「いらっしゃいませー……おや、結城さんとこの」

ギィィと少し軋んだ音を立てるドアが、来客を告げた。来客を迎えるのは、穏やかなジャズと淹れたての珈琲、古木の香り。
珍しい来訪者に、マスターである長谷川が浮かべた驚きの表情は、柔らかに溶けて笑顔になった。






咎と灰




四方に高々とした山を構え、山肌から突き刺さるように天に伸びる樅に囲まれて佇む、外場村。整然と敷き詰められた田園の合間に、ぽつりぽつりと家屋が覗く。初夏を迎えた村は、燃えるような緑に包まれている。

誰しもが口を揃えて外場村を田舎と称するだろう。
そんな村の一角に、少しだけ垢抜けた雰囲気を醸す喫茶店が佇んでいる。小洒落た字体でドアに書かれたその店の名は"creole"。長谷川が己の理想を詰め込んで開店した喫茶店だ。
開いた当初は村の雰囲気にそぐわないなどとうるさく言われたものの、壮年の住人たちに気に入られてからは、村の溜まり場の一つとして定着していた。
来客者の平均年齢が高いからか、少し敷居の高そうな印象を与えるクレオールに、若者の来訪は珍しい。本人もそんな空気を察したのか、おずおずとドアを開けてその場に佇んだままの青年に長谷川は話しかけた。

「ほら、そんなとこに立っていないで、こっちに座ったらどうだい。特に今はお客もこの暇人一人しかいないからね。初めてのお客さんだし一杯サービスするよ」
「だあれが暇人だ、誰が」

長谷川の優しい言葉に重ねるように、低い声が唸った。喫茶店には全くそぐわない白衣の男。医療か、理系の教師か。しかしどちらに当てはめるにも、ツンツンと大雑把に立てられた髪、無精髭、咥えられた煙草、更にはその横柄な態度が邪魔をする。

「はは、敏夫くん顔が怖いよ。ほら、可愛いお客さんが逃げちゃうじゃないか」
「ふん、そんなバカな。俺は狼でもなんでもないぞ」

ドアの付近で佇む青年―――夏野は気の知れた間柄での会話に、やはり来るべきではなかったかとドアを閉めて逃げだしたい気持ちになった。
ただ喫茶店を覗いて、そこにいるであろう人物に声を掛けて終わりのはずだった。
しかし、実際には目的の人物もいなければ、殆どお客がいない状態に帰るとも言い難い。挙げ句、敏夫と呼ばれた方の人物が、夏野に向けて自分の隣の席を引いて待っている。ぽんぽんと椅子の座る部分を叩かれ、無言の催促に夏野はそこまで足を運ぶしかなかった。

「あの、飲み物は結構です。俺、父へ言伝を頼まれただけなので……」
「言伝?」

椅子の手前まで足を運んで、足を止める。伏し目がちに床に視線を踊らせてから、長谷川を見上げた。カップを用意していた長谷川が、きょとんとした顔で夏野を見つめる。

「父にお客さんが来てるから家に戻るようにと、母から」
「おや、結城さんなら一足先に家に戻ったようだがね。行き違いかな」

さっきここで珈琲を一杯飲んで、時間を気にして出て行ったよ。と長谷川の口から伝えられた言葉に、夏野は呆然とした。行き違いという事実にではなく、ここから逃げる理由がなくなってしまった事実にだ。
夏野の表情からそのことに気付いたのか、敏夫がにやっとしてまた椅子の座席を叩いた。すごく、いい笑顔だ。
なぜ高校生の自分なんかと話したいのかは不明だったが、暇人と言われたようにこの人は話し相手が欲しいのかもしれない。厄介だ。しかし、こうなっては付き合わないのは失礼だろうことも夏野は分かっていた。大人の強引さに、子供が抗っても何の意味もない。仕方なしに、夏野は引かれた椅子へと腰掛けた。
おずおずといった調子で隣に腰掛けた夏野を見て、長谷川は満足そうに珈琲を淹れ始めた。敏夫は新たに煙草に火をつけ、頬杖を突いて隣人を見つめた。白い煙が、夏野の顔を擽る。

「結城さんとこの、夏野くんだったか」
「ああ、はい。でも、あの、名前……」
「ん?結城さんが言ってたから、知っているだけだよ」
「……そうではなくて、苦手なんです。名前で呼ばれるの」

条件反射で言い返してしまってから、内心後悔する。大人相手にこう意地になるのは、ひどく子供っぽく写るだろう。ロマンティストであり、この場の元凶である父親に、内心毒づいた。
しかし、その言葉は夏野の意図せぬ解釈で敏夫に受け取られてしまう。

