つばさがない | ナノ




コンクリートの硬くて冷たい壁を靴底越しになぞるように撫でた。
足だけがブラブラと風に晒される。遠くに地面、足元には空気、頭上には空。
フェンスの網目に一つ一つ区切られた世界は声も届かないほど遠くに感じて、伸ばした腕の先がその鉄格子みたいなフェンスに行く手を塞がれた気がして指先が強張る。目の前の鉄格子がカシャと音を立てた。立ち上がればフェンスは私の胸辺りの高さまでしかないから簡単に屋上の空域以外の空気に手が届くけれど、立ち上がるのはなんだか面倒臭かった。今日もまた、まだ、外には届かない。ふと、後から微かな足音。それが誰だかなんて、振り返らなくても、声が聞こえずともわかっている。この間自殺があったばかりのこの場所に、わざわざ好き好んで訪れる人間なんてわたしと彼ぐらいだから。振り返らない。振り返ったりなんかしない。話し掛けない。話し掛けたりなんかしない。
彼は私の存在がまるでないみたいに接してくる。「接してくる」というのは無視してくるとか気付かないのではなく、すごく耳が悪いみたいに辛うじて曖昧に反応することがあるかないか程度ということ。私、こないだまで名前も知らなかった彼に嫌われるようなこと、したっけ。


向日岳人は空を飛びたいのだと言った。それが彼の、私に対する今までで一番まともな言葉だった。

突然、ガシャガシャと音を立ててフェンスによじ登り始めた向日岳人に目を細める。運動神経がよくて男子にしては小柄なために身体も軽い彼はサラリとフェンスの手摺に腰を下ろした。飛ぶのかな。そう思って観察していたけれど、結局彼はそのまま景色を眺めるように風に吹かれた後内側に戻って屋上から出て行った。なんだったんだろう。足は空中に投げ出したまま、後ろへ倒れるように寝転んだ。頭上の太陽が眩しくて目を瞑った。

鳥でもない限り、自分だけの力で飛ぶなんて無理なのに。向日岳人の無謀と比べれば、私の夢はまだ全然叶えられるところにある。だって私は、落ちたいだけ。
人はそれを自殺願望と呼ぶ。否定はしない。あながち間違っていないのだ、きっと。それを止める人がいたり、非難する人がいたり、涙を流す人がいたり。私は普通の幸せで恵まれた人間だから、不幸だ。
勢い良く空に飛びたって、勢いよく落下しようとしたとして、私の手首を掴んでくれる人間がいることは明瞭だ。たとえば向日岳人なら、そうはしないかもしれないけれど、それ以外の人間なら、私と何ら関係ない人間でも、私に死んでしまえと思っている人間でも、良心というものがあるのでこの手首を慌てて掴むだろう。もしそこに達成感が生まれるなら、私はやはり不幸だと思う。
死ぬことを望むわけじゃないし、私は普通の人間として育ってきたので痛いことは怖いし避けたいけれど、でもそれでも落ちていきたいという思いがある。死ぬ勇気はないけれど、落ちたい願望は大きい。もしノコノコと死に損なって老いぼれても、それでも最後は落下して逝きたいのだ。死んだらお骨を海に撒いてくれだとか言うのと似たものであるという風な認識を得られれば嬉しい。
誰だって落ちてしまいたいなぁなんて思う中学二年生な時代はあるだろう。それだ、それ。
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