つばさがない | ナノ




ピョン、飛んで、ビュン、落ちた。ビュンビュンビュン、風を切る劈くような音で耳が破裂するかと思った。呼吸が出来ないその感触はまるでジェットコースターのようだった。なんだか、想像していたよりもずっとゆっくりと感じた落下速度は、実際本当に遅かったのか、それとも自分でそう感じただけなのか。走馬灯というやつはなかった。脳味噌は機能停止に備えてるみたいに黙りこくってただ落ちていた、乾ききった目を保護するためにブワリと溢れた涙を易々と追い越した。靴を脱いでそのまま、揃えることを忘れていたことは、後で屋上で発見した自分の上履きを見て気付いた。グチャリと、見た人の不快感を催す死体だったかもしれない、得体の知れない何かが飛び出していたかもしれない。でもそれは、私はいなくなった後の世界の話。誰かが泣いて、誰かが顔を顰めて、誰かが嘲って、でもそんなこともう関係無くて、そんな普通の、当たり前の。

しがらみも何もない世界、何もない世界。そこでまた私は落ちたいと願っているのなら、それは只の死に損ないみたいにも思えた。落ちたいけれど落ちるのが少し怖い。生きていた頃より少し怯えやすくなった気がした。

何もないことはたぶんいいことだけど、同時に少しだけつまらない。
何かしよう、かといって屋上の扉を開くことはなんとなく出来なかった。化けて出てやるぞなんて宣言した人もいなかったし。こういう気分の時はベタに小石を蹴ろうと思ったけれど、屋上には小さなコンクリートの欠片しか落ちてなくてどうにもならない。じゃあなにか、歌を歌おうとも思ったけれど、そういえば音楽ってあまり聞かなかったな。メロデイは浮かんでも歌詞は忘れちゃっただとか、その逆だとか、校歌や童謡以外に完璧に歌える曲なんてない気がする。なにをしよう、本とかもないし、寝るのにも飽きてきたし。でもなにも、なにもない。


「私、生きていたいみたいじゃん、へんなの」


でも、だって、けど。私だって死んだらてんごくとかそういうところに行くのかと思ってたのに、幽霊なんて、将来の夢の一つに入っていたわけでもないのに。
遠くの地面が近付いて、綺麗に飛べなかったことを小さく悔いて、潰れた私は気付かなくてもいいものに気付いて痛むチクリはどこの痛みなのか分からなかった。動いてる心臓とか臓器とか、ない気がする。お腹とかが減らないのは丁度胃なんかが潰れてしまったのだろうか。皺ひとつない制服のプリーツスカートに視線を落とす。


「みたいなんじゃなくて落ちなくてよかったんだろ」
「…は……、」


唐突な声の主はだれだろう。一瞬、向日岳人かと思った。振り返ってみると見覚えのあるようなないような、少なくとも知り合いではない人間が立っていた。私のことって、皆見えるのかな、もしかして私、生身?飛び降りたのは、現実だと思うけれど。死んだのだと、思っていたのだけど。


「…宍戸」
「は」
「宍戸亮。俺の名前。どうせ知んねえんだろ」
「はぁ、どうも、宍戸亮さん」


宍戸亮、名前も聞いたことがあった。クラス章を確認すると3年B組。隣の隣のクラスだ。やっぱりあんまり、知らない。唐突に話す彼はまたも唐突なことを言い始めた。なんか嫌いだ。そう思った。


「お前が死ぬところ、見たんだよ」
「…へえ、嫌なもの見たね」
「まぁな」
「でも君に落ちなくてよかっただとか、言われても困るかな」


嫌味に微笑むと、爽やかな春風がそよいだ。髪の毛が、小さく持ち上がるけど、もう余り風とかに揺られないから。私が動かないと動きを見せないのもは髪のほかに着ている物とか瞬きとかそういうところにもあった。自分の意思以外で動かないし、動かなくても支障が無いのだ。瞬きまでいらないなんて。不気味だなと、思った。


「でも、死ぬ必要なかっただろ」
「関係ないよ」


いい加減募ってきた嫌悪感は丸々宍戸亮にぶつけてしまいたくて、感情を隠したりせず面倒臭いという声音で言葉を吐いた。宍戸亮は私に対して何らかの情を持って接してくれてるようだけど、そんなならまだ向日岳人の方がマシだ。こういうの、全部捨ててきたと思ってたから。あ、やっぱり私は落ちてよかったんだ。だってこういうの、きらいだ。宍戸亮は格好良いお顔立ちなのに、私のせいでどんどんしかめっ面になっていくから勿体ない。多分私の方もしかめっ面になっているけど。私は可愛くないから崩れる顔もないし、大丈夫だ。


「ある」


変わらずまっすぐな瞳に苛々して、幽霊になったのに自分の意思で誰にも見えないようにするみたいな、そういうチートが出来ないなんてと絶望した。でも、普通の人には見えてないみたいだし、きっと宍戸亮は私がグチャッと逝ってしまうところをその目で目撃してしまった運の悪い人だったから更に運悪く私の姿も見えるんだ。よりによって、宍戸亮という人間が私を見えるなんて、面倒の極みだと思った。


「ない」


だってこの世界にはもう何もないんだもの。
たくさんの何かとの関連をかたどった糸があったとして、それを全て引き千切った私にまた新しい糸を結びつけることは許せない。何かあったらつまらないとは感じなかっただろうけど、何かあったら面倒臭くてまた落ちたくなったはずだ。何かが手に入らない代わりに何かを手放してもいいのなら、ぜんぶぜんぶ手放してしまえば良いんだ。ワガママじゃ報われないままイラつくだけになってしまう。そんなの嫌だった。


「あるんだよ」
「どこらへんに」
「俺がお前のことを好きだってところに」
「私は好きじゃないし」
「好きだ」
「知らない」
「知れよ」
「いらないってば」


死んだ人間が見えたからって告白はないと思う。それは生きていた私への思いで、私が死んだあとまで引きずっちゃいけない気がするし、というかいわゆる幽霊に好きだと言ってしまうのは見えてるところとかそこら辺からそもそもの精神が病んできているんじゃないだろうか。私が死んだところ見たからショッキングだったとか、そのせいでちょっと頭のネジが行方不明だというのなら、カウンセリングとかに行くことをお勧めしよう。
関係なんて理由なんて意義なんて私には見つけられないから、全部拒否したかった。久しぶりにした誰かとの会話は酷く憂鬱で、それはこんな話題だからだろうか。もう遅いってそう言うこともあるから今何か言ったって遅いんだよ。

もう遅い。彼はそれを知っているから泣きそうなのだろうか。


「なんで」
「私死んでるんだけど」
「知ってるよ、見たっつってんだろ」
「じゃあ花でも供えてどっか行ったらいいよ」
「傲慢だな」
「生前もそうでした」
「そーかよ」


とりあえず、もう手遅れだから、構わないでよ。
そう言い放つ私の言葉の刺々しさは天下一品だったと我ながら感心してしまう。宍戸亮の傷付いたと言わんばかりの表情に微かにスッキリとした手応えがあった。私だってダラダラとここに居座っていたいわけじゃないんだ。人の気も知らないで。幽霊になんてなったことないくせに。
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