「ほー?なんだ、もしかして好きな子にしか呼ばせないってやつかい?」
「ちがっ!……違います。ただ単に、女みたいな名前で嫌だっていうだけで」

予想していなかった返しに慌ててそれを否定する。にやにやと笑う敏夫に、心が細波立つのが分かった。
見透かしているのか、見透かしていないのか。
本心が読み取れないそのへらりとした態度に、焦燥する。これが、大人の余裕というやつなのだろうか。酷く自分が子供に扱われているように感じて、夏野は早く逃げ出したい気持ちになった。

「さ、召し上がれ」

夏野が心の中で悲鳴を上げた瞬間、折良く目の前にカップが置かれて、ふわりといい香りが鼻をくすぐった。夏野を今ここに押し止めている元凶は、この一杯の珈琲だけだ。黒い悪魔を飲み干せば、きっと翼が生えたようにここを飛び出していける。
そう思って、長谷川に軽く会釈をし、白いカップを手に取った。

(…………)

顔を覆う蒸気。
取っ手から伝わる熱。
夏野の口の中で、舌が勝手に縮こまる。
じっと珈琲の湯気を見つめる夏野を見て、長谷川と敏夫は互いに顔を見合わせて噴き出した。ぽんぽん、と横から頭を撫でるように叩かれて、夏野は顔を上げた。先ほどのニヒルな笑みではなく、随分と優しげな敏夫の笑顔に思わず戸惑う。こんな表情も出来るのか。最初から、そうやって笑っていればいいのに。思わず過ぎった考えに、心の中で小さく頭を振った。

「すまんな、からかって。もうからかわないから、ゆっくりしていきな。結城くん」

撫でられたり、諭されたり。子供扱いを、されている。
けれど、今回のは不思議と嫌ではなかった。敏夫の優しげな笑みも相まってか、随分とこの空間は居心地が良くなった。
ことことと音を立てるサイフォン式のコーヒーメーカー。ブラインドから微かに零れるあたたかな陽の光。さらりとした木目が美しいカウンターテーブル。天井に取り付けたレトロなスピーカーから流れるジャズ。父親がなぜこの店に足繁く通うのかを、夏野は少し理解できた気がした。



* * *



「やめやめ!ちょっと休憩だ。俺は一服するぞ!」
「そんなに長い間やってないのに」
「いいか、効率を上げるには休憩も重要なんだ。覚えておくといいぞ」
「……そんなこと言って、煙草が吸いたいだけでしょう」

ばれたか、と言うようにちろりと舌を出す敏夫を見て、夏野の口角が思わず緩んだ。未成年の前で自重せず煙草を吸うのはいかがなものかと思うが、それももう気にならなくなった。慣れてしまうほどには、ここに足を運んでいる。
少し冷めた珈琲を口に運んで、自分も一息つくことにした。匂い立つ珈琲の香りと、煙草の香りに安心する。
――昼の時間でなければ、店内は静かだ。勉強の息抜きに、夏野は時々クレオールに顔を出すようになっていた。息抜き、と言って参考書を持ってくる夏野に対し、敏夫がそれでは息抜きにならないだろうと顔をしかめつつも、アドバイスをする姿が日常化するには早々時間はかからなかった。

「本当、嫌味なぐらい勤勉だな君は。高校一年のこの時期で、大学受験か」
「万全を期しておいて損はないですから」

短くなりつつある煙草を指先で遊ばせながら、頬杖を突いて敏夫が夏野を見つめる。
視線の先には夏野が持ち寄った参考書の数々。表紙に踊るのは、どれも“大学受験対策”の文字ばかりだ。ところどころ癖がついたページと、事細かに引かれたマーカーのラインが、どれほど使い込まれているかを如実に表している。

「しかしなぁ、果たして俺が必要なのかどうか。ちょっと馬鹿な方が可愛げがあるぞ?」
「可愛げなんて求めたって、大学には受からない」
「はぁ……まぁそういうところが夏野くんらしいというか」

ある意味可愛げがあるというか。
不意に翳った視界に驚いて顔を上げれば、敏夫の伸ばした手が前髪を掠めるところだった。そのまま、耳元に指を差し入れられて髪を梳かれる。耳元を往復する優しい体温と、楽しそうに微笑む敏夫の表情にくすぐったさを覚えて身を捩った。

