ある日、夢をみた。
白いワンピースを着た少女と、洗いざらしになったような、これまた白いシャツを身に纏った少年が、二人きりでなにもない箱庭のような世界に漂っている。
その少年は、少年と呼ぶには鋭い目つきをしている。その視線を、夜の星達が混ざり合ったような、黒髪で打ち消すことが出来たとでも思っているのだろうか。 少年はただ、少女を見つめていた。おかしなことに、その少女は、―――少女だった頃の私にそっくりであった。

目鼻立ち、肌の色、長かった髪、すべて、あの頃の私をコールドスリープさせたようでもある。

私は耳を塞ぎたくなるような気持ちに襲われた。少女には、辛くなるほどにあの頃が詰まっている。
好きだった、憧れ、先輩、花びらが散るように儚く、呆気なく、美しさと紙一重の痛々しさが含まれた、甘やかなチョコレートや、刺激を伝えるような、スパイスが詰まった、パズルのピース達。

―――ずっと、好きでした。

嫌な声が、耳に纏わり付く。思い出したくもない、スパイス。青春は、美しいものばかりじゃない。美しいものは、目を反らしたくなるような醜さによって引き立つことぐらい、知っている。私の気持ちは、甘かったのだろうか。ずっと、胸の奥で締め付けられて、焦がされた、苦みにも似た甘味。

―――ごめん。

私の甘さは、そこで途絶えたようなものだ。
初恋は、叶わない。だからこそ、美しく思えるのだろう。それを美しいものにするのには、後始末が大事なのだ。私は胸を張って言える。
最初は、後ろ姿が見えなくなってから、唇を噛んで、涙を堪えた。
次は、他の女の子と並んで歩いているのが、悔しくて、一人で、狭い部屋の中心でテディベアを抱いて、泣きながら眠った。
三度目は、幸せになることを願ったふりをして、健気な女の子になろうとした。でも、だめだった。
諦めるのには、時間がいる。それに、完全に忘れることなんて出来ない。何時までもその記憶は後味悪く残っている。
大人になっても、私はその記憶のスパイスを受け入れることなんて出来ないし、優しくキスをするなんて、言語道断だ。
白い世界には、なにもなさそうなようで、沢山の絵の具がごちゃごちゃとしている。飽和状態だ。様々な記憶のパズルが混ざり合っていて、なにがなんだか分かりやしない。

「―――さん、起きてください。もう、朝だ」

目の前にいる、大きな彼は、私に敬語を使う。
皇帝、なんて呼ばれていたのに、少々、滑稽だ。皇帝が、一人の女に身を尽くしたような言葉を使っている。滑稽だ。

「おはよう、皇帝様?」

驚いたように、一つ年下なだけの男は、私をじろじろと眺めた。私が知っているとは思ってもみなかったのかもしれない。彼は思い違いをしている。私の感情の重さと、自分がどれだけ可愛らしい人間であるか、知らない。

「まったく、朝から戯れですか」

「戯れなんかじゃないよ、真剣。朝ご飯、食べたの?」

「もうとっくに」

呆れたように彼は私を睨むように見つめる。味噌汁の、いい匂いがほのかに香った。この人は、なんだかんだいって優しいから、私の分もつくっているのだろう。

「真田くん」

寝起きの声は、ぼんやりとしている。しかも、私は目が悪いので、尚更ぼんやりだ。実は、彼の姿も不確かで、輪郭がふにゃふにゃとしている。
眼鏡、その辺にないかな、まさぐる手は遮られる。真田くんが予期していかのように私に太めの縁の感覚を伝えたからだ。探るように眼鏡を触れて、耳に掛ける。はっきりと見えた世界は、クリアなようでクリアじゃない気もする。ふにゃふにゃな世界の方が、時々、鮮明に思えることがあるのだ。眼鏡ごしから見える風景は確かにしっかりとはしている。だけど、私にとっては、それが異常な風景にも写る。私の異常が、他人の正常になるのだなあ、なんて、感心して。

「ありがとう」

真田くんの顔は常に不機嫌そうだ。そんなんだから、老け顔なんて呼ばれるのよ、思っても言わないけど。それに、彼に近寄る女の子が少なくなるから困りはしない。他の、私よりも若い女の子にいかれたって、嫌になるだけだ。彼も、いくら見た目が大人びているとはいえ、私よりも、年下なのだ。同じ年の子か、男の人だから、年下の女の子の方が好きなのかもしれない。
それに、真田くんが整った容姿をしているから、不安になるのだ。きりっとした目元、すっと通った鼻筋、陽に焼けた肌、厚めの唇。背だって高いし、均整のとれた体つき。まさに、精悍、の二文字が似合う。

「顔、洗いにいってくるね」

眼鏡をかけたまま、ゆっくりと布団から出る。同棲はしているが、真田くんと布団は別々だ。彼はうぶというか、堅いというか、慣れて、いないのだろう。

「また、そんな格好で寝ていたのですか」

「こっちの方が、楽で、つい……」

素肌に、白いワイシャツ。下着なんて、胸に至っては着用していないが、隠れるところはぎりぎり隠れている。それに、散々見たようなもの、今更眉を潜めることはないでしょうに。
さらけ出された太股を目に入れた瞬間、真田くんは顔を手で覆った。それから、ため息をついて。全く失礼な。そんな汚いものでも扱うように。一応これでも、彼女である。ああ、でも身体ならグラビアアイドルの方がいいのだろうか。しかし、青年誌を立ち読みしている真田くんを想像するのも抵抗がある。そりゃあ、男の子だから、仕方がないのでしょうけれど。天から理想的なスタイルでも降ってこないかと思う今日この頃だ。

