薄い壁一枚。そっと手のひらで撫でた。手のひらからは冬のつめたさしか伝わってこなくて、少し寂しい気持ちになった。
ガタン、と。隣の部屋から音がした。乱雑に靴を脱ぐ音。パサリとコートの類が投げられる音。ギシリとベッドが軋む音。すぐ耳元で聞こえる。
ああ、壁についた手のひらが、じわりと温まるような気がする。この手のひらの先には、きっとあの大きな背中が、壁に寄りかかっているのだ。そう思うと何の変哲もない、古びた壁すら愛しく思える。
コツンと軽く壁に頭を凭れると、壁の向こうで身じろぐ音。次いで鳴り響く携帯電話の着信音。慌てたような声がして、壁の向こうの主が電話を取ったことが分かる。ボソボソとだけど、壁越しに聞こえてくる内容。

「…、んなこと言われても…先のことはまだ分からない。まだ、俺たちには早くないか」

申し訳なさそうに告げられたセリフ。それと似たセリフを、以前も聞いたことがあった。その時も、この声は申し訳なさそうな声色をして。そして、少しヒステリカルな声が、内容までは聞こえないにせよ耳に微かに届くのだ。

「…ごめん、ごめん。俺には…」

また、壁の向こうで彼は辛そうな顔をしているんだろう。少し目をつむるだけで、鮮明に思い描くことができる。たれ目の目尻を更に下げて、まるで叱られた大型犬のような。

───おれ、おれはあるんだよ、徹ちゃん。あんたのこと、最期まで、しあわせに。絶対的な自信はないけど…覚悟なら。あんた以外に目をくれないって覚悟なら、あるんだ。一生、あんたしか見ないって覚悟は、あるんだよ。
あんたが恐れる不透明な未来だって、おれなら、こうやって明示してあげるのに。怖がるなら、手を引いて、ゆっくり前に進もうって。

まるで彼の背中をあやすように壁を撫でて、ぎゅっと膝を抱えた。膝に顔を埋めて、視界を真っ暗にすると、まるで背中合わせに一緒にいるような気分になる。微かながらも、耳に届く二人の電話越しの会話。そこに自分も混ざっているような。彼の隣に座って、聞き耳立てているような。
───なんて、戯れ言。その会話の中に、自分はいない。そう、どこまでも蚊帳の外。当たり前だ、だって関係、ないんだ。壁の向こう側の話だから。そう、関係、ないのに。



…コツ、コツ、


「…夏野、夏野。起きてるか?…俺、また振られちゃったよ」


遠慮がちに叩かれる壁。遠慮がちに投げかけられる声。
こうやって、一気に入り込んでくるから、たちが悪い。
さらりと壁を撫でた。この向こう側に、確かにいる。こっちを向いている。
隣にいることを知っているんだ。分かっているんだ。俺の存在を認めているんだ。遠慮した振りだけして、ずかずかと入り込んでくる。体のいい避難所だ。辛いときだけ。悲しいときだけ。この薄い壁は取り払われる。
でもあんたは、俺の部屋に入り込んでいるだけだ。俺の心までは入り込んでこない。俺の心なんて、この壁ぐらいに薄いというのに。あんたはそもそも、壁にすら気付かないんだ。

「…おいでよ、そんなとこいないで。すぐ近くにいるんだから」

コツン、と返事をするように壁を手の甲で叩いた。了解、というように、コツンと叩く音で返される。ギシリという音がして、徹が壁から離れたことがわかった。きっと、数分もしないうちに、ドアのチャイムが呆気なく鳴るのだろう。


なんとなしに壁に当てていた手のひらを頬にあてた。
熱を感じていたつもりのそれは、ひんやりと冷たかった。





結局壁一枚、隔絶したその境。
永遠に、そのまま。永遠に、壁の向こう。






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