笑った。

「す、すまんな。ちょっと俺、学校に忘れ物、したみたいだ。だから、先帰っててくれ」

嘘だ。俺が悪いんだろう。なんであんたが謝るんだ。なんで逃げるんだ。俺を責めればいいじゃないか。
喉元までぐわりと込み上げた言葉は、ひりついた喉に貼りついて出てこない。からからになった口内で、どんどんと言葉が蒸発していく。陸に打ち上げられた魚のようにはくはくと口だけが動くばかりで、逃げるように遠ざかっていく徹の背を引き留めることは叶わなかった。
ドアを開けても気付かない夏野に痺れを切らせて、運転手が車外に向けたアナウンスを投げかけるまで、夏野の足はその場に縫い止められたように一歩も動かすことができなかった。



* * *



「なんだ、しみったれた顔して。そんなにつまらなかったか?」

徹と気まずい雰囲気で分かれた日から数日が過ぎた土曜日の、午前の診断が終わった頃。敏夫が貸してくれた本を返そうと、夏野は尾崎医院を訪ねていた。
日を追うごとに強くなって来た日差しを遮る、東屋の屋根の下。敏夫は返された本を片手で扇子にしながら、夏野の顔を覗き込んだ。

「いや……面白かったです。ありがとうございました」
「本は関係ないってか?ふうん……何があった」

敏夫は目を眇めて、断定的な言葉を吐く。いかにも敏夫らしい。ただ今は、その“らしさ”が怖かった。今ここにいて、敏夫と会っているということから全て失態のように思えてくる。
何か言葉を返そうと思った。けれどひりついた喉は言葉を吐き出すことを嫌がって、掠れた吐息が漏れるばかりだ。あの時から、蒸発してなくなってしまったかのように、言葉が上手く話せない。
仕方なしに見上げた顔に浮かんだ表情を、敏夫はどう受け取ったのだろうか。眉尻を下げて、困ったように笑われた。

「……君は大人に頼り慣れてないな」

少しだけ、呆れのような色を滲ませながら。
扇ぐことを止めた手は、緩慢な動きで白衣のポケットの煙草を探る。火打ち石の音が鼓膜を叩いて、小さな火が灯った。
じりじりと、身を焦がして、終焉に向かう、その様は。

(俺――俺、俺、俺、は)

徹の歪な笑みと、敏夫の呆れた顔と。脳裏に走馬燈のように過ぎり、急に、夏野は胸の奥が何も無くなったような気がした。
胸につかえていた何かが、もぬけの殻になる。ぽっかりと広がった胸には、ただ空虚な穴が広がるばかりだ。まるで、最初から何もなかったかのような。
――どうすればバランスが取れるのか、何をすれば最善なのかの判断が、もう自分では分からないでいる。
そもそも、最善の道など選べていたのだろうか。選んでいたら、こんな現状にはならなかったのではないだろうか。自分が必死で守ろうとしてきた“今”は、結局、最初から何もない空間で自分が見ていた夢でしかなくて――

「――待った、唇が切れるぞ」

溜め息のように吐き出された紫煙と共に、自分に差し伸べられる骨ばった手が視界の端に写った。思わず、その手から逃げるように躰を引けば、夏野の口の中にじわりと鉄の味が広がった。無意識の内に噛みしめていた唇が、とうとう悲鳴を挙げたようだ。その悲鳴に驚いて顔を上げれば、どこか寂しそうに笑う男が目に入った。

「俺は、君にとってそんなに頼りにならんかね」

予想していなかった言葉に瞠目する。慌てて首を振ると、じゃあ信用がないのか、と続けられて気が動転した。
一体何を言われているのか。誰からも投げかけられたことのないその言葉は、夏野を混乱させるのにひどく容易だった。

「――そもそも、人に頼っていいものなのか、分かりません。自分でどうにもならないことにならない限り、自分のことは自分でどうにかしないといけないと」
「それで、君は今、自分でどうにかならないところまで、来てるんじゃないのか?」
「それは……、……」

その先はいつまで経っても紡がれることはなかった。唇の端を赤く染めるほどだ。痛みを感じないはずはない。けれど、それすら気づかないほど、何かを堪えるように噛みしめられた薄い唇は固く引き締まったまま。

「――まるで、有罪判決を待つ受刑者のようだな。……もし君が自分を有罪であるとするならば、君が犯した罪はなんだ?」

酷く慚愧した様子の夏野は、断罪に恐れているそれのように敏夫には見えた。斜陽に透けた肩が小さく震えていることに、気付かないほど疎くもない。夏野の肩は、罪を抱えるにはあまりに細すぎるように見えた。吐き出すように大きく息を吐き、灰皿に煙草を押しつけた。
すると、チリチリと小さく音を立てて消えていく臨終の火に驚いたように夏野が顔を上げた。しばしその消えゆく様を茫と眺めていたが、火が完全に消えるのを見届けると、きゅうと眉間にしわを寄せた。先ほどの消えそうな弱いものではない、剛毅な瞳。
まるで、何かを諦め、享受したかのような。


「俺、気持ち悪いこといいます」


それから先は、まさに罪の告白のような口振りで夏野は続けた。

友人の武藤徹に惚れているということ。
友人を失いたくなくて自分の気持ちを悟られぬよう敏夫を利用していたこと。
その友人を己の過失で恐らく怒らせ、避けられてしまっていること。
そして今、自分の愚かさに大切だった二人ともを失おうとしている、こと。

静謐を湛えた意思の読み取れない敏夫の瞳の前で、夏野は自分が血を吐いているのではないかと思った。口からこぼれ落ちる言の葉はまるで自分の血液のようで、じりじりと躙り寄るのは間違いなく死だ。どんどんと指先が冷たくなっていく。

「俺の罪は、同性の友人を好きになって、今でも諦められないこと――です」

みっともなく、足掻こうとしている。口に出してみれば、自分はどれだけ愚かしいのだと心の底から実感する。安寧のために欲張ろうとした自分のような子供には、粛正がお似合いだ。
最後の言葉を断末魔のように吐き出して、夏野は目を伏せた。
一体敏夫からどのような言葉を投げつけられるのか、分からなかった。ただ一つ、言えることがある。
――今でも自分は、敏夫が自分の存在を否定しないでくれると、無様にも希っている。


「……だそうだ、徹くん」










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