「朝からお目汚ししたね、ごめんなさい」

「い、いや、そんなことは、ないです。ただ、そんな無防備なままでいられると……」

彼なりのフォローのつもりなのだろうか、本当に優しいなあ、真田くん。傷つけないために、と言葉を選んでいるのだろう。優しさが逆に胸に突き刺さってくるのだが。

「いいよ、そんなこと言わなくったって。優しいね、真田くんは。そろそろ、顔を洗ってくるよ」

爪先立ちをして、艶のある黒髪を撫でた。そういえば、夢でみた少年も、こんな髪の色をしていたなあ、と思い出す。星の輝きを集めたように真っ暗。黒って、素敵な色だと思う。
彼は、髪を撫でられるという行為が、嫌いではないらしい。空気が一瞬だけ、柔らかくなる。ほんの少し、唇が不満そうに尖り、それでも、目は穏やかな海のようになるので、こそばゆそうな表情。最初は、眉をひそめていたので、嫌いなのだと思い、触れもしなくなったのだけれど、しばらくして、気がついた。
寂しそうに見えた。
真田くんの横顔が、寂しそうに見えた。
それがあんまりにも切なくて、私は手をのばしてしまった。

―――なに、するんですか。

―――真田くん、寂しそうに見えたから。

驚いたように、彼は私を見つめる。口調は怒ったようにも聞こえた。俯いた顔からは、表情なんて見えなかった。それでも、髪から、朱い耳が見え隠れしたので、その時、私ははじめてこの人の可愛らしさを知るのだ。子供のように、あどけなくみえて、その時だけ、私が年上になれたような気がして、私は小さな優越感を抱く。
ああ、私、真田くんに愛してもらえて、よかったなあ、とさえも思えた。

考えてもみれば、あの、目を背けたくなるようなスパイスは、この甘さを引き立てるために味わったのではないか。辛さがあるのだから、甘さが引き立って、甘さがあるから、辛さが美しくなる。私の生きるこの世界は、そういうふうに出来ている。そう考えたら、この世に無駄なことなんて、ないのかもしれない、無駄なことが、ある意味、人を美しくしていくのかもしれない。
足をふらふらと動かしていると、気がつけば洗面所についていた。
顔を洗うので、眼鏡を外すと、また、ふにゃふにゃ。輪郭も定まらないけど、なんとなくで蛇口をまさぐった。捻ると、水が出てきたので顔にかけてみる。冷たい。
顔をふって、水を払い、それでも落ちなかった水をタオルで吸い取る。うん、柔らかい。洗濯だけならば主婦になれるのかも。柔軟剤の使い方には自信がある。
それから、眼鏡をかけて、視界を鮮明にして。
今度はしっかりとした足取りで歩けた。裸足なので、フローリングの感覚がもろに伝わる。
つい、無意識に真田くんの姿を追ってしまう私がいるのにも慣れた。

「真田くん」

本当は、抱き着いてしまいたいぐらいなのに、真田くんの服の裾を掴むだけの私、臆病なのだろうか。

「まだ、その格好なんですか……」

「あ、ごめんね。真田くん、嫌なんだよね」

「別に、嫌なわけじゃ……」

真田くんは、はっとしたような、言ってはいけないことを言ってしまったような顔をした。墓穴を掘る、そのような言葉が一番似合う。
嫌なわけじゃない、ならばすきなのだろうか、そうなのだろうか。いや、好きでも嫌いでもない、というか、私にそういう、はしたない格好をされるのが、苦手なのではないか。

「ひょあっ」

首筋が、くすぐったくなる。甲高い声が喉から吐き出されて、思わずぎょっとした。色気なんて皆無である。
だというのに、真田くんは器用なことに、いつのまにワイシャツのボタンを第三ボタンまで開いてしまっていた。胸元が大きく露出し、さらされた胸に、髪が当たった。私は怒ることなんて出来ずに、ただ、穏やかな気持ちで彼の髪を撫でてしまう。

「……警戒心が、薄すぎます」

真田くんはきっ、と私を見る。言っておくが、そういうことをしようとしたのは真田くんである。それに、誰に対しても平気でいられるわけがない。

「真田くんだからだよ」

「俺だって男です。そのような、……ワイシャツ一枚でいられると、……自分の、自分の欲を抑えるのに必死なんです!」

真田くんの顔は赤く、ほてってしまったようだ。私はただ、目を丸くするばかりである。

「襲ってくださいとでも言っているようなものでしょうが、その格好は!」

「別に私、真田くんになら襲われても〜……」

「よくない!」

え〜、気の抜けきった声をあげると、真田くんが私のワイシャツのボタンを閉めてくれた。優しい。

「それに、我慢しなくていいよ」

「……止められないかもしれませんよ」

「別にいいよ。してよ」

悪びれずに唇を尖らすと、呆れたように見つめられた。

「そういうのが勘違いのもとなんです」

「そんなことないって」

真田くんがとうとう睨みつけるように私を見つめた。―――夢でみた、男の子は真田くんかあ
私は気がついた。そういえば、中学校に入りたての真田くんは少年っていう感じだった。
その時、私は幸せ者なのだとも気がつく。
だって、私はもう先輩よりも素敵な、真田くんという恋人がいる。
テディベアも必要ないし、唇も噛むことはない。真田くんの傍にいるだけで、幸せになる。

「真田くん」

「……なんですか」

「私、真田くんのことが好きだよ」

後ろから抱き着いてみると、真田くんはまた顔を朱くした。
世界にたった二人
(あなたがいるからわたしはしあわせなの)

薔薇子さまに提出
titleby 確かに恋だった
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