ブルーロマンス | ナノ


おまえがみょうじなまえか

それは影みたいに細くて黒いその人の口から、私に向かって投げられた言葉。眼前の存在の現実味のなさ。それはこれまでに見た誰にも感じたことだったけれど、彼へのその感覚は群を抜いていた。ほんのりと漂う現実と言えば、彼のスーツに染み込んでいるらしき煙草の匂いぐらいだろうか。リボーンさんから香るだけで煙草の匂いがとても奥ゆかしいものに感じられて、それは彼の品のある所作が原因かもしれないと思った。深い色の眼差しで私を貫く。拳に緊張を握りしめて、無理矢理な呼吸で心拍を落ち着かせる。


「そ、そうです。みょうじなまえです」


ワンテンポ遅れて、やっとのことで返した言葉。つまらないほどのオウム返しに私の緊張が滲み出ていたのだろう。リボーンさんが微かに口元を歪めた。笑っているというよりはそれは相槌のようなものに思えた。

「聞いていた以上にただの小娘だな」
「はあ」

否定する意味もないほど、私は小娘だった。というよりは、リボーンさんがでっかい。一歩一歩と距離を縮めて私に向かってくる。コツ。踵が床に当たる音がひとつ響いた。そして彼は私の全身を品定めをするように見る。唾を飲み込んで、彼の表情を見ていた。

「手持ちの服は一着だけか」
「え、あ、はい。ここに来た時に着てたものだけ、です」
「事情は聞いた。突然現れたんだってな」
「…そういうことになりますね。私もよく、わかってないんですけど」
「わかっていない?ハッ、一番信用ならねえ言葉だな」
「ごめんなさい、でも、」
「いや、まぁ今それはいい。それより手前、いつまでもそればっかり着ているわけにもいかねえだろ。此処だって一応一流ホテルで通ってんだから、汚ねえ格好でうろつくな」
「汚いって…」

反論したかったが、少し怖かったのもあり、何よりリボーンさんの言い分は口は悪いけど間違っているとは言えなくて、続いて口から出て来たのは「…そうですけど…」という弱々しい声だった。確かに、どうしようもなくてこんな豪勢なホテルのゴージャスなお風呂場で下着を洗って干してバスローブだけ着て寝ていたのは私である。それはもう非常に空しい気分だった。だからと言って、なにかあるわけではなかったし。言い訳めいた内心の声が誰かに届くこともない。そして彼は唐突に言い放った。


「買い物だ」
「えっ」
「言っただろ、汚ねえ格好でうろつかれるとこっちも困るんだ。制服なんて尚更怪しいしな」
「はあ、それは申し訳ないですけど、でも」
「いいから来い。適当に見繕うだけだ。急ぐぞ。俺の時間の価値はスケジュールがら空きのお前とは違うんだからな」
「え、あ、待っ」


結局その後は何か喋ろうとするとうるさいだの、喚くなだのと聞いてもらえなくて。リボーンさんの車に乗りこんでしまい日本の町には少し不釣り合いな左ハンドルを眺めている。ラジオすら流れていない重たい沈黙の車内。どこへ行くんだろう。格好と言うことは服を買いに行くんだろうけれど。座席の革のシートをつるりと指の腹でなぞっては外を眺めていた。


「着いたぞ」


その一言で飛び跳ねるように起きた。うっかり眠ってしまっていたようだった。前もこんなことあったなと思いながら、苦笑いでシートベルトを外す。車内から出て直ぐに目に入ったガラス張りのいかにもといった感じのお店に、制服の裾を握り締める。無一文の私にはどこもかしこも敷居の高い高級店に見えていたけれど、ここは本当のイイお店なのが一目でわかる。かと言ってリボーンさんのことだから超高級ブランド店を択んだわけじゃないだろうけど、少なくとも女子高生だった私には手の出せないようなお店だろう。若くて賑やかな街のファッションビルに集うテナントとは違う。
いやだなあ。卑しいことを考えたいわけじゃないけれど、今からの流れくらいわかっている。どうして、どうしてこうなったんだろう。あの時、乱暴にとっ捕まえられて殺された方がマシだった。憧れのトリップで、彼らと関りを持ちたくないわけじゃない。でも、想像や妄想とかけ離れすぎている。息苦しい現実で彼らからの"借り"ばかりが増えていく。ああ、いやだ。
私がうつうつとした思考を回しながら立ち止まっていると、先に歩いていたリボーンさんが振り返る。そこの表情は見えない。読み取れない。他人の表情なんて、気持ちなんて、わからない。こわいなあ。


「何ノロノロしてんだ、はやく来い」
「、はい」


楽しく服を見る余裕なんてあるはずもなく。見兼ねたリボーンさんが店員さんに色々と言いつけていた。一着、二着…次々と。8を数えたところで、やっとのことでリボーンさんのスーツの裾を引っ張る。考えすぎて少し気分が悪かった。


「そんなに多く、要らないです」
「当たり前だ。最低限以上をお前に買い与える理由はないからな」
「はい、すみません」
「あとは適当に働いてホテルから出ていけ」
「…なるべく早く、そうします、すみません」
「暗い奴だな。手前が自分でほしいってのはねえのか」
「え?あ…ええと、」