「子供扱いしないでください。それに、名前っ」
「はいはい」

乱れた髪を押さえながら言い返しても、どこ吹く風というように煙草をふかす敏夫。
しかし、他の人間ならば癪に障りそうな態度も子供扱いされることも、敏夫の場合は気にならない。それは敏夫のサバサバしていてあっけらかんとした性格が功を奏しているのかもしれない。本人に告げてやるつもりはさらさらないが、夏野はそんな敏夫の付き合いやすい性格を気に入っていた。
溜息をついて呆れた風を装って、持ってきていた本の一冊を開いた。指定されていたページを思い返しつつ数式に目を走らせていると、不意に、すぐ横で煙草の香りが強くなった。

「高三の数学の教科書?こんなの、わざわざ買ったのか」
「いや、これは、俺の……知り合いのです」
「知り合い?」

譲ってもらったってことか、と尋ねる敏夫に夏野は頭を振る。
譲って貰ったにしては、綺麗すぎる。夏野の持ち寄った本の中で、唯一と言っていいほど使用感がない。
まさか敏夫に尋ねられるとは思っていなかった夏野は、少し思案する風にして口を開いた。
脳裏に浮かぶのは、へらへらとした笑みを浮かべる馴染みの顔。

「……数学が、全然できないから。俺に教えて欲しいらしくて」
「ほほお。高一に教わる高三の図式は中々面白いものがあるな」

そういうこと、誰かにしてやる柄だとは思わなかったな。
敏夫に意味深と呟かれ、夏野は顔を僅かに赤くした。
自分でも柄ではないことは理解している。ただ、それを改めて他人に口にされると、じわじわと言葉にできないような感覚がせり上がってきて、居たたまれなくなった。

「別に……それはたまたま」

勉強ついでに。暇だったから。あいつがどうしようもないから。
―――どの言葉を並べても、墓穴を掘りそうで怖かった。そう夏野が恐れるほどには、敏夫の話術は巧みだ。見た目から気持ちを悟られないようにすることに長けてはいても、対話においては自信はない。
ふうん、と。敏夫はぐっと口を噤んだ夏野を不服そうに見遣ると、いきなりがばりと肩に腕を回した。

「う、うわっ…!いきなりなんだよ、あんたっ!」
「じゃあ俺がなんでも教えてやろう。ほら、ほら、大先生に幾らでも訊いてみろ?数学は俺の得意分野だぜ」
「っ俺は、先生が医者ってことが未だに信じられません……」

何か含みのある反応をされたのが気になったが、肩に回った腕によってその真意を問いただすことができなくなる。
上手くはぐらかされたような気もするが、夏野にとっても深く追求されたくない話題だったので、今はその腕に甘えることにする。
嫌がっているふりをして、腕を外そうと身を捩った瞬間、視界の端にちらりと敏夫がつけている銀色の腕時計が写った。
その針は、敏夫がクレオールに訪れた時間からゆうに一周は回っていて。
確か、敏夫は往診のついでにここに立ち寄って休憩を取ると言っていたはずだ。
慌てて、どう見ても白衣以外は医者の風体を醸していない男の腕を叩く。

「あんた、仕事はっ」
「え、あ、やべっ休憩時間過ぎてた!」

敏夫は夏野の肩口からわざわざ覗き込むように腕時計を一瞥すると、大して慌てた様子もなくゆっくりと離れた。
じゃあまた今度な、と敏夫は何だか妙に嬉しげに笑うと、くしゃりと夏野の髪を撫でて去って行った。

不意に煙草のにおいが強く感じられて灰皿を見れば、敏夫が消しきれていなかった煙草の微温火がくすぶっていた。
大雑把な所為がいかにも敏夫らしい。なんとなしに、その煙草を摘んで指先で踊らせる。小さくなった体の先で、ちりちりと未練がましく、燃えている炎。

(身を焦がして、最終的に消えてなくなるというのに、まだ抗って。まるで、俺みたいだ)

敏夫に深く追求されないで良かった。敏夫との会話は、すごく心地が良い。一時、何もかも忘れられるほど。
絶対に、この空間を壊してはならない。
それが、敏夫を逃げ道にしていることに他ならないことは、夏野自身もよく理解していた。
けれど、意識をどこかに逃がさなければ心の天秤が崩壊してしまいそうで。逃げ道がほしかった。
無意識に髪の毛に触れると、最早癖のように己の髪に笑顔で触れてくる敏夫の顔が脳裏に浮かぶ。思わず、口元が笑みを形作るのが分かった。

――そうだ、俺はまだ、安寧がほしい。

だから。

夏野は迷うことなく煙草を灰皿に押しつけ、もみ消した。









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