不全と不能




それはたまたま視界に入っただけで、特に夏野との関わりを見せないはずの出来事だった。
名前も覚えていないクラスメイトに、大して興味もないよもやま話。普段ならどんなに大声で話していようとも意識が引かれることはなく、あっちはあっち、こっちはこっち、と完全に隔絶していたはずだった。何せ、毎日繰り返される大して内容もない言葉の応酬。興味を引かれることはない。
今回も、そのはずだった。いや、実際内容自体は全くもって夏野にとって無意味で無価値だったのだが、結局そんな話に夏野は心底掻き乱されてしまったのも事実だった。

女子二人、男子二人。三人が一人の席を囲むようにして話し込んでいた。随分と親しげな様子の四人だった。
何かの拍子に、男子の一人が女子の手に触れたらしい。からかうように冷やかす残りの二人に、手が触れあった二人は茶化すなと口調を荒げるものの、お互いに頬を僅かに赤らめ、満更でもない様子だった。
茶化された方の男子が、悔し紛れにもう一人の男子に抱きついた。抱きつかれた方の男子はぎゃあぎゃあと騒ぐものの、もう一人はしたり顔で放すつもりはないらしい。こんな光景、学校生活には掃いて捨てるほどよく見られるものだ。そこまではいい。普段の夏野ならば、うるさいグループがいるな、程度の認識しか持たなかったであろう有り触れた出来事だった。


「ほらっ男同士で、気持ち悪いことしてないでよ!」


かつん、と。夏野の手からシャーペンが転がり落ちた。
シャーペンを落としたことに夏野が気付くのに10秒。拾い上げるまでに20秒要した。それほどまでに、耳を裂いた言葉は自分にとって威力が大きかったらしい。夏野が自らの手に収まったシャーペンを見てそう自覚するまでに、きっと30秒は経っていただろう。
少しばかり、指先が震えた。きっと、先ほどの言葉がショックだった訳ではない。ここまで動揺している自分がショックなのだ。
心の奥底に沈んでいた思いを掬い上げられ、再度その水面に強く投擲されたような思いだ。波紋が未だ消えない。
そうだ。“気持ち悪い”ものなのだ。
夏野は、同性に恋をしていた。









自失してから今まで。自分が一体何をしていたのか、夏野は思い出せなかった。気付いたら、目の前には見知ったドアが立ち塞がっていて、それを前に呆然としている自分がいた。このドアは、夏野の部屋のものではない。かといって、家族の誰の部屋のものでもない。
このドアは、武藤徹の部屋のドアだった。
無意識に足を運んでいた自分に気付いて辟易する。気を紛らわせたいとか、勝手に慰められたいだとか、そんな他意は全くなく、無意識だからこそたちが悪い。躰に染みついたように馴染み深いにおいを一息吸って、吐いた。間違いなく、溜息だった。
無意識に足を運んでいたとは言え、敷居を跨ぐ時に葵に挨拶したことは覚えている。挨拶までしておいて、何もせずに帰るなんて疑問を持たれることをするのは、あまり好ましくない。結局、自分はこの目の前のドアを開けるしかないようだ。

控えめにノックをした。
返事はない。
少し間を置いて、今度は少し強めにノックをする。
やはり、返事はない。

ドア先の無言に、夏野は小さく首を傾げた。確かに、葵は徹が部屋にいると言っていたはずだ。だからこそ自分はここまで足を運んだし、いないことを知らされて我に返ることもできなかったのだ。