リボーンさんに全て選ばせるのも悪い気はしていた。買わせてしまうのだからもはやどうしようもないけれど。ふらりと歩くと、カーペットを踏みつける感覚を柔らかく感じた。価格帯はとてもじゃないが安いとは言えない。ユニクロでいいのに、と考える。そういうところ知ってるのかな。いや、知っているよね。マフィアと言えども、漫画のストーリーがある程度正しいのなら日本の街でしばらく生きてきているんだし。ユニクロで服を買うリボーンさん、ううん、似合わないけれど。服の列にするりと指を通していくと、Tシャツの棚があった。リボーンさんが言いつけていた中にこういうラフなものが多いといいなあと思いながら、やわらかい群青色に目が行った。


「それか」
「あ、はい、これで」
「もういいのか」
「十分です。ありがとうございます」


リボーンさんは手早く店員さんにカードを渡し領収書に署名していた。大きな紙袋を後部座席に積むとすぐに車を出した。時間がないと言っていたし、何から何まで申し訳ないことだらけだ。また、沈黙が訪れた。


結局ホテルに戻ったのは9時だった。3時間。半日くらいに感じる長い3時間だった。リボーンさんはひたすら車を走らせ色々な店に行ってくれた。ひとつひとつの買い物は短く、お金を渡されて一人で行って来いと言われたのはランジェリーショップと薬局だった。生理用品ってこんなに高いんだ。今までは何も知らなくても生きてこられたから、思い知ってから全てを苦く思う。安いもの、安いものと選んだけど、人のお金だと思うと全てが高かった。最低限の数を買い、車に乗り込んで「お待たせしました」と言えば、リボーンさんはそんなに少なくていいのかとでも言いたげに怪訝そうな顔をしたけれど。


最後の店を出て、帰りの車内で少しだけお話をした。「ごめんなさい」から始まる短い会話だった。


「本当にごめんなさい、迷惑ばかり」
「本当にな」
「……」
「ツナだって延々とお前を匿う気はないだろう。関れば関るほどに面倒だぞ、俺達は」
「そうかもしれないですね」
「…マフィアだと知っているらしいな」
「…はい」


暫しの緊張感があった。関るなとわずかに牽制されたのはわかった。マフィア。非現実的な響きだ。そんな事、すぐにでも忘れてしまえそうなほど、ここはセキュリティ大国の日本なのに。今こんな風に話をしている間にも誰かが武器を構えているのかもしれない。まぁ私は、彼らがどんなことをするのかは、知らないけれど。リボーンさんが煙草を銜えて、ワンテンポ置いて口を開く。


「スパイではないと思っている」
「よかったです」
「お前からは一般人以上の力量は感じられねえからな」
「そうだと思います」
「殺意も、怨念も、そういう類いのモンは何ひとつだ、感じねえが」
「はい」
「妙に怖がっていやがるな」
「…そうかもしれないです」
「マフィアだからか」
「いえ、…私が知っていたはずの人達なのに、知っていた姿とは違って、」
「俺達のことをどうやって知った」
「……」
「パラレルワールドだと言うなら俺達がそこでもマフィアである可能性もないとは言えないが、少し考えにくい」
「………私がいたところと、こっちの、詳しい関係性は分かりません。けれど、信じてもらえるか分からないですけど、貴方達は架空の人物でした」


山本さんは言わなくていいと言ってくれた。でもいつか言わなければいけない。今言わなくても、そう遠い未来の話でもなかっただろう。バイト先を見つけて、ホテルを出る時には話すはずだ。漫画だとは言わないでおこう。架空。彼らはどう受け止めるだろうか。目を伏せてリボーンさんの言葉を待った。


「そうか、一種のパラレルワールドと言えないこともない…か」


パラレルワールド、だったのだろうか。『もしも』の世界。『もしも彼らが架空だったら』の世界と、『もしも彼らが現実だったら』の世界?それは白蘭が説明していたパラレルワールドに少し違和感を残すけど、納得してもらえるのなら、正否はどうであれ、それはそれでいいかもしれない。


「ごめんなさい。私が貴方達に憧れたりしたから、」
「謝らなくていい。言いづらいことを言わせたなら俺も悪かった。お前が俺達を恐がる理由も正当だ。今日のことも気にしなくていい。お前のためだけじゃないからな」
「ありがとうございます」
「今聞いたことはツナ達に報告するぞ、いいな」
「…はい。出来る限り早く出ていくとも、伝えてください」
「あぁ」


ホテルに着く頃にはまた元の沈黙に戻っていたけれど、リボーンさんは確かに私を励ましてくれた。本当に少しだけ、ほんの少しだけ。表情は最後まで読めない他人の表情だったし、いくつも読んだあの夢小説のようにもならなかったけど、たった3時間が長く感じるような窮屈な時間だったけど。どうせ深く関りを持つこともなく私はこの異世界の日本に馴染んでゆくのだろうから、このくらいで十分に感じた。まだ外は朝の明るい空気が爽やかで、本当のことを伝えられたことで私の気持ちも幾分晴れやかだった。私がしなくちゃいけないことは決まっている。はやくバイトを探そう。
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