「…徹ちゃん?」

ドアには鍵はついていないので、申し訳ないとは思いつつも夏野は静かにドアを開けて、中を覗き見た。
狭い視界から見える部屋は、あまりにいつも通りだったが、一つ見慣れないものが存在していた。
ベッドに学生服のまま転がって爆睡している、武藤徹その人である。
返事がなかったのは、どうやら夢の国に飛び立ってしまっていたかららしかった。その眠りは随分深いらしく、夏野が片手にドアを閉めてその隣に歩み寄っても、徹は微動だにしなかった。すうすうと、夏野の心と裏腹な安らかな寝息に、思わず肩の力が抜けてしまう。そのまま、足下に荷物を置いて自分も座り込んだ。
しげしげと徹の安らかな寝顔を覗き込んだ。伏せられた睫毛は閉じられた目蓋から短く生えそろい、顎のあたりにはうっすらと髭が生えそうな兆しがある。骨格もがっしりしているし、普段ゲームばかりしているくせに、半袖から伸びた腕には筋肉はほどよくついていた。どこからどう見ても、紛う事なき男だ。
そっと目伏せて、指で目元に触れる。母親の血を色濃く継いで、睫毛は重たげに長い。女性ホルモン過多なのか、髭も生えなければ産毛も薄い。骨格も、筋肉も、徹よりかは随分と頼りない。けれど、夏野は勿論よく知っている。自分が、自分も、どうやっても男であることに違いはないと。

そっと、徹に向かって夏野は手を伸ばした。特に何をしようと思ったわけでもなく、無意識に気付いたら伸ばしていた。
しかし、迷うことなく徹に伸ばされたその手は、その躰に触れる数センチ手前でぴたりと止まってしまった。
勝手に止まった自分の手に、夏野は驚いて目を大きく開いた。躊躇したわけではない。起こしてしまうかもしれないと、懸念したわけでもない。完全に、今の自分は無意識に手を伸ばしていたはずだった。
しかし、その先に手が伸ばせない。それはまるで、徹が見えない透明な壁を纏っているような、そんな感じだった。ほんの数センチの距離なのに、絶望的なまでに隔絶されているように夏野は感じた。男であるこの躰が、夏野の意識に歯止めをかけているようだった。結局、伸ばした指を強く握りこんで、夏野はその手を自分の膝に戻した。

どうして、こんなに近くまで寄ることができるのに。
触れたら、己の咎が徹に伝わってしまうとでも思っていたのだろうか。そう考えたらやるせなくなって、思わず夏野は唇を噛んだ。
なぜ、神様は雌雄なんてものを作り分けたのだろう。蝸牛のように、どちらがどちらでもあって、なかったら。性別が違うというだけで、こんなに罪の意識を追うことはなかっただろうに。そうしたら、あのクラスの男女のように、触れただけでお互いを自然と意識し、恋愛対象として認知することも可能だったはずだ。最初からこんな、終わっているような恋愛―――なんて。神様など一度たりとも信じたことのないくせに、一度たりとも祈ったこともないくせに、こんな時だけ縋るだなんて。どれだけ自分はご都合主義だったのだろう。
そっと両手の指と指を組み合わせて―――解いた。思わず喉から声にならない笑いが漏れた。

泣きたいと思った。
涙なんて出てこなかった。
当たり前に揺るがない現実を、夏野の躰は享受しているかのように。意識だけが、まだ無様に抗っている。甘い現実なんて広がることなどないと分かっているのに、唾棄すべき感情を未だ持てあましている。
だったら、こんなことを滑稽に考え続ける脳なんて、溶け出してしまえばいいのに。どろどろと溶け出して、排水溝に流れて、混濁として、霧散してしまえばいい。
からからに乾いた目を瞑った。真っ暗な中で、自分の足下から汚い汚い感情がどろどろと染みて広がっていくような映像が流れた。



―――ああ、このままだと徹の部屋を汚してしまう。



よろよろと立ち上がった夏野は、足下の荷物を抱え上げて部屋を飛び出した。結局、葵に疑問に思われるような立ち去り方をしてしまったわけだが、そんなことを配慮できる余裕は夏野に存在していなかった。足下からどろどろと流れ出る自分の感情が、足跡として残らないように精一杯足を開いて走った。
前後不覚で走っていたために、路上に存在していた見にくい段差に思い切り足を引っかけて、転んだ。畦道を走っていたために、バランスを崩した躰はそのままぬかるんだ田んぼに転がり込んだ。
全身が、どろどろとした泥色に染め上がった。
目の前に広がったその色に、ああこれなら流れ出てもきっと誰にも分からない、と。口元を歪に笑わせて、声を出さずに叫んだ。
俯いた頬をしとどに濡らすそれは、きっと愚かなことを考え続けた己の脳に違いない。






そのまま全部流れて、からっぽになってくれ






back




第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -